第十五話 運命とは常に後ろからひき殺す勢いでやってくるものである (2)
あの予想以上にせまい馬車からでてから三日後の夜。
エルトリン王国中部随一の名城として名高いサーペンディア伯爵家の白蛇城。その大広間の真ん中、クリスタル製の無数のシャンデリアがその存在を燦然と示すその下に、俺は仕立てのいいタキシード姿でそこにいた。
その場の空気を振るわせ揺らしていたのは、生演奏のオーケストラによる宮廷舞踏曲。十八世紀初頭、貴族文化華やかなりしころのヨーロッパの宮廷を想わせる、そんな音楽も俺の心を揺さぶる事はできず、ただ虚しく片側の耳から入って鼓膜をたたくだけたたくものの、そのまま逆側の耳からすみやかに抜け出ていくだけであった。
そんな中でも『三つ子の魂百まで』といえばいいのだろうか? 今生において『貴族のたしなみ』だといわれ、幼いころから体に刻み付けるように礼儀作法はおろか、貴族にとって必要だろう全ての技術経験を指導できると思うわと、母上が太鼓判を押した爺やによるつきっきりの指導によって厳しく習い覚えさせられた技は、こんなときでさえ俺の体をほとんど無意識に、だが非常に洗練された優雅さで動かしていた。
爺や曰く、貴族とは俺が教え込まれたステップのように「常に優雅で、美しくあるべき」らしい。それをもっとも端的に示すのが――ダンスだと俺は教わった。
当然ダンスといってもジャズダンスやヒップホップ、ましてやロボットダンスなんかじゃなくもちろん俺が習ったのは社交ダンス。ごくごく平均的日本人、かつ完全なインドア引きこもり系の理系人間であった俺にとって、まったく触れる機会のなかったそれは、今生において突然俺の人生に食い込んできたのだ。知識は便利なスキルのおかげで一瞬で記憶できるんだが、手先や体を動かすことを必要とする技術は別なんだよ。
おかげでダンス初体験だった俺は、思いのほか苦労した。それでもとても幼児とは思えない吸収力を発揮したらしい俺は、教えがいのある生徒を得た爺やによって、嘘や冗談でなく九割寝ていても完璧なダンスが踊れるほどの腕前へと成長していたのだ。
正直冒険者を専願志望していた俺にとって、そんなもの、ここまで上手くなっても将来役に立つとは……とか思っていたのだが、その機会は九歳という思いもかけないほど速い段階で訪れた。芸は身を助ける、である。
ただしそんな俺の隠れた特技、その初披露はこれ以上なく俺にとって不本意な形であった。何しろ『よくわからない誰かの城』で『数日前に初めて会った許婚らしい少女』と『そんな彼女との婚約披露パーティにてダンスを踊る』という、貴族的には普通なんだろうが、俺的には次々繰り出されるもっともありえない異次元展開の奔流に、あらがうことなど出来るはずもなく押し流されて、ほぼ無意識の美技を披露していたわけである。
そんな流されるままだったそのときの俺の頭の中にあったのは、この言葉だけ。
『どうしてこうなった?』
そんな呆然自失状態で動く俺の意識を小さな抗議の声が引き戻す。
「ちょ、ちょっと貴方、もう少しレディに対して丁重になさい。ステップが少し、いえ随分速いわよ!」
真っ赤な顔をして、わずかだが俺の目線の上から見下ろすような形で俺のステップの速さをとがめたのが、この場の二日前に初めてお会いしたサーペンディア伯爵家令嬢クリスティン・アレシエル・ラ・サーペンディアだった。
繊細な金糸みたいな髪を貴族令嬢のイメージそのままに、いくつも縦巻きロールしているおでこちゃん。そんなフランス人形のような彼女は……つまりワルツのパートナーであり、親同士が取り決めた(俺の場合は祖父だが)、前述した通り数日前初めて顔を合わせた許婚殿であった。
そんな彼女の抗議への返答として、無言のまま華麗なターンを決める俺。
幼いながらも冒険者としての力を持つ俺の力強いターンに、一瞬ではあるが彼女の華奢な体が宙を舞う。薄紅のシルクのドレスのスカート、そのすそがふわりとなっていたのが舞い散る桜のイメージを思わせたが、やっぱり現実を認められない俺は華麗にスルー。
ただ見た目には、九歳の少年のものとは思えぬ見事な俺のリードと、十歳の少女に相応しい可憐なクリスティン嬢のダンスは、周囲を取り巻く多くの大人達の驚きと賞賛を誘っていたらしい。
もちろん俺自身も彼女の事をかわいいと思って見ていた。但し念のためにいっておくが、それはあくまで二十歳を過ぎた成人男子が、ランドセルを背負って街行く小学生の列を見て、「あぁ、かわいらしいな。小学生って」とか「あぁ、昔は自分もああだったよな」とか思う類のかわいいであって、けっして小さな女の子相手に性的にどうするって意味じゃない。俺はけっしてロリコンでも、ペドフィリアでもないんだよ。
「ちょ、ちょっと! 貴方、聞いているの?」
そんなことを俺が考えているなど当然知らずに、物理的に、つまり遠心力的に俺に振りまわされていた彼女が、なんとか顔の上にだけは素晴らしい笑顔を浮かべたまま、俺の耳にその愛らしいうす桃色のくちびるを近づけて誰にも聞こえないように小さく、それでいて焦ったような声で、彼女からすれば当然の抗議の声を漏らす。
その声は確かに聞こえていた。聞こえていたともさ。
ただ俺は俺を取り巻く状況にいっぱいいっぱいで、彼女のお願いを聞く余裕がまったくなかっただけなのだ。
何故なら『転生しなきゃならなくなったから、MMORPGの世界で俺TUEEE! しようと思ったら、いつの間にかリアル貴族生活体験型アドベンチャーに変わってしまっていた』んだから、この時の俺の心中はまさにしっちゃかめっちゃか支離滅裂。
お菓子職人を目指していたら、いつの間にか中華料理店で中華鍋を振っていたというくらいの脈絡のないこの変化。
そのあまりの想定外に流されっぱなしの俺が、血も涙もない残虐ダンスマシーンになってしまうのも仕方がないと、俺は思うんだよな。
よく転生ものの二次小説で、貴族に生まれ変わるやつがあるだろ? はっきりいっておくと、正直いいことばかりじゃないよ。だって前世で培った現代日本人の常識ってやつは、その世界でぶつかることになる多くの問題と同じかそれ以上に大きな壁となって立ちはだかるんだからさ。
とりあえずそんな感じで望まざる愛らしい婚約者殿との華麗なダンスを披露していたこの時の俺は、とにかく実家のあの薄暗くて薬独特の匂いが充満する調合室に帰りたくてしかたなかった。そして思う存分、ポーションを作りたくて仕方がなかったんだ。
俺、人間それぞれの個性が一番出るのは、現実逃避の方法だと思うんだよ、うん。
俺の場合は、狭くて暗い部屋で薬作りである。あれほど心が休まることはない。
――そんな俺たちを見つめていたのは、初めて社交界にでた少年を暖かな目で見守る目や、年若い将来のカップルの未来を祝福する気の早いものだけでなく、どんよりと薄暗い沼のような、それでいてよく砥がれた刃物のような剣呑な光りみたいな欲望をたたえた目もあったのであった。
そしてその目の持ち主は、極めて紳士的、いや、厚化粧という名の分厚い淑女の仮面をかぶってダンスを終えた俺たちへと近づいてきたのであった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「お初にお目にかかります、ジオ・パラケルスス・ラ・テオフラストゥス様。そしてクリスティン様、お二人とも先ほどは素晴らしいダンスでしたわ」
ダンスが終わってどれくらいたっただろうか? とりあえず俺が何とか習い覚えた礼儀作法でクリス嬢ともに初めて会う上流階級な方々への挨拶という修羅場を潜り抜けて一息ついたころ、エルトリン王国ではポピュラーな飲み物である柑橘をしぼったいわゆる100%ジュースを二杯飲み干して、三杯目を給仕に頼んで持ってきてもらっていたときに、そういってその女は現れた。
ブロンドの豊かな髪をやたらウェーブさせた肉感的な美人で、その我儘ボディを誇示するように真っ赤で胸元がかなりきわどめのドレスを着た女であった。
ただぱっと見エロくてゴージャスなんだが、何というか無理をしているというか品がないというか。まず化粧が濃い。せっかくぱっと見た感じ若いのに、まるで場末のスナックのママのような化粧の濃さが全部台無しにしていた。香水もきつい。俺はこの世界で生まれてから変わったことが色々あるけど、変わったことの一つに五感が異常にするどくなったことがあげられる。そんな俺には目の前に現れたこの女のどぎつささえ感じさせる臭いは完全にNGだった。
つまり俺のぱっと見の第一印象は、派手すぎる模様の蝶々みたいであんまり良くはなかったわけだ。まぁ俺は清純派が好きなタイプだから、それは当然といえば当然だったんだが、異変はその後、俺の頭に響くアナウンスという形で発生した。
――パッシブスキル【虫の知らせ(アラート)】が発動しました。今後の行動にはくれぐれもご注意ください。
再び突然流れた謎のインフォメーション。その瞬間俺の警戒心が一気にMAXへとひきあげられる。何とかこの九年間で鍛え上げたポーカーフェイスで何事もない風を装いながら、クリスティン嬢に親しげに、やれ先ほどのダンスは素晴らしかっただの、今日のクリスティン様は一段とお可愛らしいだとか歯の浮くようなお世辞を連発している女を見ていた。
そうしているとそのうちに、どうにも目に悪い真っ赤な蝶々がクリス嬢にこういいやがった。
「クリス様、こちらの素敵な婚約者様に私を紹介してくださいませんか?」と女がいう。そうすると彼女は慌てて申し訳なさそうな顔をしたあと、すぐさまこう教えてくれたのだ。
「申し訳ありません、ドロシー先生。こちらにいるのがわたくしの婚約者であるジオ・パラケルスス・ラ・テオフラストゥス様ですわ。ジオ様、こちらはわたくしの魔法の家庭教師の先生を務めてくださっているドロシー・オズ・ラ・アルマイト様です。こうみえて先生は凄腕の冒険者ですのよ」
その彼女の言葉に、俺は教え込まれた作法どおりに、かつ最低限に留めながら、
「お初にお目にかかります。ジオ・パラケルスス・ラ・テオフラストゥスと申します」
と答えることで何とかかわそうとしたが、そうは問屋が卸さない。
目の前の真っ赤な蝶々の目は、大きく見開かれ、そしてその目の光は獰猛な肉食獣のそれを思わせる恐ろしいものに変化していたんだから。まぁ、当時の俺にはその目がいかにやばいものかというのが体験的は分からなかったんだけど、人間に普通に備わっている危険に対する直感と、パッシブスキル【虫の知らせ(アラート)】のおかげでこの女がやばいということだけは理解していた。
俺がどうやってこの場を逃れようかと思っている間にも、食い入るような目で俺の目をじっとりと見つめる赤蝶々に気分がどんどん悪くなってきた俺がなりふり構わず逃げようとした瞬間、赤蝶々はくすりと笑みを浮かべて俺から目線を外しこういった。
「不躾に失礼致しました。あまりにお珍しい美しい瞳のお色だったものですから」
そういって一見優雅な礼を俺とクリス嬢にした後、女は俺たちの前から姿をけした。
去り際に、「本当に美しい瞳の色……」という小さな、でも確実に耳にこびりつく声を残して。
あとに残されたのは嬉しそうに微笑むクリス嬢と背中に滝のような冷や汗をかいた俺。
こうして握り締めていた手のじっとりとした嫌な汗と不吉な予感を残して俺の社交界デビューは終わったのである。
色々試行錯誤中のため文章がいつも以上に乱れていると思います。ごめんなさい。
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