第4話 獣人族ガルザとの遭遇
深い森の奥へと一歩一歩踏み入れるたび、アレンの胸中には言い知れぬ緊張が広がっていた。木々は天を衝くほどに高く、無数の枝葉が薄暮の空を覆い尽くしていた。森を吹き抜ける風は囁くように木立を揺らし、葉擦れの音がまるで古の言葉で語りかける声のように聞こえた。光はわずかな隙間から降り注ぐのみで、足元には濃密な影が渦巻いている。苔生した巨木の根が幾重にも絡み合い、湿った腐葉土の匂いが鼻を掠める。鬱蒼と連なる巨木の幹は行く手を阻む壁のようにも思え、森そのものが侵入者を拒んでいるかのようだった。アレンは、この森には何かが潜んでいると感じずにはいられなかった。
二人は朝から道なき森を彷徨い続け、日が傾いた今もなお出口の見えない原生林の中にいた。疲労が蓄積し、互いに無言のまま緊張だけを共有して歩いていた。
アレンのすぐ後ろには、旅の仲間であるリアナが静かに歩を進めていた。その顔にはわずかな緊張と疲れが滲んでいる。ふと立ち止まったリアナが小声で漏らした。「……おかしいわ。この森、まるで生き物の気配がしない」
耳を澄ますと、確かに鳥の囀りひとつ聞こえなかった。先ほどまで遠くで響いていた虫の声すら途絶え、森は不自然な静寂に包まれている。アレンはリアナに目配せし、そっと周囲に注意を払った。嫌な予感が背筋を撫でていく。何かが——何者かが近くにいるのではないか。
不意に、密やかな影が視界の端を横切った。アレンがはっとして振り向いた刹那、暗がりから何かが飛び出す。高く伸びた倒木の上に、一人の青年がいつの間にか立っていた。
彼は人の姿をしていながら明らかに人ではなかった。薄暗い森の光に浮かぶその輪郭には、獣の耳と尾が揺れている。引き締まった褐色の身には毛皮の装束が纏われ、野性そのものの気配を漂わせていた。鋭い黄金色の瞳が二人を射すくめ、唸るような低い声が静寂を破った。「……人間がこんな所で何をしている」
リアナが小さく息を呑み、アレンもまた咄嗟に剣の柄に手を掛けた。相対する青年は獣人族——伝承でしか聞いたことのない森の民だ。強靭そうな筋肉に覆われた身体は戦闘の構えを崩さず、彼の周囲だけ空気が張り詰めているかのようだった。アレンは剣を抜きかけた手に力を込めつつ、慎重に口を開いた。「我々は争うつもりはない。森を越えようとしている旅人だ」
「ここから立ち去れ!」青年——獣人の叫びと共に、獣人の青年は猛然と飛びかかってきた。アレンはとっさに剣を抜き放ち、その鋭い爪による一撃を受け止める。金属と爪がぶつかり合い、火花が散った。想像を超える怪力に、アレンの腕が痺れる。次の瞬間、獣人の青年は俊敏に距離を取り、低い姿勢で睨みを効かせた。アレンは相手の黄金の瞳の奥に、純粋な殺意ではなく必死の警戒が光っていることに気づいた。もしかすると彼自身、恐れに突き動かされているのではないか——そう感じた刹那、アレンの中で武力ではなく言葉で訴えようという思いが決定的なものとなった。
「待て、話を——」アレンが言葉を投げかける間もなく、獣人は再び襲いかかった。唸り声とともに繰り出される連撃を、アレンは必死に刃でいなし、防戦一方となる。獣人の瞳には警戒と怒りが燃えていた。「人間の言葉など信じられるものか!」荒々しい声がアレンの耳に突き刺さる。
リアナは杖を握りしめ、二人の間に割って入ろうとした。しかし猛る獣人と応戦するアレンの動きはあまりにも速く、下手に近づけば命取りになりかねない。リアナは焦りに唇を噛んだ。
獣人の爪先がアレンの頬をかすめ、赤い血が一筋流れ落ちた。それでもアレンは歯を食いしばり、剣先を相手に向けたまま低く叫ぶ。「俺たちは敵じゃない!」
その声には必死の訴えが滲んでいた。獣人の動きが一瞬だけ鈍る。“敵ではない”——耳慣れぬ言葉に戸惑ったのかもしれない。アレンはその隙を逃さず、大きく息を吸うと、自ら剣を下ろしてみせた。
「リアナ、下がってくれ」アレンは後退しつつリアナに呼びかけると、剣を鞘に収め、両手を広げて無防備な姿勢を取った。その顔には決死の覚悟が浮かんでいる。「争う意思はない。話をさせてほしい」
獣人の青年は荒い息をつきながら、アレンを疑わしげに睨みつけていた。アレンも肩で息をしながら、相手の動きを見据えている。今にも再び襲いかかるかと見えたが、アレンが武器を収めたまま動かないのを見て、戸惑いが表情に影を落とす。
「……なぜ剣を捨てた。罠か?」低く唸るような声で獣人が問うた。その目には依然として警戒の光が宿っている。
アレンはゆっくりとかぶりを振った。「俺たちは本当に戦うつもりはない。君を傷つける理由もない。信じられないかもしれないが……真実だ」
リアナもまた両手を開き、静かに語りかける。「私たちはただ森を抜けたいだけ。誰も傷つけたりしないわ」その声は緊張でわずかに震えていたが、真摯な響きを帯びていた。
獣人の青年は二人の様子をしばらく疑わしげに観察していた。長い沈黙が流れる。やがて、彼はほんの僅かに身構えを解くと、絞り出すように言葉を返した。「人間の言うことなど……信用できるものか。俺たちの森を焼き払い、仲間を殺したのも人間だ」
アレンの胸が痛んだ。その声の奥に滲む悲しみと怒り——それが彼の言う“人間”への憎悪の理由なのだろう。アレンは目の前の獣人が抱える深い傷を垣間見た気がした。伝え聞いていた獣人のイメージとは異なる、生身の痛みを抱えた姿に胸を揺さぶられる。
「……すまない」アレンは静かに言った。「俺たちは知らなかった。君の民にそんな悲劇があったなんて……」
獣人の青年の眉がぴくりと動く。謝罪の言葉を予期していなかったのかもしれない。彼は苦々しげに顔を歪めた。「謝って済むことではない」
「そうだな……本当にその通りだ」アレンは自らの拳を強く握りしめた。たとえ自分と無関係の罪だとしても、人として胸が抉られる思いだった。「俺たちは過去の過ちを償うことはできない。だけど——」
アレンは真っ直ぐに獣人の瞳を見つめた。「だけど、これ以上無意味な争いを繰り返したくはないんだ。種族が違っても、理解し合うことはできるはずだ」
リアナも静かに頷いた。
獣人の青年は唇を噛み、アレンの言葉を測るように睨み返した。「理解…だと?」その声には嘲りよりも、戸惑いが滲んでいた。
リアナがそっと一歩踏み出し、穏やかな調子で尋ねた。「あなたの名前を教えてもらえませんか?」リアナの静かな問いかけは、張り詰めた空気に一筋の光を差し込むように響いた。
青年は一瞬目を見開いた。名を問われるとは思っていなかったのだろう。しばし逡巡してから、低く答えた。「…ガルザ」
「ガルザ…」アレンがその名を繰り返した。「俺はアレン。こちらはリアナだ」
ガルザは僅かに警戒を解いた様子で二人を見比べた。獣の耳と尾がわずかながら下がり、激しかった息遣いも落ち着いてきている。
「アレンにリアナ……お前たちは、本当にただの旅人なのか?」
リアナは静かにうなずいた。「ええ。私たちはある目的があってこの森を越えねばならないの。危険は承知しているけれど…あなたに敵意はないわ」
ガルザは鼻先で短く息をついた。「この先はもっと危険だ。人間二人では生きて出られない場所もある」
アレンは驚いたように問い返した。「知っているのか、この森のことを?」
「森で生きてきたからな」ガルザの声はどこか寂しげに響いた。「……俺の部族はもう俺一人しか残っていない」
アレンは、その言葉が意味する計り知れない孤独に思いを馳せ、かける言葉を見つけられなかった。
「この森だけが俺の帰る場所だ」
リアナの瞳が悲しみに揺れた。「ガルザ…あなた…」
ガルザは首を振った。「同情はいらない。それより、森を抜けたいのなら俺が案内してやる」
「君が…?」アレンは意外そうに眉を上げた。
「勘違いするな。お前たちを信用したわけじゃない」ガルザはそっけなく言い放つ。しかしその瞳に先ほどの激情はもはやない。「だが、お前たちが森で死ねば、それこそ無意味な犠牲だ。それに……」
ガルザは一瞬言葉に詰まったが、続けた。「お前たちのような人間がいるのか…確かめてみたい気もする」
アレンとリアナは顔を見合わせ、小さく微笑んだ。わずかながら緊張が解け、森の中に和らいだ空気が流れ始める。
「助かるよ、ガルザ」アレンは素直な感謝を込めて言った。「案内を頼めるなら、こんなに心強いことはない」
ガルザは照れくさそうに目を逸らした。「礼を言われる筋合いじゃない。ただ…行くぞ。夜になる前に危険な場所を抜けたい」と言うと、ガルザはふとアレンの頬に目を留めた。まだ傷口から血がにじんでいる。「その傷、放っておくのか」
アレンは手の甲で頬の血を拭った。「大した傷じゃない」
「血の匂いは獣を呼ぶ」ガルザは少し呆れたように鼻を鳴らすと、腰に下げた小さな革袋から乾いた草の葉を取り出した。「これを傷口に貼っておけ。すぐに血が止まる」
リアナが受け取り、丁寧に葉をアレンの頬にあてがった。「……ありがとう、ガルザ」控えめな声で礼を述べる。
ガルザはそっぽを向いた。「礼はいらない。無駄に獣に襲われても面倒だからな」そう言いつつ、その横顔にはわずかに優しさが垣間見えた。それに気付いたアレンの胸の内に、微かな温もりが生まれていた。
こうして三人は緑深い森の奥へと歩み出した。先頭にはガルザが立ち、アレンとリアナがその背中を追う。
ガルザの足取りは迷いがなく、森の中の獣道を知り尽くしているかのようだった。獣のように静かな動きで茂みをすり抜け、彼は時折立ち止まっては耳を澄ます。その尖った耳がわずかに動き、周囲の気配を探っているのがアレンには分かった。自分たちだけで進んでいたら気付けなかったであろう危険を、ガルザは先んじて察知しているのだ。
やがて、ガルザが手を上げて二人に静止を示した。リアナが足音を殺して立ち止まる。微かに、遠くの茂みの向こうから低い唸り声のような音が聞こえた気がした。ガルザは地面に跪き、湿った土に残る巨大な獣の足跡に触れた。その跡には鋭い爪の痕までくっきりと刻まれている。「魔物だ。すぐ近くにいる」彼は声を潜めて言った。
リアナの顔色が強張る。アレンも剣の柄に触れかけたが、ガルザが首を振ってそれを制した。「闇が深くなる前に迂回するぞ」ガルザが先導し、三人は細心の注意を払って獣の気配を避けるように遠回りに歩き始めた。しばらく進んだ後、緊張していた空気がようやく緩む。どうやら魔物との遭遇は避けられたようだった。
リアナがほっと息を吐き、小さく笑みを浮かべた。「ありがとう、ガルザ。あなたがいてくれたおかげで助かったわ」
ガルザは肩越しにちらりと彼女を見た。「礼は要らないと言ったはずだ。それに、森で生きる者なら当然のことをしたまでだ」
彼のぶっきらぼうな返事に、リアナはクスリと笑った。その声にガルザは戸惑ったように目を瞬かせ、再び前方へと向き直る。アレンはその様子を見て、胸の内で静かに安堵した。まだ拙いものではあるが、確かな絆の芽吹きが感じられた。
やがて森に夜の帳が下り始め、小さな蛍が木立の間をゆらゆらと飛び交うのが見えた。それはまるで旅人を導く小さな精霊のようで、リアナは綻ぶように微笑む。アレンもまた、不思議と胸の内に温かな灯がともるのを感じた。険しく思えた森の景色が、ほんの少し優しいものに変わっていくようだった。
アレンは胸を撫で下ろし、前を行くガルザの頼もしさを改めて実感した。森に潜む数多の危険から身を守るには、彼のような存在が必要なのだと痛感する。ガルザがいてくれる——それだけで心強かった。
まだ完全な信頼が芽生えたわけではない。だが、異なる種族の三人が肩を並べて進むその様子に、森を渡る風がどこか安らぎを帯びているように感じられた。遠くで小さな鳥のさえずりが聞こえ、張り詰めていた森の静寂が少しずつ解かれていくようだった。
ふとアレンは頭上を見上げた。枝葉の隙間から一筋の夕陽が差し込み、三人の行く先を照らしていた。それはまるで、長い闇の中に一つ灯った微かな希望のように思えた。アレンは、長い孤独の闇を彷徨ってきたガルザにも、いつかこの光が届くことを願わずにはいられなかった。




