第十七話 運命とは常に後ろからひき殺す勢いでやってくるものである (4)
目を覚ますとあまり知らない場所だとというのは、何故あんなにも落ち着かない気持ちになるんだろうか。それは慣れないベッドの寝心地のせいかもしれないし、そのほかの理由のせいなのかもしれないが、結局のところそれは本質的に自分があまり変化を好まない人間であることが原因なのかなと思ったりしている。つまり何のことはない、枕が変わると寝れない人間ってやつである。
なので基本的に寝起きが悪く、布団が変わるとそれこそマリエルでさえ寝起きの俺をもてあますほどなのだが、何事にも例外はある。
そう、あの婚約披露パーティのあくる日もそうだった。
まだ日が完全に昇りきる前、普段ならけっして目を覚ます事のない夜と朝の隙間の時間に俺は目覚めた。
うっすらと開いていく視界に最初にうつったのは、見慣れた淡いベージュの俺の部屋の壁ではなく、真っ白な大理石に様々な意匠と贅を凝らしたサーペンディア家の客間の一室。
広くて、きれいで、何故か薄気味が悪い、そんな部屋。そもそもこう何もかもが四角四面に整った生活感のなさは俺の趣味ではないのだ、俺はモダンやロココより六畳一間の畳部屋のやわらかさをこよなく愛しているのだから、などととりとめもなく居心地の悪いその部屋への文句を一通り並び終えた俺は、ようやく未だ深い霧のかかったような寝ぼけ頭で、はて? と自問自答した。
一体いつの間にベッドで寝たんだろうかと。
たしか昨日はあの窮屈極まりない貴族のパーティとやらを初体験したはずである。その後母上と廊下に出た事まではすぐ思い出せたのだが、その後が思い出せなかった。
思い出せないのはおかしいじゃないかといわれるかもしれない。神様からのプレゼントはどうした? と。だがこれにはちゃんと理由がある。何故なら俺の【記憶の図書館】というスキルは、確かに完全記憶能力ではあるのだが、現代人が物語の中でよく見かける形のそれとは少しニュアンスが違うのである。
一般に完全記憶能力というやつは、見たものを映像化してそのまま完全に記憶、そして望むときにすぐその映像を引き出せる能力のことを指していたというのが俺の認識。それに対して【記憶の図書館】の場合、一度脳に収めた上で広大な脳のネットワークの中に沈んだ記憶を整理されたデータとして引き出す感じなのだ。例えるなら脳みその中でディスプレイに表示された情報を確認するようなそんな感じなのだ。だからだろうか、インターネットの接続よろしくデータの検索にはわずかながらのタイムラグが生じるし、身体的時間的余裕のない時に使える類の能力ではなかったりする。
当然ねぼけた頭ではそれが出来るはずもなく、またその時はそれをしようともしなかったけ。
もしその時記憶検索していたのなら、パーティから脱出した開放感と数時間ぶりに見たマリエルの笑顔に緊張感の糸とともに意識も途切らせ、マリエルの柔らかな母性のかたまりにダイブしたまま寝たことを思い出して、自分のあまりのうかつさと、恥ずかしさでベッドの上でジタバタしたんだろうけど。
ついでにいうなら、寝てる間に着替えさせられていたこと、つまり好きな女の子にいつの間にか裸に剥かれていたという事実も俺が悶絶するには充分な理由であることだし。
ともかく。その時はそれはなかった。
代わりに俺の心をつかんで離さなかったのは、やがて訪れた朝と夜の天秤が朝に傾いた証拠。当時の俺なら三人くらい肩車しないとその一番上の縁に届きそうにないほど大きなガラス窓を通って大理石の床を照らす朝の光の、その色。
赤だった。
疲れ果てて眠った翌朝にしてはやけに目が覚めたその朝の朝焼けは、何故か濡れたような赤い光に見えて。
やがて時間が経つほどに濃くなっていく光の赤。
きれいなものはきれいすぎると、それに魅入られることがある。その光の色は多分そんな色。
そうしてただその色をぼおっと眺めていたら、何故だか急に怖くなった俺はベッドに潜り込んでもう一度寝ることにした。
◇◆◇◆◇◆◇◆
そんな朝から一週間後。
「今日は少し遠出をするからね!」
「は?」
きっかけは、場所こそ変われどいつものようにマリエルにやさしく起こされて、着替えで抵抗し、それから向かった朝食の場でこと。俺が朝食をおいしくいただき終わるのを待ちかねたかのように、ニコニコの笑顔の婚約者殿の口から飛び出したこの一言であった。
なお、あの夜会から一週間経ったこの時点でさえ俺はワトリアへの帰宅を許されてはいなかった。慣れない屋敷の外での生活、しかも顔も名前も初めて知ったよその家の使用人さんたちに気を使いながらの生活に疲労困憊な俺はもちろん、警護役としてついてきてくれていたアリエス先生も早急な帰宅をかなり強硬に主張していたのだが、残念ながらそれは叶わなかった。
理由は様々ある。まずは長らく子育ての為だろう俺から離れられず、そうして今回久方ぶりに姿をあらわした母上のことをなかなか社交界の友人たちが帰そうとしてくれなかったこと。さすがいくつになっても可憐という形容詞が似合う母上の人気は社交界でもかなりのものだった。水を得た魚のように夜会を泳ぎまわる母上の姿に、さすがは大貴族のご令嬢と今まで知らなかった母上の一面を発見した想いだった。
そして母上はこの機会を逃さず、貴族としてのテオフラクトゥス家のためのいくらかの、そして重要な交渉ごとをやっていたらしい。いや、違う。今回俺が連れ出された大きな理由の一つに、母上を自然な形で社交の場に戻すことで致命的になりかけていた諸処の問題を一気に解決していたらしい。特に我が家はいくら母上が名家の出身で、父上が国の英雄でも、しょせんは父上を初代とした新興貴族である。そして父上はほとんど任地であるワトリアを離れることなどできないため、今までそうした問題がおざなりになってきたのだ。
今回の事はこれ以上のこういう場でのアピール不足は、貴族社会からの脱落を意味してしまうと判断した母上とお爺様の苦肉の策でもあったらしく、これも必要なことなのよといつもおれの前ではやさしく笑っている母上には珍しいほどの真顔でいわれてしまっては、俺が何かいうことなどできるわけもない。それでも俺の身を案じたアリエス先生はかなり食い下がったぽかったけどな。
というのも俺は寝ていたから知らなかったのだが、二人が大喧嘩をやらかしたらしい。もちろん口論だけど。
その結果としてあの先生があの白皙の美貌を紅潮させたって話なんだから、そりゃ相当だったんだと思うよ。いつもはあの顔、青くも赤くもならないし、めったに感情を顔に出さないから、実はあの顔の表面が大理石でできてんじゃないかと疑いたくなるほどなんだから。
まぁ、そんな先生の顔の話はさておいて。そうして今しばらくサーペンディア家に留まることになった俺たち一行。それでも俺は知らされていなかったのであるが、実はこの翌日には帰宅するはずだったのである。何とか最低限の必要不可欠な社交の場を泳ぎ終えた母上と、アリエス先生の堪忍袋の緒のギリギリの妥協点が翌日だったらしい。
後になって思えば、運命というか、トラブルフラグ体質というか、自業自得というか、……何というか。あぁ、一日遅かったという他ないんだけど。
そのことをまだ知らないこの時の俺は今日もか、と呑気にその彼女の言葉にどう答えるか考えていた。
今もいまいち状況が読みきれない俺の反応が彼女のお気に召さなかったらしく、少し離れたところからその青い瞳で俺をじっとみてくるのである。じっと、じ~っとな。
そんなに睨まれたからってどうにかなるもんじゃないんだけどな……と思いながら心の中でため息を一つ。正直な話、最初から俺は彼女をもてあましていた。いきなり婚約者ができたといわれ、それが肉体年齢では一歳年上の少女であるものの、中身二十四歳+九歳の俺にとってはそれは受け入れられることではなく。当然普通の女の子である彼女は俺と違って中身も普通であり、それもマリエルのような様々な苦労を生活の中で経た上で培われた精神的な早熟さもなく、まさに歳相応。それもエルトリン国内有数の貴族の令嬢である彼女の場合は、俺がよく知る前世の現代日本人の十歳にかなり近い感じだった。衣食住に困ることなく、花よ蝶よと愛し愛でられた女の子。まぁ、それをいったらあのころのクリスには随分酷ないい方になるんだけど、一言でいえばかわいくてちょっとワガママな女の子だったわけだ。
そんな彼女を俺が婚約者=恋愛対象としてみられるか? といわれればそんなもん無理に決まってる。こっちの世界ではお前九歳だし、もっといえば貴族なんだからそれくらい当たり前、だから受け入れろとかいわれて受け入れたらそれはそれで元日本人の成人男子として問題、大問題である。もちろんそんなことは誰にもばれないのだが、俺のなけなしの良心と良識が、『ロリコンは犯罪、ロリコン死すべし』と頭の中で大声で合唱していたからな。誰でもない自分だけには嘘はつけない。もう一度はっきりいおう。無理である。
さらに付け加えるのなら、自分が好きな女性がすぐ側にいる状況で真逆の属性を持った十歳の少女をそういう意味でみていられるほど俺は器用ではなかった事もあるし。
仕方なく俺は近所のおませな小学生の相手をするような感覚で、彼女のいうがまま毎日右へ左へ右往左往していたのである。
俺がそんなことを考えているとはまったく思いもしなかっただろう。そんな俺が予期しなかったこの予定外の長期滞在を誰より喜んだのは、毎日何かにつけて俺をどこかへと連れ出そうするこのかわいらしい婚約者殿であっただろう。
それは積極的にやれ今日はお気に入りの花畑がだとか、やれその次の日は彼女の住まいでもありエルトリン屈指の名城でもある白蛇城の案内ツアーであるとか、他にもここはどうのあそこはどうのと、毎日毎日ドナドナよろしく俺と、それに付き添うメイドのマリエル、そして俺の護衛であるアリエス先生、そして彼女の乳母さんのセットでそれはもう色んなところを連れまわされた。
まぁ、あまり人がいないところという条件と、俺は屋外室内関係なくひさしの長い帽子を深々とかぶらされながら、といういささか変な感じでではあったけどな。
そして満を持してとばかりに彼女が提案してきたのが、この遠出の話。
何でもクリスティン嬢がいうには、
「お城から少しはなれたところに小さな古いお城があってね! すごくドキドキする場所だから探検するにはもってこいだと思うの!」
だそうで、彼女の目は好奇心とワクワクにLEDライトもかくやというほど輝いており、最早止めようもなく思えたので俺以外に止めてもらおうと、彼女に気づかれないようにちらりと、彫刻のように壁に背をもたれているアリエス先生に目線を送った。
固く閉じられていた先生の目がほんのわずかだけ開き、
「駄目だ」
切り捨てるようにいってまた目を閉じる。
その慣れない厳しい否定の一言に、とたんに泣きそうになるクリスティン嬢。そりゃ貴族のご令嬢ではあの北風のような全否定にさらされたことなどあるまい。
だが、クリスティン嬢は良くも悪くもただの貴族令嬢ではなく、かなり気の強い貴族令嬢だったので、
「どうして駄目なのです!?」
と果敢にもくってかかった。あの、アリエス・イナ・サラシアスに、である。とてもではないが俺には真似できない。現役時代を知るであろう荒くれ冒険者たちも異口同音に同じことをいっただろう。あの【氷刃】に、口答えするなんてってな。子供が怖いもの知らずというのはホントだなと、変なことに感心してしまう俺。
同じことを思ったのだろう。一瞬驚いたように両目を開く先生。だが、すぐに普段通りの顔に戻ってもう一度いう。
「駄目だ。認められん」
その言葉にじわりと涙をこぼし始めるクリス嬢。今にも大声で泣き出しそうな彼女をたしなめるように割って入ってくれたのは、紺色で感じのいい仕立ての服を着た女性だった。
「クリス様、あまりわがままばかりおっしゃってはいけませんわ」
穏やかに柔らかな声でそういったのが、さっきいったクリス嬢の乳母のカトリーヌさん。
栗色の長い髪を持つたおやかな貴婦人で、実はクリスティンの遠縁にあたるらしいれっきとした貴族らしいのだが、色々あって未亡人になってしまったために、彼女の乳母件教育係としてお城に勤めているらしかった。
俺の数日間での印象は笑顔の絶えない穏やかな人。そして未亡人だからだろうか、隠しても隠しきれないそこはかとなく漏れ出す色気があった。
未亡人っていいよな。だって未亡人という響きが既になんだか蠱惑的だし。あと基本俺は年上好きだし。
……だから正直クリスより彼女のほうが俺のストライクゾーンど真ん中だったことは否定できない事実である。これは墓場の果てまで持っていくおれの秘密の一つ。いったら間違いなく丸焼きにされるからな。
そんな未亡人で蠱惑的なカトリーヌさんがいう。
「このところ毎日のように皆さんクリス様のわがままにお付き合いくださいました。もう充分ではありませんか」
だが涙目のままだって諦めないのが彼女である。
「でも、だって! 次はいつに会えるのかわからないのよ、カトリーヌ!」
「それは重々承知していますが、あまりご迷惑ばかりおかけするのは……」
「迷惑なんかじゃないわ! 楽しいことよ!」
そのあまりの剣幕に俺はもう完全に逃げ腰。そもそも他所の子供さんってどうやって対処したらいいのか分からないし。下手に叱ったりできないのが難しいよな。
困ったような顔をしながら、どうやってクリス嬢を説得しようかと、カトリーヌさんが考え出したその時。
「でしたら、私も参りますわ。それでいかがですか? そちらの、エルフの方」
そんな混沌としだした場を、突然切るような声がかかった。かん高く、それでいて鼻をつまんだような女の声。とても不快で、ぶるっと体が震えた。
そうして俺が声の飛んできた方向をみてみると、その声の主はゆっくりと豊かななブロンドの髪を振り回すようにしながらあらわれた。あの夜会でであった場末のスナックのママのような、極彩色の蝶々のような女。ドロシー・オズ・ラ・アルマイトと名のった女がそこにいた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「ねぇ、いかがです? お嬢様もこれほど熱心にお誘いになっておられることですし、遠出といってもお子様たちの足でもたかだか数十分のところにある古びた砦跡ですわ。そちらのエルフの殿方は、何をそんなにかたくなになってらっしゃるのかしら?」
ゆっくりとこちらに近づいてきながら、場の空気を変えた発言の主はアリエス先生にあざけるような言葉をぶつける。ひどく耳障りで不快な声。どこかで聞いたことがあるような、と思って、この前の夜会で聞いたかと当たり前のことを思ったが、その当たり前の答えはおれの中でしっくりと来なかった。何かが違う、そんなに最近じゃない。それに声そのものじゃなく、その声の中の何かが似ている……とまで考えたところで、誰かの怒声がおれの意識を引き戻した。
「ドロシー殿! 貴方はお客様になんという失礼なことを!」
顔をあげた俺がみたのは、この短い数日の間ではあるが一度もみたことがなかったカトリーヌさんの怒った顔。
「あら……。いらしたの、貴方。でも残念、今、私がお話しているのはそこの素敵なエルフの殿方なの。お邪魔をしないで下さる?」
「なっ……」
思わず絶句するカトリーヌさんをまったく気にしたような素振りもみせずに一言で切り捨て、嫣然とドロシーは続けた。
「お見受けしたところ、相当な実力の冒険者だとお見受けするわ。何故貴方ほどの方がおられるのに遠乗り一つにそれほど気を尖らせてらっしゃるの?」
豊満といっていいだろう肢体をわずかにくねらせながら続ける女。その身を包んでいたのはCグレード防具であるカーネリアンマジックローブセット。その暗紅色のローブが持つセット特性は威力特化、詠唱遅延である。それをみる限りではクリス嬢の紹介どおり、この女は最低でもCグレードの冒険者らしいと納得した。
だが同時にこいつ、命がいらないのか? という疑問が噴出する。装備だけで強さが必ずしも計れるわけではないが、普通レベル60以上、つまりAグレードの冒険者なら、さすがにCグレードを身につけている事は、俺の前世の『New World』的常識では、まずありえない。つまりこの女の実力は高く見積もってもレベル50前後。それに対してきらびやかな真紅の革鎧を身につけたアリエス先生は間違いようのないAグレード。しかも、装備からみて魔法職対戦士職。タイマンで勝ち目などまず存在しない。その程度のことも分からないのか? そう思って体を包む悪寒そっちのけで確認するように振り返った俺は先生の顔をみるが、相変わらず先生の顔色は変わっていなかった。ただ、気配が違う。まるで真冬の底冷えを思わせる冷気が先生から少しづつ噴出し始めていた。
先ほどまでと違う意味で悪寒が止まらない。大陸随一の実力を持つ短剣職の殺気が朝の陽だまりあふれる部屋を、あっというまに冷凍庫に変えていく。そしておもむろに一言だけつぶやいた。
「……何をいわれても答えは変わらん。こいつの警護責任者として断固遠出など認めん。それだけだ」
そういって俺の頭を一撫でしてから朝食の場を立ち去る先生。それに俺とマリエルも続く。
そして残されたのは、頬を歪めて立ちすくむドロシーと呼ばれた女と、ドアが閉まると同時に泣き出した俺の婚約者だった。
――こうしてアリエス先生という鉄壁の防御のおかげで、何とか何事もなく終わるはずであったお話だが、そうは問屋が卸さないのが世の中の常。時に人間は目的の為には手段を選ばない。欲する為のものなら、何だってやるのが人間。
そうしてその日の夕暮れ、城のどこにも姿が見えなくなったクリスティン嬢の代わりに手紙がひとつ、サーペンディア城に届けられた。
そこにはごく簡単にこう書いてあったらしい。
クリスティン・アレシエル・ラ・サーペンディアは預かった。返して欲しくば我らの要求に従え。
お読みいただきましてありがとうございます。
ご意見、ご感想、誤字脱字の指摘など幅広くお待ちしております。