第28話 最終決戦の幕開け
荒涼とした北方の荒野に、不気味な静寂が横たわっていた。黒い岩肌が露出した大地には草一本生えておらず、空には常に厚い暗雲が渦巻いている。その中心にそびえる古い神殿の廃墟——それが闇の司祭団の拠点である《影の神殿》だった。石造りの巨大な門塔や崩れかけた尖塔が影のように輪郭を浮かび上がらせ、周囲には異様な瘴気が漂っている。
その荒野の縁に、今やかつてない規模の軍勢が展開していた。人間・エルフ・ドワーフその他、各種族が結集した連合軍だ。無数の盾と槍が夕闇に鈍く光り、旗印が重々しくはためいている。陣中を駆ける伝令の角笛が鳴り響き、最終決戦の時が刻一刻と迫っていた。
やがて、連合軍の陣地から雄々しい戦号が上がった。「突撃せよ!」——老王の命が下り、無数の軍旗が前方を指した。先陣を切るのは、人間とドワーフの重装歩兵部隊だ。地響きを立てて荒れ地を駆け出す。その後方からはエルフの弓兵が一斉に矢を番え、上空高く射放った。火矢の雨が暗雲を赤く染めながら、影の神殿へ降り注ぐ。
次の瞬間、神殿側でも応戦が始まった。黒いローブをまとった闇の司祭団の兵士たちが城壁の上に現れ、異形の怪物を繋いだ鎖を解き放つ。「グルルル…!」獣じみた咆哮とともに、巨大な魔物たちが門から飛び出した。甲冑を着た鬼人や、漆黒の鱗に覆われた怪獣、骸骨の騎士団までもが、連合軍めがけて突進してくる。
「構えろーッ!」ドワーフの族長が戦槌を振り上げ、歩兵たちが盾を固めた。次の瞬間、生身の兵士では到底持ち堪えられないほどの衝撃が盾列に襲いかかる。鬼人の棍棒が一振りで数名の兵士を吹き飛ばし、怪獣が槍の穂先をものともせず突っ込んでくる。だが、ドワーフと人間の盾壁は辛うじて踏みとどまった。直後にエルフの矢が次々と魔物の目や喉に突き刺さり、怯んだところへ人間の騎士団が側面から斬りかかる。「今だ、押し返せ!」
荒野のあちこちで、種族の垣根を超えた連携が炸裂した。エルフの風魔法が敵の足元をすくい、そこへドワーフの戦士たちが大斧を振り下ろす。人間の槍兵が怪物を囲んで注意を引きつけ、その隙に獣人の俊敏な戦士が背後から喉笛を掻き切った。次々と繰り広げられる激戦に、大地は血と汗で湿り、轟音と悲鳴が入り混じる。
激戦は長時間に及んだが、少しずつ連合軍が押し始めていた。次第に魔物の屍が戦場を埋め、城壁の一角が崩れ落ちる。人間の騎士たちが雄叫びを上げながら開いた破口からなだれ込み、遂に影の神殿の門前へ迫った。「もう一息だ、畳み掛けろ!」老王自ら馬を駆って前線に赴き、兵士たちを鼓舞する。闇の軍勢はじりじりと後退し、勝利は目前に思われた——。
その最中、神殿の西側の陰では、アレン率いる突入部隊がひっそりと城壁に取り付いていた。正面の戦いに敵の注意が向いている隙に、古びた水路跡から城内へ忍び込む作戦である。アレン、ゼオ、ライラ、カインに加え、各種族から選ばれた数名の精鋭が共にいた。エルフの斥候が探し当てた石壁の割れ目に身を滑り込ませ、一行は次々と闇の神殿内部へと潜入した。
苔むした薄暗い回廊に足音が響く。カインが小声で呪文を唱え、掌に淡い光の球を浮かび上がらせた。行く手を照らし出された石壁には、不気味な魔導文字が刻まれている。「気をつけて。何が待ち受けているかわからないわ」ライラが剣を抜き放ち、警戒を呼びかけた。他の者たちも武器を構え、緊張した面持ちで歩みを進める。
しばらく進むと、遠くから低いうなり声と金属の触れ合う音が聞こえてきた。アレンたちは足を止め、壁の陰に身を寄せる。次の瞬間、曲がり角の向こうから醜悪な影が飛びかかってきた。「敵襲だ!」闇の司祭団の兵士だ。異様に肥大化した腕に大剣を握りしめ、狂気の笑みを浮かべている。その後ろには、腐敗した肉体を引きずるゾンビ兵や小鬼の群れがぞろぞろと控えていた。
「行くぞ!」ゼオが渾身の力で槍を突き出し、先頭の兵士の腹部を貫いた。兵士は断末魔の悲鳴を上げて崩れ落ちる。続けてライラが素早く横に回り込み、ゾンビの首を一刀両断にした。カインが詠唱を完了させ、雷の魔法を小鬼の群れに放つ。「ピギャーッ!」閃光が炸裂し、小鬼たちが黒焦げになって吹き飛んだ。
「はあっ!」アレンも剣を抜いて突撃した。残る敵兵士が大剣を振り上げて襲いかかるが、アレンの体が淡い光に包まれ、それが盾のように敵の刃を弾き返した。「なっ……!」兵士が怯んだ隙を逃さず、アレンの剣が一閃する。敵は抵抗する間もなく胸を貫かれ、そのまま倒れ伏した。
狭い通路での激しい攻防はものの数十秒で決着した。闇の司祭団の下級兵とはいえ油断ならない強敵だった。だが、人間とエルフの義勇兵も果敢に矢と剣で援護し、ドワーフの盾持ちが敵の斧撃を受け止める。その隙に各種族の精鋭が次々と敵を倒し、ついに突破口が開かれた。一行は互いに無事を確認し、途中、天井から毒矢が降り注ぐ罠に遭遇したが、カインの素早い防御魔法で事なきを得た。一行は身を屈めながら慎重に通路を進み、やがて巨大な拝堂の前に差し掛かった。
分厚い双開きの扉の隙間から、赤黒い光が脈動して漏れている。内側からは不気味な詠唱と太鼓のような低い振動音が響いてきた。アレンは意を決し、扉に手をかけた。「行こう」
重い扉を押し開けた瞬間、生暖かい瘴気が噴き出してきた。一行は鼻口を手で覆いながら中へと踏み込む。そこはかつて祭壇の間であった広大な空間——今は闇の儀式の場と化している。
天井の高い大広間の中央に、直径十メートルはあろうかという逆五芒星の魔法陣が描かれていた。周囲には黒い蝋燭が無数に灯り、赤黒い光が揺らめいている。魔法陣の中心では、黒ずくめの司祭たちが輪になって不気味な詠唱を続けていた。彼らの足元には血まみれの生贄の骸が転がっており、どす黒い血が溝を伝って魔法陣を満たしている。その血の輝きが天井まで柱のように立ち昇り、渦巻く闇の雲へ吸い込まれていく。
「止めろッ!」アレンは怒りに燃えた声で叫んだ。生贄の無残な姿に、仲間たちも激しい憤りを覚える。すると、司祭たちの輪の中央に立っていたひときわ背の高い男が振り向いた。漆黒の祭司服に身を包み、顔の大半をフードに隠しているが、その口元には余裕の笑みが浮かんでいた。「……来たか、選ばれし子よ」低く響く声が広間にこだました。
アレンは剣を構えて男を睨み据えた。「儀式は終わりだ! お前たちの好きにはさせない!」
男——闇の司祭団の司祭長はクククと喉を鳴らして笑った。「終わりだと? ふん、何もわかっておらぬな、小僧。儀式は既に最終段階に入っている。貴様らがここに辿り着いたところで、もはや止める術はないわ」
司祭長が手をかざすと、魔法陣の輝きが不気味に揺らめいた。轟音とともに大広間の床石が砕け、いくつもの漆黒の触手じみた闇がせり上がってきた。それらは生き物のようにうねり、一行に向かって一斉に伸びてくる。「チッ……!」ゼオが槍で薙ぎ払おうとするが、闇の触手は刃をすり抜けて絡みついた。
「ゼオ!」「くそ、離れろッ!」ゼオが闇に捕らわれ、もがく。その時、アレンの身体から眩い光が放たれた。守護神の加護がゼオを縛る闇を焼き払い、触手は黒煙となって消える。解放されたゼオが地面に倒れ込み、アレンが慌てて駆け寄った。「大丈夫か?」「あ、ああ……助かった」息を整えるゼオに、アレンは安堵して微笑んだ。
「フン、小癪な光の魔法よ」司祭長が忌々しげに呟いた。「だが、どのみち手遅れよ。我が主はすでに目覚めつつある」男が狂気に爛れた目を見開き、両手を天に掲げた。「さあ、来るがいい……闇の神よ! この不浄の生贄と我が魂を捧げます! 今ここに降臨なされよ!」
「止めるんだ!」アレンたちは一斉に祭司長へ向け突撃した。ライラとゼオが左右から斬りかかり、カインが攻撃呪文を放つ。しかし、祭司長の身体が瞬く間に黒い炎に包まれ、その姿が巨大な影へと変貌していく。攻撃は空しく霧散し、代わりに広間いっぱいに邪悪な笑い声が響き渡った。
アレンは凄まじい闇の気配に息を呑んだ。目の前では人の形を超えて膨れ上がる闇の塊が渦巻き、そこから無数の爪や牙が生えた怪物の輪郭が現れつつある。それは竜と獣を合わせたような異形の巨影で、腐臭を放ちながら黒い粘液を滴らせている。「これが……闇の神……!」カインが恐怖にかすれた声で呟いた。
次の瞬間、怪物の真紅の双眸が開かれ、広間全体が震え上がるような咆哮がとどろいた。「グォォォォォ……!」 その凄絶な咆哮は神殿の外にまで響き渡り、戦う両軍の兵士たちが思わず動きを止めたほどだった。
怪物が巨腕を振り下ろし、アレンたちは四方に飛び散ってそれをかわした。振動で床石が砕け、破片が凶器のように飛び散り、周囲の石柱も罅割れた。すさまじい威力だ。ライラがすかさず斬りかかるも、黒い鱗に覆われた腕に刃が跳ね返された。「なんて硬さ……!」ゼオも槍で突くが効果はない。カインの放つ火球も、闇の瘴気にかき消されてしまった。だが、裂けた傷口からは黒い瘴気が吹き出し、見る間に塞がっていった。「なんて化け物だ……!」ライラが息を呑む。「私たちの攻撃が効かないなんて……」
それでもアレンの瞳には恐怖はない。彼は仲間たちに力強く叫んだ。「負けるな! 最後まで戦い抜くぞ!」守護神の加護の光がアレンの剣先に集い、広間を眩く照らし出した。眩光をまとったアレンの剣が怪物の胸に深々と斬り込む。漆黒の表皮が裂け、怪物が初めて怒りとも苦痛ともつかぬ咆哮を上げた。闇の巨体が大きく揺らぎ、一瞬後退する。だが、裂けた傷口からは黒い瘴気が吹き出し、見る間に塞がっていった。
最終決戦の幕が、今まさに切って落とされたのだ——。




