第十話 それは多分幸せな日々 後編
諸事情により短いです。
アリエス先生が来てからというもの俺の生活は一変した。『七歳の幼児が一日の大半を薄暗く、熱気の篭る調合室で過ごす穴熊のような一見不健全そのものの』それから、『日もあけきらぬ早朝に起きだし、外で活発に動き回る外で遊ぶのが何よりも大好きな夏休みの小学生のような一見健全そのもののような』それへと。
しかし内実は違う。全然違う。絶対に違う! あれは『安全で安穏とした中にも金銭的充実感をもたらしてくれる自分の趣味の空間で過ごすまったり財テクライフ』から『世界樹の森からコンニチワ! 異世界に蘇ったスパルタの恐怖! エルフの鬼軍曹による特盛り虐待風マル秘特訓生活』への変化だった。
……あんなもん幼児にやらせること自体あの人の頭はイカレてやがるとしか思えん。
そんな地獄の訓練メニューは基本的にはこんな感じ。まず早朝叩き起こされた後、我が家の敷地全てを使った全力でのおいかけっこを約二時間やらされる。おいかけっこなら遊びみたいなものだし、捕まえればいいのだから簡単ではないか? と思われがちだがこれはそんなに甘いものじゃない。
まずアリエス先生が鬼の場合、俺がどれだけ必死で逃げても、当時の俺が捕まるのに三分以上の時間がかかったことなど無い。その時既に俺は『ファイター』としての基本能力を持っていたので、平均的な日本人の成年男子か、それ以上の運動能力があったはずにも、である。なんていうか文字通り常人には『見えない速さ』なのだ、あの人は。
それもそのはず、先生の職業はエルフの戦士三職のうちの一角であり、短剣職である『ウィンドダンサー』だった。『New World』プレイヤーの一致する意見なのだが、短剣職ほど種族特性のはっきり出る職種はない。つまり『ウィンドダンサー』の特徴は、『他の短剣職と比べ攻撃力がさほどでもない代わりに、回避率と移動速度が全職トップ』という絶望的事実。
つまり全種族、全職業で一番速いのがエルフの『ウィンドダンサー』なのだ。ちなみに次点はワーキャットの特殊軽装職である『フォレストランナー』だ。これもとんでもなく速い。
当時の俺との差がどれほどだったかとというと、おそらくまだ足取りもおぼつかない小学校低学年の子と、全力で逃げるマラソンの金メダリストぐらいの差があったはずだ。
そしてその実力は俺が鬼であるときにこそ遺憾なく発揮された。
目の前にいるのに触れない、残像すら残さずに消える、いつの間にか背後に回られている。頭を沸騰させながら精一杯追い続けても、いかに工夫を凝らしても、結局最後の一線でスピード差を覆すことが出来ず逃げられる毎日。風を捕まえようとしてもそれが不可能なように、いくらやっても先生を捕まえることが出来なかった。かくれんぼに近いパターンもあったのだが、同じく影すら踏むことが出来なかったし、じゃあしばらく休憩~なんてサボったりした時には何故か俺の真後ろにイイ笑顔の先生が立っていたりもしたなぁ。
……ちなみに今は俺やリューネがレベルの差もあって上回ったから違うが、俺が捕まえようとしていた人物が現役世界最速であったことを知るのはもう少し先のこと。それを知った思わず絶叫した俺は悪くないと思う。
そして昼食を挟んで午後からはまずひたすら剣の素振り千本をやらされた。「何事にも正しい型があるが、まずは全ての基本である剣をきちんと振れるようになってから」というのが先生の言い分で、まったくそのこと自体には異論は無かったのだが、俺の成長具合をを見計らってどんどん大きく重いものに変えていくのだけはやめて欲しかった。おかげで終わるのは決まってワトリアの時を司る大鐘楼の鐘が午後三時を知らせてくれる頃。
そしてそれが終わったら晴れていればテラスで、雨であればそれように用意された屋敷の一室での座学。まぁ、これに関しては正直幼女様からのプレゼントであるチートスキルの一つ、『記憶の図書館』のおかげで楽勝だった。詳細はこんな感じである。
パッシブスキル『記憶の図書館』――全ての記憶を自由自在に引き出すことが出来る
いうなれば完全記憶能力。但し普通の完全記憶とは同じようで少し違うようなんだよな。今まで自分なりに様々な経験を通してデータを積み重ねた結果、俺はこのとんでもスキルの正体を『自由にシナプス結合を操る能力』だと思っている。人間の脳の仕組みを少し勉強すれば分かるのだが、脳は生まれてからの全ての情報を全て保存している。しかしそんな人間が『忘れる』という事の直接的な原因は、脳内情報伝達を司るニューロンとニューロンの間にあるシナプスが上手く繋げられないから、という学説があったはずだ。
俺のこの能力はおそらくそのシナプス結合を、俺の意思に従って自在に必要な情報のある経路に繋げる事で情報を自由に引き出すことが出来る能力だと思っている。
まぁ何がいいたいかというと、俺はただこの『New World』世界でやっていく為に必要な記憶を忘れないようにしてくれ、とお願いしただけなのに、太っ腹なのか大雑把なのか完全記憶能力がついて来たということに気がついたときには思わず笑ってしまうしかなかったな。
このおかげで俺の行動に限りない幅が生まれることになるのだが、それはもう少し後の話だ。
ということでひたすら先生の話す経験談やお役立ち情報を自分の記憶に納めていく俺。さすがの先生もこの俺の異常な記憶力には唖然としていたので、俺としては唯一の安心タイムだったのだがそのうち話すことがなくなってしまったのか、この時間が少しづつ削られていき、やがて一年もたつ頃にはなくなってしまった。あぁ……俺のバカ。そこは適当に腹芸しておけよ。
そうしてこの時期の訓練は終わる。はっきりいって虐待としか思えん。
七歳児を一日八時間も全力で運動させるなっての。
俺がこんな生活を続けられたのは間違いなくマリエルのおかげ。時々挟まる休憩の度、マリエルがかいがいしくお世話してくれるという(飴と鞭の飴だけに)キャンディタイムが無かったら俺はとっくにぐれてたと思うわ。
まぁ、その度に胸がドキドキしすぎてなにかできたわけじゃね~んだけどな。
そんな地獄と、ときどき天国がやってくる日々の中ついにその時は訪れた。
――人生甘くないの言葉通りに、自分の甘さが鋭い切っ先となって俺に現実という奴を突きつけたあの日がやってきたのだ。
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