第八話 春風は出会いを運ぶ 後編 (改稿版)
俺が見上げたその人は人間の常識を外れてただ美しかった。
――森の妖精族、エルフ。
北欧神話に起源を持ち、現代のファンタジーの世界の礎を築いた偉大なる作家J・R・R・トールキンの『指輪物語』によって世界中に発信されたその存在は、ヨーロッパから遠く離れた東洋の島国、日本のMMORPGの世界にさえ色濃く影響を与えていた。
純国産のMMORPGである『New World』ではあるが、その世界観はいたってポピュラーな西洋型のファンタジー世界であり、であるが以上は偉大なるトールキンの手のひらの上から一歩も出ることが出来ないのは仕方のないことだといえるだろう。
そのトールキンの紹介物のなかでもとりわけ彼ら、エルフという存在は有名だ。特徴的な長くとがった耳、人間ではありえない程美しいその容姿と柳のように華奢な体を持つ彼らは森の守護者であり、自然に寄り添って生きる偉大な亜人族である。
またプライドが高く孤高を好むところがある為に、多種族を蔑視しがちというのがお約束だろうか?
そんな幻想世界の住人であるはずの彼らの一人が俺の目の前にいた。他ならぬおれ自身が望んでこの幻想と妄想の入り混じったこの世界に来た限りは、いつかああいう機会があると思っていたのだが、どんな事でも不意打ちというのはいささか心臓に悪いもので呆然と見つめる事しかできない俺。
そんな俺を最初驚いたような顔つきで、その後一瞬だけ鋭い目で俺を見た後、視線を緩めてからその麗しい人は俺に声をかけてきた。
「ふむ。まずは挨拶が大事だな。ジオ、今日から貴様の指導役となるアリエスだ。よろしく頼む」
未だ驚きから立ち直れずにいた俺。当然だよな。いきなり父親に呼び出されてドアを開けたらいつの間にか後ろにエルフが立っていた、とか俺以外に経験した事ある奴がいるとは思えない一大イベントだ。だがこの後ある意味両親よりも世話になったともいえるこの人はこちらの事情や驚きなど彼は一切考慮してくれないのだ、どんなときも。
「ふむ……。今しがた私は挨拶は重要だと言わなかったか? それとも貴様は耳が聞こえないのか?」
そういって彼、アリエス先生はいきなり初対面の俺の耳を引っ張った。
「痛たたたたたたた、ちょっと待ってください! いきなり何をするんですか?」
「お客様、何をなさいますか!?」
爺やが目の前でおこなわれた乱行にさすがに声を荒げて抗議したのだが、指まで芸術のようなその人はどこ吹く風。
一方痛みにさすがに我に返る俺。だって耳捻り上げるんだもん、あの人。しかも容赦なしで。
「ふむ。聞こえているではないか。ちゃんと口も利ける。さて、ジオ。私はアリエスだ、始めまして」
声が返ってきた事に満足したアリエス先生。その様子に俺は先ほどまでとは違った意味で呆然としながら、はじめましてと返すのが精一杯だったのであった。
……その時の父上はサプライズが成功してしてやったりの顔つきで俺たちのことを見ていた。父親ならさっさと助けろよとどうにも腹に据えかねたものがあったので、後日すねに一発蹴りを入れたら相当いいとこに入ったらしくびょんびょん気持ち悪く跳ねながら悶絶してた。
……実にいい気味である。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「……つまりこの方はお、私に戦士としての基本を教える為に父上が呼んでくださった父上の昔のご友人ということですか?」
それから数分後ようやく驚きが少し収まった俺は、テーブルを挟んだ長椅子の向こうに座るアリエス先生を見ながら俺を膝の上に乗せた父上に事の次第を確認していた。
「その通りだ。あぁさすが私のジオだな、話の理解が早い。我が息子ながら天才だな!」
無論父上の目じりは緩みぱなし。親バカ炸裂であった。
そんな昔の友人を半ば呆れた目で見ながら先生は首を小さくすくめる。親バカに付ける薬がないことを悟ったのだと思う。大正解だ。
一人上機嫌の父上を放っておいて俺は目の前に座る人生初のエルフをようやく落ちついた心で見ることができた。
淡い細いシャンパンゴールドの髪を肩口で切りそろえたアリエス先生は、やはり恐ろしい程のイケメンであった。どう見ても歴史に名を残す彫刻家の傑作が命を吹き込まれて動いているようにしか見えないほどのイケメンぶり。……父上のような親バカというマイナスポイントもないから余計にかっこよく見えるのなんのって。
そうして溜め息をつくときに目線が下がった俺の目に飛び込んできた物を見て、思わず噴き出しそうになった俺。
それはアリエス先生が身につけていた服だったんだが、それはどこかで見たことがあるなんてレベルの代物じゃなかった。それは前世にディスプレイ越しに嫌になるほど見たあの服だったんだから。
『レッドドラゴンスケイルレザーアーマーセット』
Aグレード軽装備職御用達のその美しい革鎧は紛れもなく目の前に座るこの父上の昔のご友人がAグレード冒険者である証であったからだ。
その時点で俺はうちの父上の親バカぶりを舐めていたことを痛感したが、とき既に遅し。七歳の子供の指導役にまさかAグレード冒険者を呼び出すとは! なんていうか一匹の蟻を殺すのにガトリングガンを持ち出すようなことを平然とやらかす父上とそしてそれを何のためらいもなく受けたであろう目の前のクールなエルフ。
事ここにいたって急速に嫌な予感が噴出。そうしている間にどうやら父上たちの話もデンジャラスゾーンに突入しており、いつの間にか俺が一年前にやらかした自由への逃亡劇の話になっていた。
「ほぉ……。わずか六歳でそのようなことを……。これは鍛えがいがありそうだ」
そういってニヤリと薄い唇を三日月型にして笑うアリエス先生。
「よろしい。この私が貴様をどこに出しても恥ずかしくない立派な戦士に育て上げてやろう」
なんというか水色の瞳に爛々と剣呑な光りを灯して俺に宣言したこの時のアリエス先生の顔が、俺には何故かお気に入りのおもちゃを見つけたときの近所のガキ大将のそれに見えて仕方がなかったのであった。
これが今生一人目のドSとの出会いの一部始終である。
……最後のあの笑顔を見たときには、正直しょんべんもらすかと思ったわ。
そうして明日からびしびし鍛えるからそのつもりで! とクールな声に熱を少しだけ込めて送り出すアリエス先生の声を背中に受けて応接間を後にした俺と半泣きの俺を優しく慰めてくれる爺や。
まさかその後あんなことを父上たちが話しているとは思いもよらずに――。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ジオが出て行った後の部屋は一転重苦しい空気がその場を支配していた。
窓の外は昼下がりの穏やかさでいっぱいであり、遠くに小鳥の鳴く音がしているにも関わらず室内はまるで深海のように重く暗い。
その場に残った二人の元冒険者の表情にも先ほどまでの楽しげなそれはまったくなく、ただひたすら沈痛な面持ちで向かい合う。
前のめりのような格好で半ば頭を抱えるように座るフィリップと軽く腰を捻った体勢で外の景色を眺めているアリエス。
だが二人とも目に映るものなど見てはいない。二人が見ているものは別のものであった。
言葉もない。しかし言葉が必要でないほど彼らはお互いの放つ空気で会話を交わしていた。
そうしてどれ程たっただろうか? 長い沈黙を破り、話し出したのはアリエス。その声には隠し切れない戦友へのいたわりが込められていた。
「……なるほど、貴様がわざわざ私を隠遁生活から引きずり出した理由が良く分かった。まさか本当に『ヘルメスの瞳』とは、な」
その言葉にフィリップの顔がゆがむ。そこには隠し切れない親としての焦燥がありありと表れており、それを見たアリエスは冒険者時代どんな窮地にも冷静かつ勇敢だった友人のこんな顔を見るのは初めてだと思い、改めて彼の苦悩の深さを感じた。
「案ずるな、フィリー。あの子は必ず守ってみせるとも、この私が」
「頼む……、アリエス。あの子が自分で自分の身を守れるようになるまでどうか……」
喉から搾り出すようなフィリップの声。
つぶやくような声で答えるアリエスの声は小さな鈴の音に似ていた。
「……あの子はまだ知らぬのか?」
うつむいたまま首を左右に振る部屋の主にそれ以上かける言葉もなく、アリエスはただ静かに場違いに穏やかな初夏の景色を眺めていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
な~んて話を大人たちがしているとは当然知らない能天気な俺は先ほどつねられた耳をさすりながら食事の間へと向かって歩く俺と爺や。
正午を知らせるワトリアの大鐘楼の音が鳴り響いてからだいぶ経っているらしく、もうすぐ二時を知らせる鐘がなる時間だろうと爺やに教えられたせいか、急にお腹が減ってきたのだ。……集中しているときは感じないのなぁ、空腹って。
うちの実家は先ほどもいったように無駄に広い。そのせいでさっき脱出してきた応接間から俺たち家族が普段食事をする食事の間までは一度正面エントランスを通らないといけない構造になっている。だからいつもの廊下をいつものように歩いていると正面エントランスに母上と侍女長であり、爺やの奥さんであり、つまり俺の婆や(但しこの時はまだ四十代、うちにはロリコンしかいないようだ)が一人の女の子の挨拶を受けていた。
母上と婆やが壁になって顔は見えなかったが、おそらく160cmくらいだと思われる母上と変わらないくらいの身長の女の子。白っぽい麻のワンピースの下からのぞく足がすらりとしていて健康的な感じがした。
最初に思ったのはそんなたわいもない事。
そんな俺に足音か何かで気づいたのだろう、不意に振り返った母上が俺を見つけた。
「あら、ジオちゃん! ちょうどいいところに! ほら、こっちにおいでなさい。紹介したい子がいるの」
そう促されて俺は新しい使用人さんかなと思いながら母上のほうへと歩いていく途中で、ふと仰ぎ見た彼女と目が合った瞬間に。
――恋に落ちてしまった。
それはもうあっさりとしたひと目惚れ。ひと目で体を雷が走ったかと思うような衝撃が貫き、俺はそのままノックダウンした。
三つ編みにした濡れたような黒髪にダークブラウンの瞳、やや垂れ目がちで大きな眼と整った鼻、つややかな唇。まだ膨らみきらない胸はつつましいやかだったが、健康的で活動的な印象を与えるスタイル。
でも大事なのはそんなことじゃなく、彼女が彼女だったこと。
理由なんてない。そんなものはいらない。
ただその瞬間に俺には分かってしまった。彼女こそ俺の『運命の女性』だと。
この出会いの驚きに比べれば、直前のアリエス先生とのそれなんて小さな出来事だ。
前世で散々ひと目惚れをしたという友人に『非科学的』だとか『大げさな』とか言っていたがその瞬間あいつらが正しくて俺が間違っていたことを思い知らされた。
そうして俺はそのあまりの衝撃に心のブレーカーが落ちたのだろう、言葉もなくただひたすら目の前の彼女を見つめながら立っていた、らしい。
というかこの時の事は『なんとなく』しか覚えていない。
だから今でもこの時のことをマリエルにいわれると俺の顔は真っ赤になってしまうんだ。
「はじめまして、若様。本日からこのお屋敷でお世話になります。マリエル・エトラントでございます」
そういって緊張していたのだろう顔を少し緩めて恥ずかしげに笑うマリエルの顔だけはちゃんと憶えてるけど、な。
これが俺と俺の女神様の出会ったときの話。春風が連れてきた彼女との平凡で、ありふれていて、でも何よりも大切な最初の思い出。
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