第九話 それは多分幸せな日々 前編
人間それなりに長く生きていれば誰もが一度は考えるはずだ、『もしあの時に戻れるなら』って。
無邪気でいられた子ども時代。大人と子どもの間を揺れ動きながら恋を知り、自分を知ることとなる学生時代。社会の一員として、そして自分というものを確立していく青年期、そして結婚し、家庭を持ち、やがて役目を終え、歳をとり死んでいく人間の人生の色んな時期をその都度思い返して誰もがこう思う。『もしあの時に戻れるなら』ってな。
辛い現実から逃げたいとき。美しい思い出を一人思い返すとき。理由は人それぞれ。
だけど時間ってやつには時計のように時を刻む針がついていないから、その願いが叶うことは決してない。時計なら無理やり針を戻すってこともできるんだけど。ままならないよな、人生ってさ。
……だが幼かった時を思い返すたび思わずにはいられないんだよ。
今が嫌なわけじゃない。いや、むしろ俺の二度目の人生、文句をいっては罰が当たるほど充実しているさ。
だけどそれでもふと思うことがあるんだ。突然現れた恋っていう嵐の中で、何も考えずにただただ幸せに彼女のことだけを思っていられたあの頃に戻れるならと。
自ら知らず知らずに選び取った選択の結果、なかなか思い通りにいかない現実とくそったれな運命って奴の厳しさを知る前のほんの一瞬のモラトリアム。そんな短い俺の恋の季節の事を。
……我ながらクサいこと考えてるなぁ。おぉ、サブイボ立ちそうだわ。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「……様、若様、どうか起きてくださいまし。朝でございますよ?」
どこか遠くからそう俺を呼ぶ声が聞こえた、気がした。それはすごくやわらかで優しい。深海よりもなお深い眠りの海の底へと響いたその声でようやくほんの少しだけうっすら開いた目に映ったのは、メイド服に身を包んだ黒い髪の少女の姿。あ、今日も彼女が来てくれたんだと、活動前の脳細胞のわずかに目覚めた部分が幸福で浸されるようになりながらも、同じぐらい甘美な睡魔による二度寝へのお誘いは、人間の根源的な欲求の中で睡眠欲を何よりも愛する俺にはどうにも抗いがたく数瞬の葛藤の末、折衷案としてお決まりの台詞で抵抗を試みた。
「……あと五分寝かせて」
俺の寝起きは悪い。非常に悪い。とんでもなく悪い。なんといったって基本的に夜行性の上に徹底的に低血圧なのだから仕方ない。仕方ないったら仕方ない。それほど多くない前世も今も変わらないことの一つなんだが、悪い癖だから自慢にはならないだけどな。こんなことならあの時女神様に朝寝坊しない能力を要求しておくんだったと少し後悔していたりもする。ちなみに俺はどれくらい寝起きが悪いかというと、前世の俺の部屋に目覚まし時計が携帯のそれも含めて七つあっても足らなかったといえば少しは伝わると思う。ていうか自分が起きた時間が朝だと思うんだよ、俺は。
但し起き続けてるのは全然苦じゃない。二徹、三徹当たり前。二十四時間どころか七十二時間戦える男だからな、俺は。
そんなことはともかくとして、毎度毎度の無駄な抵抗をする俺に彼女は困ったような声でさらに俺の目覚めを促してくれた。
「若様、お願いですから早く起きてください……。でないと『先生』が……」
『先生』。そのキーワードが俺の脳内検索にヒットした次の瞬間、俺の意識は全速で覚醒。糸より細かったであろう目をくわっ! と全開にして迫り来る悲劇を回避するべく努力しようとしたが……、時既に遅しであった。……いつだって現実は無情である。
「また朝寝坊か、ジオ。どうやら今日も朝の訓練を三倍にされたいらしいな、貴様は」
バッチリ開いた目には絶望的な光景が。思わず頬が引きつる。
そこには少しだけベッドから体を起こしたばかりの俺を見下ろすように、細長くとがった耳を持った美丈夫が仁王立ちしておられた。ヒューマン族ではありえない、ギリシア彫刻のように完成された造形美を誇るその御方こそ、我が師であるアリエス・サラシアス。
またの名(俺が秘かにつけたあだ名だが)を『エルフ族NO1の鬼軍曹』、『現代に蘇ったスパルタの権化』、『アリエスTHEブートキャップ』etcetc……。絶対に口には出さないけどな。殺されるから。
その種族的にも元より細い目、その時はまるで柳の葉のように細くなっていたが、そこからあの時こぼれていた光は剣呑などという言葉ではとても表現することができないだろう。なんていうかあれは視線という名の暴力だ。どれぐらい暴力かというと、単純な事実としてあの目で五分以上睨まれると、俺は今でも条件反射的に精神のブレーカーが落ちるとだけいっておこう。具体的には気絶するんだが。
「……おはようございます、先生」
「おはよう、ジオ。さぁ今日も愉しい愉しい朝の鍛錬の時間だ。……まったく毎朝毎朝私の手を煩わせよって。貴様には過ちを改善しようという気がないのか? この馬鹿弟子が」
何とかご機嫌を取ろうとおそるおそる朝のご挨拶をしてみたが、先生から返ってきたのは冷淡に響く挨拶とお叱りの言葉だけではなかった。
ついっと手を伸ばし、慣れた手つきで俺の頬を思いっきりつねる先生。その結果は当然――
「痛い痛い痛い! 勘弁してください! ちゃんと起きます! 行きますから!」
こうなるわけで。俺の必死の抗議が通じたのか、それとも俺が起き上がったことで必要なくなったのか分からないが、何とか開放された頬をさすりながらベッドから飛び出した。
未だ憮然としながらも俺に向かってさっさと来いと、一言だけ残して朝焼けの立ち込める外へ窓からひらり飛び降りる先生(あの人にとって二階の窓というのはただの便利な出入り口である)を追いかけるため、急いで着替えようと服に手をかけたところで、はっと気がついた。
そしてブリキ人形のようにぎこちなく振り返って一言。この時俺の頬が赤かったのはつねられたところだけじゃなく反対側も真っ赤だったに違いない。
「お、おはよう、マリエル。き、今日も起こしに来てくれてありがとう。それでね、ちゃ、ちゃんと一人で着替えるから外で待ってて!」
そうして恥ずかしくてまっすぐ見れない俺の真正面には、赤くなった頬を心配そうに見る最愛の少女にして俺付きの忠実なメイドであるマリエル・エトラント嬢の姿があった。この時は……十四歳かな、俺の七つ年上だから。
この世界では極めて珍しい黒い髪と瞳を持つ彼女長い黒髪は三つ編みにしてお下げにしていて、顔立ちはかわいいと美人の絶妙な中間といえばいいだろうか。どことなく日本人のような印象を与えるその顔立ちは懐かしさと親しみやすさを与えてくれて……。
ダメだ、きりがない。とにかく俺は彼女が大好きで、最初はひと目惚れなんてあれこれ否定しようともしたけれど、日一日と重ねるごとに俺は既に最高値を遥か突破した恋心をもてあましていた。
ここで当然誰もが考えると思う。お前は中身二十云歳だろうがと。十四歳の女の子相手にそれはロリコンじゃないのかってな。
確かにそのとおりなのだが、それ程この問題は簡単じゃない。
そも、この時の俺は中身がどうであろうと正真正銘の七歳児であり、彼女のほうが随分年上だった事。そして何より彼女は前世で楽しく学生なんぞをやっていた二十数歳の俺などより遥かに大人だったのだ。
確かに前世なら十四歳というのは中学生で、子供としか思えなかった年齢だけど、世界が、つまり環境が違えば人間ってやつの常識はいくらでも変化する。俺が今も生きてるこの世界では子どもが、俺みたいな貴族の子弟はともかくとして、現代の日本のように学校に行って、あとは遊んでいたら許される世界じゃなかった。良くテレビに出てくる海外の貧困地域の子どもたちや江戸時代の子どもたちがそうだったように、小さな頃から立派な労働力として扱われるこの世界の子どもたち。そんな彼ら彼女らはなまじの大学生たちよりもよっぽど大人であり、そんな子ども達たちの中でもマリエルは群を抜いて早熟で、初めて会ったその日から彼女は立派な大人の女の人だった。
何しろエルトリン北東部と大陸の中央部に広がる世界樹の森の最西端にあたる場所のあるエトラント村の村長の長娘として生まれた彼女の兄弟は彼女を含めて五男四女。ていうか頑張りすぎだろ、ご両親。そんなわけで物心ついたときから村の事で忙しい両親や祖父母の代わりに兄弟達の面倒だけでなく、家事を含めた雑事全般に忙しく働いていた彼女がただの十四歳なわけがない。
そもそもワトリアに彼女が『上京』してきた理由の時点で、中身は未だにお子様の俺が到底敵うわけもないのだ。
なぜなら彼女がワトリアにやってきたのは有体にいえば――口減らしの為だったから。マリエルの故郷であるエトラント村はそれほど貧しくはないが、まぁそれほど豊かでもなかったらしく年頃になった女の子はどこかに嫁ぐか、大きな町に出稼ぎに出るのが普通だったそうだ。それは村長の娘であった彼女だって例外じゃない。いや、本当ならそんなことはなかったんだろうけど彼女の兄妹はあまりにも多すぎた。必然、彼女がとるべき選択肢はさほどなかったのである。
そんな時、村外れの森に住み村の子どもたちに読み書きなどを教えていたアリエス先生が、俺の一件で古い友人であった父上から呼び出されワトリアに行くことになったということでこれ幸いと村から出てきたところを、それならばということでうちで雇うこととなった、らしい。
そして果てしなく家事万能、子守スキル完備、可憐で素直で頭の回転が速く、真面目でかわいくてどうしようもないほど素敵な彼女は、屋敷のみんなにかわいがられながら仕事を瞬く間に覚え、母上と婆やのお眼鏡にも適い、わずか数ヶ月でとんとん拍子に俺の専属メイドとなった。
あの時は嬉しかったなぁ。何せマリエルがうちに来た当初、気になって仕方なかった俺は先生のしごきの合間を縫ってこっそりストーカーまがいのことしてたからな。
廊下で姿を見かけようものなら気配を消して後ろから見てるだとか、食事の給仕をしている彼女をこっそり見るのに忙しくて食事がおざなりになって爺やに怒られた事も一度や二度じゃない。
我ながら阿呆だったとしかいいようがないんだが、それでも当時の自分を責める気にはなれない自分がいる。だって自分が一瞬で恋に落ちた女の子が自分専属のメイドさんになるなんて夢が現実になったら男だったらそれが普通だと俺は思うんだよ、うん。
だがマリエルが俺の専属メイドになったことはいい事ばっかりだったわけじゃない。
案外自分のことを振り返っても忘れてしまっているとは思うが、七歳児というのはそれほど何かが出来る年齢じゃなく、さらに俺は貴族の息子であったから着替えなんかは当然メイドさんの仕事となる。俺の中身がたとえ二十云歳であろうが、数々のチートスキルをもっていようがそんなことは彼女には関係ない。
ただ彼女は真面目で、職務に忠実だったのである。そう真面目で、仕事熱心で、彼女に、八人の弟妹の長女であり、子どもの扱いにかけては百戦錬磨の彼女に、そんな俺のささやかな抵抗である『一人でできるもん!』宣言なんてちゃちなものが通用するはずもなく――
「いけません若様。ちゃんと若様のお着替えを手伝うようにと奥様から申し付かっておりますから。それともマリエルのことお嫌いですか?」
俺と目線を合わせるために、すらりとしたその身体を小さくかがめて綺麗な黒い瞳で俺を見つめながら少しその形のいい唇を尖らせて優しく、そしてわずかに拗ねたように告げるマリエル。それだけで体温が急上昇したんじゃないかと思うくらいに熱くなっちゃう俺が彼女に逆らえるはずもなく、その日もされるがまま、顔どころか体中を真っ赤にしながら羞恥プレイに耐えるそんな朝の一幕。
……まったくこの頃の俺の朝ときたら、朝から天国と地獄と、盆と正月が毎朝いっぺんに来たような始末だった。懐かしいなぁ、戻りたいような戻りたくないような。子供時代って多分誰にでもそんな思い出ってあるよな。俺にとってはこれがその思い出の一つだってこと。
ちなみにこの後ばっちり地獄『も』味わいましたとも。耳の長い白い鬼に追い回されて朝から晩までがっつりしごかれた。『アリエスTHEブートキャップ』は伊達や酔狂なんかじゃない、アレは虐待という言葉すら生ぬるい。思い出すだけで体が震えてくる……。俺はMじゃないから間違ってもあっちには戻りたいとは思わない。
知ってるか? 『地獄』ってやつは異世界に実在してる。ばっちり体験済みだ。
我ながらモラトリアムと思うにはいささかハードすぎるよな。Mじゃないのに。
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