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皇帝への道 ― ナポレオン・ボナパルト  作者: レモンティー


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第三十八話:セントヘレナ ― 皇帝の終幕

潮の匂いが、重く沈んでいた。

――敗北の匂いだ。


潮は重く、逃げ場はなかった。

ワーテルローの戦いでの敗北後、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトはまず、アメリカ合衆国への亡命を目指した。

だが港は封じられ、艦は出せない。

亡命の道は――そこで断たれた。


ナポレオン・ボナパルトは海を見ていた。

「イギリスは紳士の国だ……亡命者を拒むまい」

その言葉は、希望か。祈りか。


彼は逃げたのではない。

自ら選んだのだ。

イギリス海軍の艦へ。

「私は、イギリス国民の保護を求める」

その言葉は、敗者のものではなかった。

むしろ――最後の交渉だった。


だが答えはすでに決まっていた。

ワーテルローの戦いの敗北。

ウィーン会議の結論。

――彼を、二度と戻すな。

理由は三つ。


ひとつ。

あの男は――逃げる。

現に逃げた前例がある。エルバ島から逃げて戻った。

最後まで諦めず、隙があれば逃げる男であること。


ふたつ。

あの男は――象徴になる。

剣がなくとも、人は彼の名に集う。

軍事的天才で生きているだけで旗になること。


みっつ。

ヨーロッパは――限界だった。

革命、戦争、混乱。

終わらせなければならない。

世界が戦争に疲れ果てたこと。


一人の外交官が、苦く言う。

「エルバ島……あれが間違いだった」

「あの島は“牢獄”ではなかった。“舞台”だったのだ」

「英雄は、舞台を与えれば必ず戻る」

静かな同意。

そして、冷徹な結論。

「今度は違う。世界から切り離せ」


やがて告げられる。

あまりにも短く、

あまりにも冷たい。

「亡命は認められない」

ならばどうなる――

答えは一つしかない。

「ナポレオンという存在を、歴史から隔離する」


沈黙。

ナポレオンは、しばらく何も言わなかった。

怒りもない。

嘆きもない。

ただ――

ナポレオンは、ほんのわずかに、笑った。

「……そうか」

その瞬間、彼は理解した。

これは敗北ではない。

戦いはもう終わっている。

これは――

「終わり」だ。

それが、すべてだった。


彼が送られたのは

世界の果て。

航路の外。

歴史の外。

アフリカと南米の間にある船でしか行けない世界の果てのような孤島――

セントヘレナ島。

脱出はほぼ不可能で逃げ場はない。

そこは牢獄ではない。

――歴史からの追放だった。


それは、最も静かで、

最も残酷な――

「排除」だった。


その後、セントヘレナ島。

海は、あまりに広すぎた。

どこへも行けない広さだった。

ナポレオンはその海を見ていた。

南大西洋に浮かぶイギリス領の火山島であり絶海の孤島・セントヘレナ島。

地図の端にすら載らない、孤立の象徴。

この島に「幽閉された」のではない。

世界から切り離された。

それが正確だった。

風は絶えず吹いていた。

潮の匂い。

湿った岩。

そして、何も変わらない水平線。

かつてヨーロッパを動かした男は、今は一つの島の中で完結していた。

戦場はない。

軍もない。

命令を伝える相手もいない。

その処遇が決まったのは、戦場ではない。

ウィーン。

メッテルニヒは会議室で静かに言った。

「ナポレオンは殺すべきではない」

「殺せば、彼は“神話”になる」

「生かし、遠ざけよ」

それが結論だった。

ロンドン。

イギリス政府は即座に同意する。

「ヨーロッパの均衡のためには、彼は“存在しない場所”にいるべきだ」

そして選ばれたのが――南大西洋の孤島だった。

セントヘレナ。

脱出不能。

救援不能。

忘却可能。

サンクトペテルブルク。

ロシア皇帝アレクサンドル1世は、短く言った。

「彼はもはや敵ではない」

「しかし自由にしてはならない」

その言葉には、恐怖と敬意が同時にあった。

こうして三大国の合意は静かに成立する。

ナポレオン・ボナパルトは、処刑されない。

しかし自由にもならない。

歴史から切り離すという、最も冷たい判決だった。

やがて彼は島へ送られる。

セントヘレナ。

そこは地図の端ではなく、“世界の外側”だった。

風は絶えず吹いていた。

潮の匂い。

湿った岩。

そして、何も変わらない水平線。

それでもナポレオンは、時折“戦場の続きを見ているような目”をしていた。

「ここなら……動かせるはずだった」

そう呟くことがあった。

だが、もう誰も答えない。

ベルティエはいない。

ダヴーは遠くの過去にいる。

ネイの突撃も、ミュラの騎兵も、もう風の中にしか存在しない。

島での生活は、やがて静かな習慣になっていく。

彼は朝になると散歩をし、庭に出て小さな畑を耕した。

かつて大陸を動かした手は、今は土を返していた。

戦争ではなく、時間と向き合うために。

またある時は、本を読んだ。

戦史。

ローマ。

アレクサンドロス。

そして自分自身の遠征記録。

それは勝利の記憶でありながら、同時に敗北の再読でもあった。

ある日、彼は地図を広げる。

そこにはもうヨーロッパはない。

線は消え、国境は意味を失っている。

残っているのは“記憶の戦場”だけだった。

ナポレオンは静かに言う。

「私は、勝てていたのか?」

誰も答えない問いだった。

島には医師と少数の従者がいた。

だが彼らは兵ではない。

命令系統は存在しない。

ここには“皇帝”を証明するものが何もない。

時間だけが、戦争のように進んでいく。

戦わない戦争。

負けない敗北。

終わらない終わり。

やがて彼の体は弱っていく。

しかし、意識は最後まで鋭かった。

それは皮肉だった。

戦場では失われなかったものが、ここでだけ残る。

ある夜。

彼は窓の外を見る。

風が強い。

海は黒い。

そして遠くに、何かが見えた気がした。

軍隊ではない。

幻影だった。

それでもナポレオンは言う。

「まだ……動けるな」

だがその言葉は、誰にも届かない。

最期の日。

彼は静かだった。

騒ぎはない。

劇的な崩壊もない。

ただ、ひとつの意識が薄れていく。

そして、最後に残った言葉は短かった。

「フランス……」

そこで途切れる。

島は何も変わらない。

海は同じ音を立てる。

風は同じ方向から吹く。

だが世界は変わっていた。

帝国は終わり、時代は移動していた。

ナポレオン・ボナパルト。

戦争を設計した男。

すべての“遅れ”と“すれ違い”に敗れた男。

そして最後まで、自分の戦場の中にいた男。

セントヘレナの海は、今日も静かだ。

まるで何もなかったかのように。

しかしそこには確かに、

一つの時代が沈んでいる。

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