第十二話 現実はいつだって厳しい (中編)
――そこは不快なところだった。
ただただ暗くて、寂しくて、そして気持ち悪かった。
そして俺は何故だか分からないが、どこだか分からない場所を延々と歩き続けていた。
のどは涸れ、足は鉛にかわったかのように重い。もうその場に崩れ落ちて眠ってしまいたいのに、何故だかそれができやしない。
そのまま重い足を引きずりながら歩き続けていると、やがて俺の目の前に黒い水平線がひろがった。ようやく止まってくれた足もそのままに俺が立ち尽くしていると、不意に嫌な感触が俺の足元から這い上がってきた。――違う。這い上がってきたんじゃない。俺が沈んでいっているだけだった。いつの間にか俺の足元を侵食していた黒い水。気づいた俺は大慌てでそこから離れようとするが、俺の足はまったく動いてくれない。
動かない足の代わりに何とか助けを呼ぼうとしてみたものの、涸れ果てたのどからは誰かを呼ぶ大声どころか、空気のかすれる音、ひゅーひゅーという音というむなしい音しかでてこなかった。
黒い水が混濁した頭で必死に逃げる方法を考えていた俺の腰元まで浸したころ、そいつは現れた。黒い水平線の先に立つ人間の形をした『なにか』。はるか遠くにいるはずのそいつの姿が、何故だかはっきりと分かってしまう。
そいつは暗い赤色の人間の形をした、人間でないものだった。
俺が気づいた。だからそいつも俺に気づいたのだろう。その人間の形の『なにか』はそれから少しづつこちらに、べちゃべちゃという聞こえるはずもない音、とんでもなく不快で不吉な足音をたてながら一歩、また一歩俺へと近づいてきた。
徐々に大きく俺の目に映るようになったそいつの姿は、いつかどこかで見たものを思わせるものだった。それがどこだったか思い出そうとした瞬間、胃を直接つかまれるような不快感がこみ上げ、同時に今まで感じたことがないほどの頭痛が襲いかかかってきた。
その時点でようやく俺は気づく。あぁ、俺ってなんて鈍いんだろう。これは夢に違いないと。こんなにわけの分からない、突拍子もないひどいことが現実に起きるわけがないないのだから。
そう思って夢なら早くさめてくれと必死になって目覚めようともがく俺をあざ笑うかのように、そして嬉々としてそいつはどんどん身動き一つ取れなくなった俺に近づいてくる。やがてそいつは懐から何か光るものを取り出す。鈍く光るそれは包丁の形をした恐怖そのもの。
吐き気と頭痛が止まらない。足は動かない。声は出ない。夢は、――覚めない。
そう思った瞬間、ふと目の前の景色が変わった。
最初にうっすらと見えたのは薄いベージュ。それが見慣れた俺の部屋の天井だったことに気づいたのはその数日後のことだったけど。そして同時に両手に何だか分からないけど、温かな熱を感じた。
それが、母上の手の温かさだと気づいて、あぁまだ夢なのかなと思い、ふと手を動かしたのだが、何故か手が自由に動く事に気づいてビックリしてしまった。
「ジオ! ジオ! 起きたの!」
「起きたのか? ジオ! 分かるか? 私だぞ?」
どこか遠くで誰かが俺を呼ぶ声が聞こえた気がして、それでやっと夢は覚めたのかと思い、ようやく声が出た。
「……おやじ、おふくろ、あにき、いや、ちがう……。ちちうえ、ははうえ……?」
意識が混濁していてまともに周りが理解できてなかった俺は、とりあえずわけもわからぬまま名前を呼ぶ。
するとそのうちに耳に残る喜びと嘆きが等配合されたような声が俺の鼓膜を叩いた。
「若様!」
この声は誰の声だっただろうか? と思い、それが彼女のものであることに思い至ったことで、俺はようやく自分が目を覚まし、現実へと帰って来たことを知った。
――いつか自分が知らずに選んだ、危険と隣り合わせの現実へと。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「えっと……おはよう?」
そう間抜けな挨拶をした俺の目に最初に飛び込んできたのは、泣きはらした顔をした母上の顔で、俺はベッドから無理やり母上に抱き起こされる形できつく抱きしめられてしまった。そのままぎゅうぎゅうにしながら嗚咽交じりの母上が俺を叱る。
「今はとうにお昼を回っています! 何を暢気なことをいっているのですか貴方は! なんでこんなに起きなかったの? 私たちがどれだけ心配したと思っているのですか! もう、誰に、何を、いわれても、あなたを屋敷から出すものですか!」
それも生まれなおしてからの八年間で見たことも聞いたこともないものすごい剣幕で。そうしながらも母上のこぼれた涙が、抱え込んでいた俺の頭に滴り落ち、何故だか分からないが懐かしい気持ちになった。
そういえば昔、家族旅行で出かけた遊園地で迷子になった俺を見つけたおふくろが同じように泣きながら抱きしめてくれたっけ、と思いながら。
そんな俺がはじめて見る母上の感情の大爆発の発露のターゲットは、俺だけではなく、次に母上越しにわずかに見える父上にも向かった。
「フィリップ様! 何故こんなになるようなことをなさらなければならなかったのですか? この子はまだ八歳なのです。どれだけ成長が早くても、どれだけよその子供たちとかけ離れた子であっても! この子は私のたった一人の息子なのです! 神様からいただいた大事な、大事な私のジオなのです! この子の瞳の色がなんだというのですか! もし危険があるなら貴方や私が守ってやればいいではありませんか!」
母上の父上に対する弾劾の声は止まらない。それは返す刃で俺の認識の甘さをずたずたにした。
正直この時までどこかで母上や、そして父上との間に俺は壁を作っていた。というか本当の意味では親だと思っていなかったのだと今なら分かる。
ぶっちゃけた話、俺にとっての父親はやっぱりどこまでいっても中村正仁だったし、母親は中村真紀子だったからだ。今の両親の愛情は充分に頭では理解していたが、どうしてもこのふたりのことを両親とは思えない自分がいたんだよな。
まったく罰当たりにも程がある話であり、失礼この上ないことなんだけど、それでも母上が俺を愛していてくれていた事を知って、俺はこのとき情けないことに……子供に戻っちまった。
「は、ははうえ~。そんなに父上に怒らないでください~。僕が悪かったのですから~」
そういったと同時に何故だか泣けてきてわんわん泣いてしまった。ああゆうのを幼児退行っていうのだろうか? まぁ俺の場合はだいぶ特殊だと思うけど。
そうやって泣き出した俺に驚く両親。ふたりの顔は少しやつれていたようにも思える。
二人が驚いたのも無理はない。それはその時までの八年間一切「普通の子供」じゃなかった俺が、両親にはじめて見せた「普通の子供」の姿だったのだから。
そんな俺をさらに強く抱きしめる母上と、そして母上の上から俺を抱きしめてきた父上のぬくもりに、俺はおそまきながらようやくこの二人の子供になれたことを知った。
そんな俺たちを涙ながらに見守る我が家の使用人たちのなかに俺を現実へと引き戻してくれた女神様の姿があったのはいうまでもないよな。
◇◆◇◆◇◆◇◆
しばらくして落ち着いた俺が、泣き声で鼻をすすりながら何があったのかを聞くとおよそこういうことだった。
あの冒険の最後、何とか渡されたスチールダガーでウェアラットを倒した俺だったが、その後すぐに奇声をあげてこん睡状態に陥ったらしい。
さすがのアリエス先生も予想外のその事態に俺を担いで最速でワトリアへと戻ったまではよかったが、その後三日間俺が目を覚ますことはなかったらしく、父上と先生の知識の限りの方法が試されたが、何の効果もない。
焦燥だけが募るがどうしようもない、そんな状況が続いたらしい。
我ながら親不孝すぎる話だよな。まったくひどいもんだ。
そうやって少し落ち着いた俺は、どうして自分があんな風になっちまったのかをまだ動きの鈍い頭で考えてみることにした。
まず約一年ぶりに外に出たこと、(MMORPG用語としての)狩りができることに喜び勇んでいた俺は一年前と同じように夢中になって攻撃スキル『ファイヤーボール』を連発し、次々とウェアラットを撃破していった。
そしてMPが枯渇したのでその場でへたりこんだ瞬間、アリエス先生が……。
と、その先を思い出そうとしたら急に頭が痛くなってきた。おまけに、、
――パッシヴスキル『記憶の図書館』は使用者様の心身の保護の観点から、現在第二種制限状態となっております。制限を解除なさいますか?
という頭の中でどこか機械的な印象を受ける声が響いたのだ。
……聞いてない。これは聞いてない。と声に出さずに突っ込んだ。おそらくこれはあの幼女様の気遣いだろうとぼやけた頭でさえすぐ思い至ったのだが、同時に相手は神様とはいえここまで幼女に心配されるってどうよ? と自分で自分にだめを出さざるを得なかった。
この分じゃ他のスキルにもどんな隠し要素があるか分かったもんじゃないな、と一度もらったスキルの解析をしないと、と思いながら一度この思考を頭の片隅に押し込める。
それよりも差し迫った問題として、この制限とやらをどうするか……と考えているうちに、ぐぅ~という音が俺の腹から鳴り渡った。そうして俺はようやく自分が三日も何も食べていないこと、そしてお腹が空きすぎて死にそうなのに気づいた。
「あの……、ご飯食べたいです……」
そういった俺は確かに歳相応のかわいいガキだったと思う。
その声を聞いた誰かが、「はい、かしこまりました若様」といって黒い瞳からこぼれる涙を拭いながら厨房に駆け出していく。
その声は俺を現実へと引き戻してくれた声と同じ声だった。
そうして食べた食事は「あぁ、こんなにうまいものがあったのか……」と危うくおっさん臭いことをつぶやきそうになるほどのものだった。
……母上が俺にあ~んをさせて食べさせるという羞恥プレイでなければ、確実に洩らしてたぞ。まぁ、俺の精神的ストレスを考えると実にどっちもどっちだけどな。
◇◆◇◆◇◆◇◆
三日ぶりに腹に食い物を収めた俺は、部屋で俺の目覚めを喜んでいてくれるみんなを尻目に、再度自分の記憶にもぐることにした。何があったのか分からずに、今後のことは考えられなかったからだ。
――パッシヴスキル『記憶の図書館』は使用者様の心身の保護の観点から、現在第二種制限状態となっております。制限を解除なさいますか?
再び鼓膜を通さず頭に直接響くどこか機械的印象の声、俺はどこかで聞き覚えのあるそれが前世では耳慣れた『New World』のゲーム内アナウンスの声と同じであることに気づいた。
芸が細かいな、と思わず苦笑する。
そして心の中で「はい」と答えたところで、俺は何が自分の身に起きたのかを知った。
まず、客観的にOOO(伏字の中身は察してくれ)を覚えたてのサルのようにウェアラットを倒しまくる自分の姿に泣きそうになった。いや、あれはひどい。
この一年間のアリエス先生の指導での一番の要諦はなんだったかというと、それは「冒険者たるもの常にいついかなる時も冷静であれ」である。
後もうひとつが、「常に自分に起こりうる最悪の事態を想定しながら行動しろ」だろうか?
それを全て水泡に帰すような俺の無様な姿にお怒りになったアリエス先生の突然の襲撃、いや教育的指導。ただそれがあらかじめ先生と父上の間で予想されていたことであるなどこの時は思いも寄らなかったが。
そして場面が先生がスチールダガーを差し出そうとしたシーンになった瞬間、再びこみ上げる嘔吐感。今食ったばかりの食い物を吐き出しそうになる。
そこで再び流れる脳内アナウンス。
――パッシブスキル『トラウマブレイカー』の効果により、使用者様の心身の健康を優先して意識を一度遮断いたします。
という声とともに俺はブツンという音を聞いた気がした。
だから俺が糸が切れた人形のように眠った後、再び部屋が騒然したらしいんだが俺はその時の記憶がないんだよな。まったく我ながら人騒がせだよな。
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