15.日暮れ前
風が生暖かく草原をかけめぐっていく。
重い空。灰色の小さな雲がいくつも、風に流れていく。
変化の激しい空を、立ち止まって愛は見上げた。
肩に下げたバッグが、急に重くなった気がした……。
腕に鋭い痛みが走り、片手を添えた。
ぬるりとした。
バッグが落ちて、楽譜が開いたまま地面に滑った。
ーー何が起きたかすぐには分からなかった。
落ちたバッグの向こうに男が立っている。
手に鈍く光るナイフが見えた。
赤く染まったシンの袋が、愛の手からこぼれ落ちて、楽譜の側に転がった。
ナイフを持った手が、一歩、二歩と、愛に近づいてくる。
理解できなかった。
ただ、気づいた時には走りだしていた。
どこを走っているのか分からない。
呼吸の音が、どこかで聞こえていた。
視線を下げると、腕が赤く染まっていた。
別の誰かを見ている様な気さえした。
草を踏む音が、近い。
振り返れなかった。
✴︎
シンはハンモックから起き上がって、ドアを開けた。
膝丈くらいの小さな妖精が、焦った様子で早口でまくしたてた。
シンは言葉を遮って、何度か聞き返す。
妖精が走り去ると、シンも棒と袋を引っ掴んで、外へ飛び出した。
風のように街を走り抜け、野原を駆けた。
ーー野原の道に、見覚えのあるバッグが落ちていた。
土にまみれた楽譜。
赤く染まった妖精よけの袋ーー。
「愛!」
シンは叫んで辺りを見渡した。
ーー返事は、なかった。
道の向こうから小さな妖精達が何人も現れた。
「頼む!」
シンの一声で、妖精達が野原へ、街の方へ、消えるように散って行った。
楽譜とバッグをしまいこむと、シンは赤く染まった袋を手に握りしめた。
ーーすぐに、数人の妖精達が戻ってきた。
申し訳なさそうに首をふる。
「街にはいない。近くにもいない」
「頼む、もう少し探してくれ。それから……」
「お前、そんな顔もするんだな」
妖精達がつぶやきながら、再び散っていった。
一人の妖精が、シンの元に残った。
恐々した様子でシンを見上げる。
「心配すんな。あいつ、妖精には手を出さないから。ちょっとだけ、辛抱してくれ」
言われた妖精は走りだした。
一呼吸おいて、シンも走りだした。丸太小屋の方に向かって。
✴︎
決まったリズムのノックが、いつもより大きく丸太小屋に響いた。
先に到着していた妖精が、ベランダから心配そうにシンを見ている。
中からノックが返ってくると、シンはドアの前にかがみ、両手と額を当てた。
「愛に何かあった……見つからないんだ」
当てた両手の爪が、ドアに少し食い込んだ。
「このままじゃまた、手遅れになる」
ドアの向こうは、静かだった。
「クマさんも……ユキ姉も……」
初めて、ドアの向こう側で朱が身じろぎした。
「シン。すぐ離れてくれ」
ドアの向こうで、朱が立ち上がる気配がした。
「俺が行く。明日の朝、また来てくれ」
それだけだった。
シンは楽譜とバッグ、それに妖精よけの袋をドアの横に置いて、その場を急いで離れた。
夜まで、あまり時間がなかった。




