初頁 「ユニ新生」
ユニという名の少女は、いったいどうして暗闇の中を歩いているのか分からなかった。ただ前に向かって歩かなければならない。そんな思いだけがユニの胸に満ちるただ一つの思いだった。
前にも後ろにも天地にも果てしない闇が続いているだけ。周りを見てもユニ以外には誰もいない。それでも恐怖に身をすくませることもなく、ユニは何かに背中を押されるようにして闇の海を歩いて行く。いつからこうして歩いているのか、それさえもユニには分からなかった。
歩きに歩いて、ユニは暗黒の中に針の先ほどの光を見つけた。それまで冷たく引き締まっていた胸が温かく緩む。この感覚は……たしか安心感だったとユニは思い出す。ユニは光源に引き寄せられる蛾のように、白い光に向かってふらふらと歩みよっていく。ユニが近づくにつれて小さな光はだんだん大きくなっていき、目の前が光でいっぱいになるほどに接近した時、それまで闇一色だった景色が一変した。
昼間でも薄暗い階段の影から、ユニが人知れず歩み出す。まずユニの目についたのは真紅の絨毯と、まぶしいほどに白い壁。見たことのない場所だが、それでも理解はできる。ここは人間の家。それも、相当の金持ちの家だ。
続いての感覚は、ユニの身体にまとわりつく生ぬるい空気。暑くも寒くもなかった奇妙な闇の中とは肌への刺激がまったく違う。ユニはすぐにこの空気の方が慣れ親しんでいることを思い出す。
腕をすばやく振ると空気の抵抗を肌に感じる。なかなか面白い。そうして少しだけ遊んでいると、ユニは自分が身体に何一つまとっていないことにようやく気づく。生まれたばかりのユニの肌は白く、きめ細やかでさらさらとしている。胸はほんのりと膨らんでいて、股にはなにもついていない。自分は女らしかった。
足を上げて指をじっくり見ていると、視界の端に何かが映った。なにやら黒くて長い。宙で揺れるそれに手で触れると、鋭い感覚が脳天を貫く。痛みではないが、身体中をいっせいになでられるような過激なくすぐったさ。わけも分からずにユニは手を離し、驚きながらにょろにょろしたものが何なのかを見極めようとする。くねるにょろにょろは自分の尻の上につながっている。これは尻尾だ。自分の身体の一部なのだ。
自分には細かい毛で覆われた黒い尻尾がついている。それを当然のことのように受け入れて、ユニは顔をぺたぺたと触る。側頭部には耳がついていない。その代わりに、頭の上に二つの大きな耳がついている。穴に指を差し込むとごそごそというとんでもなく大きな音が頭の中に響くので、ユニはすぐに指を引き抜いた。これは危険な遊びだ。やりすぎると耳を痛めてしまう。
ユニは生まれ出た影から出て館の廊下をゆっくりと歩いていく。素足に触れる絨毯の柔らかさが新鮮だった。
額縁に入った絵が飾られた壁や緑色の壷が置かれた机を眺めながら歩いて行くと、ユニは壁にはまった窓ガラスを見つけた。
窓を覗くと、灰色に曇った寒々しい空と、広がる芝と、色とりどりの花が植えられた花壇が目に入る。
ガラスにユニの顔が映っていた。肩にかかるほどの長さをした真っ黒な髪。陽光をはね返してうっすらと光る黒髪は癖がついたように先にウェーブがかかっている。ユニは髪の先をつまみ、さらさらとした手触りを確かめる。髪と同じように、ユニの瞳は黒かった。虹彩の中の黒を見つめていると、さっきまで歩いていた闇を思い出す。自分の身体の内側は暗黒の世界に通じているのだとユニは直感する。
「……誰か来る!」
廊下の先から届く小さな足音を拾い、ユニの大きな耳がぴくんと跳ねる。こうして言葉を口にするのは生まれて初めてだったが、どういうわけか話すことには何の支障もなかった。
「……裸の黒猫……? 何だ、見ない顔だなあ。なんで黒猫がこの屋敷にいる?」
「わたしと同じしっぽ。耳もついてる」
ユニの前で立ち止まった女はユニよりもだいぶ背が高かったが、頭の黒髪も猫耳も黒い尻尾もユニといっしょだった。細い身体にぴったりと吸い付くような黒い長そでのシャツと紺色のズボンを着ていて、足には茶色の革靴をはいている。ユニと違って黒い髪は短く、あごにも届かない。凛々しくて、綺麗な顔だ。口に紫煙が漂うタバコをくわえていた。
「見たことのない顔に、全裸の黒猫……。お前、もしかして生まれたばかりの黒猫?」
ユニはうなずけばいいのかそれとも首を横に振ればいいのか分からずにぼう然と女性の顔を見つめ返す。そんなユニに、若い女性はぼりぼりと頭をかく。
「まあ、いいや。生まれたばっかなのは見れば分かるしね。お前、名前はなんて言うの?」
「名前……」
そう問われてユニは初めて気がついた。頭の中をいくらさぐってみても自分について何も思い出せない。実感が伴わない知識の群れの中に、ユニという己の名前が燦然と輝いているのだけが分かる。まるでその名前が自分の魂にしっかりと刻印されているようだった。
「……ユニ。わたしの名前は、ユニです」
「ユニね。あたしはノーラ。ま、よろしく」
ノーラという名前の女性がニッと笑い、ユニの左手を掴む。「こっちおいで」とぶっきらぼうに言って、裸のユニを引っぱっていく。
「あのっ。どこへ行くんですか?」
「ユニに服を着せてあげるんだよ。いつまでも裸のままじゃいられないだろう?」
そうだった。この世界では服を着るのが当たり前なのだ。誰に教えられたわけでもないのに、ユニはそのことを思い出す。それでも裸のままでも羞恥心は覚えない。
「ユニ。あんた、生まれる前のことを何か覚えてる?」
「……いいえ。何も思い出せません」
「そうかあ。あたし達黒猫は、運が良ければ前世の記憶があるものなんだけどね」
あたし達黒猫。前世の記憶。ズボンの穴から生えているノーラの黒い尻尾を見ながら、ユニは頭にたくさんの疑問符を生じさせた。
「また街に黒猫が増えるとなると、お嬢は喜ぶだろうけどベスの奴は怒るだろうなあ」
ノーラはそんなことをつぶやきながら、ドアを乱暴にノックする。「ベス! おーい、ベス! ちょっと服を用意してくれ!」と大声でドアに向かって叫ぶ。ユニの優れた聴覚は、ドアの向こうの空間で何かが動くのを確かに聴き取った。
「ご用ですか、ノーラさん」
引かれたドアから顔を出したのはまたもや若い大人の女性だった。しかし、彼女の頭には耳はついていないし、尻尾も生えていない。あごの高さできっちりと切りそろえられた髪は明るい栗色で、目は青い。ユニやノーラとは似ているようで違う。ユニと違ってベスはこの世界に普遍的に存在する人間だ。
「ベス。この子、どうもこの家で生まれたらしい。何か服を用意してやってくれ」
「新生の黒猫、ですか」
それまで表情を消していたベスの顔に嫌悪の色がにじむ。ベスの冷たい目ににらまれて、ユニの尻尾はおびえて腰に巻き付いた。
ベスは黒いワンピースの上にフリルのついた白いエプロンを重ね着していて、黒いストッキングをはいた足に瀟洒な黒い靴をはいている。金持ちが雇う、家の雑事を片付けるメイドだ。
「冗談じゃありません。不吉な黒猫はあなた一人で十分ですよ、ノーラさん。目につくだけでも不快です。さっさと追い出して下さい」
「おいおい、生まれたばかりの赤んぼうにずいぶん冷たいじゃないか、ベス。それに使用人のお前が、旦那のクロフォードとお嬢の許しもなく勝手に貴重な黒猫を捨てちまってもいいのか?」
ベスはかすかにため息をつくと、ユニとノーラを部屋の中に招き入れた。たたみかけの洗濯物が積まれた机のそばで待たされること十数分、ベスは湯が入ったたらいと白いタオル、それに黒い服を持ってユニ達の前に戻ってくる。
湯に浸し、軽くしぼったタオルでユニは全身を丁寧にふいてもらう。ベスはあいかわらずの恐ろしい無表情だったが、手際も力加減も絶妙だった。相当に手慣れているらしい。
肌をなでる温かで湿った感触。そして鼻をくすぐる心地良い花の香り。香油か何かが湯に混ぜてあるらしかった。生まれたてで何もかもが新鮮なユニにとっては、体に押しよせる膨大な情報に圧倒されてくらくらしてしまう。
両腕を上げてわきの下をふいてもらうユニを、ノーラは窓際によりかかりながらぼんやりと眺めている。懐かしいものでも見るような穏やかな目だった。
「お嬢様のお古です。黒猫にはもったいないほどの上物ですが、それしかなかったので仕方ありません。ありがたく思って着て下さい」
「ど、どうもありがとうございます」
ユニはぺこぺこと頭を下げ、手渡された薄ピンクのパンティーをはき、黒いワンピースを被る。まるで予行練習を済ませた後のように、初めてでもてきぱきと着ることができた。
「よく似合うじゃないか。可愛い」
ノーラの感想にユニは首をかしげる。よく似合うのかそうでないのか、それさえもユニには判断できない。長い尻尾が服の下に押し込まれてしまって窮屈な感じだ。それでも体を揺らすとワンピースの端がふわりと舞い、ユニ自身も可愛いと思う。
「じゃあユニの身なりも整えたところで、お嬢に顔合わせさせるか」
「いけません。その前に旦那様にお伺いを立てなければ」
ユニの新生は予想外のことで、間に合わせの服は用意できても靴は無理だったらしい。ユニは裸足のままノーラの手に引っぱられ、華美な廊下を進み、書斎の前までやって来た。
重厚なドアをノックしてベスが先に中に入り、中で何やら話し合った後、外で待っていたユニとノーラを書斎の中へ呼び寄せた。