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10頁 「幼年期の終わり」

ベスの庭仕事を手伝ったり気晴らしに庭を散策したりしていたから家の外に出るのは初めてではない。しかし、その限定された風景と現在の自由な場所は情報量が圧倒的に違う。

肌をなで髪を揺らせる風。そこに含まれる様々な匂い。大量の足音とそれに等しい数の呼吸音。熱を帯びた空気と湿気。目の前に立ち並ぶくすんだ色の建物の群れ。何もかもがハミルトン家にいたときと違う。ユニの鋭敏な感覚器官は周囲の情報をあますところなく精細に取り込み、それまで閉じていた感覚が次々に開発される。急速に世界が広がっていくめまぐるしさにユニはたじろいでしまう。

空を見上げればいつも通りの曇り空。この街の空はいつでも曇っている。灰色の雲の向こう側に何があるのかをユニは知らない。

道をたくさんの人間が行き交っている。当然、誰一人としてユニは知らない。フランシスカやベスのように猫耳も尻尾もついていない。髪も目の色も黒でなく、金色や茶色が主だ。貴人であるクロフォードの服と違い、彼らの服の形と色は地味で質素な印象だった。

往来の真ん中に突っ立っているユニにたくさんの視線が向けられている。そのことに気づいたユニは目立つのを避け、人の流れに乗って大通りの先を目指して歩く。

向かい側から歩いてくる人間と、ユニの横を並んで歩く人間がユニを見ている。かなりの数だ。彼らの目に嫌悪の色はなく、見慣れない珍しいものに目を見張っているようだ。人の群の中で真っ黒な黒猫はやはり異質であり、相当に人目を引く存在らしい。有名人になったようでユニの頬が緩む。世界の支配者にでもなった気分だった。


「((しと)やかに。お上品に)」


ベスに言われたことを思い出し、ユニは目を閉じ小さな胸を張って道を行く。そのうちにユニはかぐわしい薫りに包まれて目を開けた。

ユニは市場の中にいた。道の左右に色とりどりの食べ物を並べた出店が並んでいる。

食欲をそそる干し肉に新鮮な魚。みずみずしい果物に焼いたばかりのパン。そして鮮やかな花々と苗が生えた植木鉢。ユニは都に上ってきたばかりの田舎者のようにきょろきょろとしながら市場通りを進む。

腹を鳴らしながら果物屋をのぞいていると、そこの女主人がユニを見つめてくる。


「見ない顔の黒猫だねぇ。仮装ってわけでもなさそうだし……」


「わたし、最近生まれた黒猫なんです」


ユニの頭の猫耳と揺れる尻尾を見つめる中年の女主人に、ユニはもじもじと指と指を組み合わせる。


「へえー! 見ない黒猫だと思ったらどおりで。じゃああいさつ代わりに持ってきなよ」


女主人は豪快に笑い、台に並べてあった赤い林檎(りんご)を三つ、ユニに手渡す。


「わたし、お金持ってないんです」


「いいっていいって。これはお(そな)えみたいなものなんだからさ。気にせず取っておいておくれよ」


「黒猫が、わたしが恐くないんですか? 黒猫は人を死なせるみたいですよ」


「そりゃあ中には黒猫を恐がる人もいるさ。でもたいていの人間は街の黒猫を守り神みたいに思ってるよ」


「守り神、かあ」


思わぬ好評にユニは嬉しくなって尻尾を激しく揺らせる。


「それに黒猫の力を当てにするようになったらお終いだよ。黒猫が街にいるからあたし達は頑張らなきゃって思うのさ」


「はぁ?」


意味が分からず耳を垂れさせるユニに女主人は大笑いする。ユニは林檎の礼を言って屋台を離れた。

市場を進むたびに屋台の人間に「もしかして新しい黒猫かい?」と声をかけられ、頼んでもないのに何かしらの食べ物をもらってしまう。最初にもらった林檎をかじっている最中だったのに、またたく間に荷物が増えていく。市場を抜けるころには、両手が干し肉や野菜や果物でいっぱいになってしまっていた。

黒猫は人々に愛されているらしい。ベスにさんざん拒絶されていただけに黒猫の自分に自信がもてなかったのだが、両手を埋める贈り物を見るとユニは意外な思いだった。

両腕に抱えた食べ物に視界をふさがれながらよたよたと歩いていると、ユニはいつのまにか広場に来ていた。周りを見れば人間達が立ち話をしていたり、タバコを吹かしていたり、井戸で水をくんだりしている。


「はーー……。いい場所だなぁ」


広場は(いこ)いの場。人々が絶え間なく行き交う大通りよりも、時間の流れが穏やかでゆっくりなように感じる。

ユニが広場のすみにたたずみ心を和ませていると、視界の端に人間の頭が入った。四人の小さい人間で、それは大人に対し子どもという種類だ。四人の子どもは店の前に並べられた酒樽(さかだる)に半身を隠しながら遠巻きにユニの様子をうかがっていたが、やがてユニに駆け寄ってきた。


「黒猫だー!」


「黒猫がいる!」


「しっぽがついてる! 頭に耳も!」


ユニの生まれもった知識と照らし合わせれば、おそらく彼らは五歳前後。男の子三人と女の子一人に取り囲まれ、いっせいに見上げられ、ユニはどうしていいのか分からずに尻尾を腰に巻き付けてしまう。

生きてきた年数なら生まれたばかりのユニよりも彼らの方が上だろう。外見も精神年齢もユニの方が大人に近いが、ユニは目の前の子どもをどう扱えばいいのかとほうに暮れた。

ユニが接してきた人間達とは違い、子ども達の振る舞いにはつかみ所がない。一言で言えば行動原理が混沌(カオス)。大人と同じ人間とは思えず、小動物か妖精のようだとユニは感じていた。謎のダルジャンヌに近いものを感じる。

男の子の一人が腕の中の食べ物に目を向けているのに気づき、ユニは名案を思いついた。その場にしゃがみ、男の子と目線の高さを合わせる。


「ほら。どれでも好きなのをあげますよ」


とりあえず笑って見せるユニに、男の子はおずおずとオレンジを手に取った。


「ほかのみんなも、どうぞ。早い者勝ちですよ」


ユニの掛け声に、両手をふさいでいた食べ物がみるみる減っていく。ユニとしては重くて困っていた荷物が減って助かるところだ。

その場でユニからもらったパンや肉を食べ始めた子ども達に、ユニも石畳の上に座りこんで残りのチーズを食べ始める。子ども達はユニに習い、ユニを囲むようにして座りこんだ。


「ねえねえ、黒猫のお姉ちゃん。黒猫って、ほんとうに人を殺すの?」


「黒猫って、人間を食べる?」


「食べません。それに黒猫は死にたい人しか殺しません。自分からは死なせちゃいけない決まりなんです」


「お姉ちゃん、名前は?」


「ユニです」


「ユニ! 黒猫のユニー!」


何が楽しいのかきゃあきゃあとさわぐ子ども達にぽかんとしつつ、ユニはチーズの欠片を口に放りこんで立ち上がる。


「ユニはどこに住んでるの? その服、きれいね」


小さな女の子に無垢な目を向けられ、ユニは口ごもる。新生の黒猫であるユニがハミルトン家に独占されていることはできる限り隠さなければならない。すでにノーラがフランシスカに囲まれているから、二人もの黒猫を独占しているとなればクロフォードへの非難がわき起こるのは必至だ。


「ええと……。あ、あっちの方です……」


ユニは適当な方向を指差して女の子の顔色をうかがうが、彼女は「ふーん」とつぶやいたきり手元のパンにかじりつく。ユニの所在を気にしているのかどうでもいいのか、いまいち分からない。

うかつに街中をうろついていてもまたたくさんの食べ物をもらったり、見知らぬ人間にからまれかねない。ここはさっさと目的地のアルマ宅を目指すのが得策だろう。


「ちょっとお聞きしたいのですが、アルマという黒猫の家を知りませんか?」


「知ってる! おれ、見に行ったことがある! 黒猫がいた!」


「アルマの家は恐いところだから行っちゃダメだってお母さんが言ってた」


「恐いところ、ですか」


「恐い場所だー! 行くと死んじゃうー!」


小躍(こおど)りするようにユニの周りではしゃぐ男の子達にため息をついていると、パンをほおばっている女の子が顔を上げてユニを見た。


「アルマの家の場所はね……」


言葉がたどたどしくて決して分かりやすい説明ではなかったが、ここからアルマの家までの道のりを教えてもらう。ユニが気まぐれに与えた食べ物は子ども達の機嫌を取ることに一役買ったようだった。


「しっぽー!」


「!!?」


女の子の知る道順とユニの理解が食い違っていないか確認をしていると、何の前ぶれもなしにユニの尻尾が男の子の一人につかまれた。

凄まじい感覚が尻尾から全身をめぐり脳天を突き上げる。身体中をたくさんのブラシでなでさすられるようなくすぐったさともどかしさ。生まれて初めての強烈な感触だった。


「あははは。にょろにょろしてる。へびみたい」


「や、めてぇ……! 触っちゃ、だめ……っ!」


一瞬で顔が上気し、脚から力が抜ける。ユニの懸命の抗議にも男の子達はおかまいなしだ。二人同時に尻尾をつかみ、なでたり引っぱったりをくり返す。完全におもちゃ扱いだった。

ユニはついに足を支えられなくなり、へなへなと四つんばいになる。頭の中で大きな音が鳴り響いているかように思考が白く塗りつぶされる。そのせいで動くこともまともに声を出すこともできない。

正体不明の圧倒的感覚に押しつぶされ、呼吸が乱れて涙と汗がにじむ。その状態はユニの尻尾で遊ぶ男の子たちが飽きるまで続いたのである。

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