第十八話 運命とは常に後ろからひき殺す勢いでやってくるものである (5)
はじめその脅迫文をみつけたのは、やはりというか当然というか、普段から彼女のもっとも傍にいる人物、つまり乳母のカトリーヌさんであった。俺たちとのあの場面の後、泣きながらどこかへ行ってしまった彼女をみつけるべく色々探しまわった結果、太陽がオレンジに染まるころ、クリス嬢の私室でそれをみつけたらしい。
小さく悲鳴をあげた後、顔を蒼白にしてすぐに雇い主であるクリス嬢の両親に報告に走ったカトリーヌさん。
こうして事態は風雲急をつげることとなった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
静まり返った室内に暖炉の薪がはぜる音だけが響く。白蛇城の最奥にあるサーペンディア伯爵の私室。その場には今、部屋の主の妻と、そしてアリエス・イナ・サラシアスの姿があった。
「……『娘は預かった。返して欲しくば誰かが一人で領の外れにある廃砦へと金を持って来い』か。笑えるほどお決まりの文章だな。それで貴公、この部屋に私をわざわざ呼び寄せた用件は何だ?」
いつもと何も変わらない北風を思わせるアリエスの声。その声の響きには一切の動揺も焦りもない。その声の響きの冷ややかさこそが張り詰めていた感情の堰を切り落とす最後の一撃になってしまったのであろう、最高級の絹を贅沢に使ったドレス姿の女性が声を張り上げた。
「貴方それでも人間ですか!? 娘が誘拐されたというのに!」
娘のクリスティンを大人にすればこうなるだろうという美しい女性が声をそう張り上げる。もちろん彼女こそサーペンディア伯爵夫人、クリスティンの実の母だ。その声にも万年氷でできた樹木のように、アリエスの冷たさは変わらない。
「勘違いしてもらっては困る。私は貴公らとはなんの関わりもない一冒険者、しかも一線を退いた老いぼれに過ぎん。そして私の仕事はあくまで『ジオ・パラケルススの身の安全を確保する事』だ。娘ごが攫われたのには同情するが、あくまでも我らは客であろう。それ以上の事は私は知らぬ」
「では、私が正式に依頼いたします。娘をすぐに取り返してください。報酬は貴方の思うがままお払いしましょう」
「……他を当たれ。私の体は一つしかない」
夫人のぐっと歯をかみ締める音が誰の耳にもやけに大きく聞こえた。
「……よろしいのですか? 我がサーペンディア伯爵家を敵に回すということがどういうことかお分かりになっていないのかしら?」
それは夫人にとって精一杯の虚勢だったのだろう。そして同時に貴族として生きてきた彼女の限界でもあった。だがこの場においてその夫人の言葉は明らかな誤り。その証拠に今まで顔色一つ、表情一つ変えなかったアリエスの顔が侮蔑を含んで嗤った。それは絶対零度の笑み。それをみた夫人の顔がさらに青く、そしてそれすら通り過ぎて白くなる。
一つの単純な事実。目の前にいるこのアリエス・イナ・サラシアスというエルフは、決して彼女の手には負える人物ではなかったのだ。
「嗤えるな、小娘。百も生きていない貴様ごときが何をいうつもりだ? 子を思う母の心と思いおとなしく話を聞いていたが、所詮根はヒューマンの貴族ということか。……女、好きにするがいい。その手の脅し文句は冒険者時代にあいにく嫌というほど聞きなれていてな。ヒューマンたちは『耳にタコができる』というのだったか? エルフの諺でいうところの『青葉が枯れ葉になるまでいう』だな。まぁ、それにしてもどいつもこいつも話す口は変われど、出る言葉は変わらぬ。はっきりいってやろう。我らエルフにヒューマン族の階級制などなんの意味もない。私が今ここにいるのは、それが我が戦友であるフィリップの願いがあるからだ。奴が貴族だろうがなんだろうが私にはなんの意味もないこと。まぁ貴様にはわからぬのだろうがな」
そこまでいうと彼らに背を向けるアリエス。
脅えながら声を震わせ呼び止める夫人。
「待ってください! どこにいこうというのです!」
「……あの子の元に戻る。それが私の仕事だ」
そういって部屋を出ようとしたアリエス。しかし、それは一歩遅かった。
がちゃりという音がしてドアが開き、入ってきたのは人の良さそうな顔をした中肉中背の男。彼こそクリスティンの父にして、この白蛇城の主、ジョルジュ・ラ・サーペンディア伯爵だった。
(……ちっ。間に合わなかったか)
その姿を見たアリエスは、短く舌を打つ。彼には目の前の風采の上がらない小男が見かけどおりではなく、大陸西部の大国エルトリンでも一級の人物である事を鋭くみぬいていたからだ。
その予感通りに、サーペンディア伯爵は多少青ざめた顔ではあるが勝算のある顔でアリエスの顔をみた。
「どうやら妻が大変なご無礼を働いた様で申し訳ございませんでした。ですが、我々も必死なのです。どうぞ何卒お力を……」
そういって深々と頭を下げる伯爵に、夫人は息をのんだ。仮にもエルトリンの大貴族である自分の夫が一介の冒険者に頭を下げているなどとは。今見ているものが信じられない夫人と、そして自分の予感が正しかったことを知ったアリエス。目の前の男は、自分への友人の依頼を覆すだけの『何か』を持ってココにきたのだ。所詮、ここで自分を待ちうけていた彼の妻など時間稼ぎのための罠に過ぎなかったと。
そもそもアリエスには分かっていたのである。現在この城にいる人間で最強なのは間違いなく自分であり、金の受け渡しは一人に限るといわれればそれは自分こそが適任。そして、その交渉役を相手方が誰かという指定をしなかった時点で、これは自分をつり出す為の罠。そしておそらくあの我侭な少女は自分を釣るための餌にされたのだと。タチの悪い事だ、どうせなら私を指名しておけとアリエスは思った。それならば自分も迷わずにすむのに。まぁ、そこも考慮に入っているのだろうなと心の中で苦い笑みを浮かべる。後ろ髪を引く思いが、短剣のキレを狂わす。そういうことだろう。
そして真の問題はそこではない。誘拐犯の真の狙いがどちらか? である。
自分か、それともジオか。
(まったくほぼ間違いなく即席の策であろうに、ヒューマンどもの頭はこういう時のみよく回るものよ)
やっぱり今回ここにあの子を連れてきたのは失敗だった。そしてそのわずかな失敗を逃さないあの子の生まれ持った星の強さ、この場合は悪さか、には呆れを通り越して感心すらしてしまう。そしてこの策を短期間で練ったであろう相手にも。十中八九、真の狙いは自分ではなくジオであり、そして自分を抑えるに足る何かがいった先にあることも、アリエスはその明晰な頭脳で把握していた。それだけにまんまと罠にはまった自分に腹が立つ。
こんなもの最初から分かっている。この誘いはどちらを選んでも間違いであると。
『クリスティンを助ける為に、ジオから離れる』か『ジオを守って、クリスティンを見殺しにし、その責任を自分が負うことによって結果後日ジオの側から自分という守護者がいなくなる』か。ただそれだけの違いなのだ、これは。
もし、この時この場の彼が後にジオから教えられた日本のとある遊戯の専門用語をこの時知っていたのなら自らの状況をこう例えていただろう。
――王手飛車取り、と。
◇◆◇◆◇◆◇◆
そんなことになっているとは俺はちっともしらず。
その時の俺は客間で、俺はおちついてひとつづつ帰り支度を整えているマリエルの手際のよさに感心しながら籐製のイスに座っていた。
いや、何かを感じていたのかもしれない。むずむずというかとにかく大人しく座ってられなかった。いわゆるけつの座りが悪い感じはあったのだが。
そうしている間に、ノックもなしに突然先生がドアを開け放して入ってきた。そのままあっけに取られている俺の腕をつかんで引きずりだす。
「せ、先生、いきなりなんですか? どうしたっていうんですか?」
「小父様?」
「黙ってついてこい。いや、こっちのほうがいいか」
そういうなりすくい上げるように俺をお姫様だっこでもちあげてどこかに歩いていく。驚いていたマリエルだったが、素早く立ち直り開け放たれたドアの前に体を挟み込んで先生を止めた。
「……マリー。どけ。これは、いつかはこの子にとって避けれれぬ問題だ。話さねばならぬことがある」
「……私には聞かせられぬ話と? そういうことですか、小父様」
そう秘めたような声で尋ねるマリエル。その声には同時に自分に納得のいく答えが得られない場合、何としてでも俺をいかせないという決意が見え隠れしていた。そしてそのことに――明らかに本気のあのアリエス先生を、いつもやさしいマリエルが言葉一つで引きとめているという事実に俺は驚いていた。あと蛇足だが、マリエルは先生のことをプライベートなときには「小父様」と呼ぶ。普段はそれは親愛の感情をこめて。
だがこの時のマリエルの声は、先生の口から漏れる冷気をも上回る切れそうなほどの声を発した。
「小父様、私は若様付きのメイドでございます。主を理由も告げずに無体に連れ去るお方を黙って見過ごすわけにはいきません。それが例え、小父様であってもです」
黙って彼女の顔を見つめる先生。諦めたかのように頭を振る。シャンパンゴールドの髪が軽やかに揺れた。
「……今から話すことは一切他言無用だ。話せば、私が殺す」
「何を今更おっしゃいますか。私を誰だとお思いです?」
即答かよ。先生の腕の中でというおかしな特等席から、俺は自分の好きになった女の真の姿を初めて垣間見ることになった。
そして知る事になる。自分が過去にしでかしたことがいかに知らない間に死亡フラグをあってていたかという事を。
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いや、ホント進まない……。きちんと描写しようとすると恐ろしく場面切り替えが多くなる。プロはすごいっす。