第26話 選ばれし者の覚醒
アレンの視界がゆっくりと開けていった。そこは現実離れした光景だった。気づけば彼は、高く聳える世界樹の枝の間に広がる不思議な大地に立っている。足下には透き通るような光の床がどこまでも続き、周囲には金色の粒子が宙を漂っていた。見上げれば、夜空のように無数の星々が瞬き、空間には古の文様が淡く浮かび上がっている。神秘と光に満ちたその場所からは、かすかに懐かしい旋律が流れていた。それは世界樹の歌声だろうか。アレンは静かに息を呑んだ。自分が世界樹の精神世界に引き込まれたのだと悟る。
「よく来た、選ばれし子よ……」
背後から静かな声が響き、アレンははっと振り返った。そこには淡い黄金の光がゆらめき、人の形を象って現れていた。頭部にあたる部分には輪郭こそあれど顔はなく、全身が眩い輝きに包まれている。その存在から感じる圧倒的な威厳と慈愛に、アレンは思わず跪きそうになった。
「あなたは……世界樹の守護神様ですか?」アレンはおそるおそる問いかけた。光の人影はゆっくりと頷くと、柔らかな声で答えた。
「そうだ。我は世界樹と共に在る者……長き眠りより目覚め、汝を待っていた」
穏やかながら大地を揺るがすような声に、アレンの胸が高鳴る。「やはり……本当に守護神様なんですね」自分の言葉が震えるのが分かった。伝説の存在を前にして、緊張と畏敬でいっぱいになる。
守護神の人影はアレンに一歩近づいた。「長い間待ち望んでいた時が来た。闇が再び世界を覆わんとしている今、ようやく選ばれし者が訪れたのだ」
「選ばれし者……」アレンは戸惑いながら自分のことだと理解する。胸の奥に熱いものが込み上がった。ずっと信じ切れなかった運命の言葉が、いま目の前で証立てられたのだ。「でも……僕なんかに務まるでしょうか」気圧されながらも、恐る恐る尋ねずにはいられなかった。
守護神の光はかすかに揺れた。「誰も初めからその器を備えているわけではない。しかし汝は困難な旅路を経てここに辿り着き、なお世界を救おうという強い意思を示した。その心こそが選ばれし所以だ」
アレンははっと息を呑んだ。自分では平凡な一人の人間だと思っていたが、守護神の言葉は静かに胸に染み入った。「あなたが……僕をここへ呼んだのですか?」
守護神の人影は空を仰ぎ見るように首をもたげた。「正確には、世界樹そのものが汝に応えたのだ。私は長き封印の間、自らの声を失っていた。だが、世界樹に宿る意志は微かにでも選ばれし魂と共鳴する。汝が世界樹の元へ来たとき、その契機が訪れたのだ」
静かな声で語る守護神の言葉に、アレンは自分の胸に提げたペンダントへと手を添えた。現実の世界で光り輝いたそれは、今も微かに温かさを帯びている。「……このペンダントが導いてくれたのでしょうか。僕が生まれた時から持っていた……」そう呟くと、守護神の人影が一瞬優しげに光を強めた。
「その小さき輝きもまた、遠い昔に託された希望の欠片だろう」
守護神はそう言ってから、アレンをじっと見つめた。「アレンよ。今再び世界に闇が満ちようとしている。このままではすべての生命が脅かされるだろう。しかし、希望は失われていない。汝が未来を切り開く鍵となるのだ」
アレンは拳を握りしめ、大きく息を吸った。自分が未来を託された存在だと言われても、なお心に迷いが残る。果たして自分に何ができるのか、本当に世界を救えるのか——。
守護神はそんなアレンの内心を見透かしたようだった。「怯えることはない。しかし、覚悟は必要だ」
次の瞬間、守護神の人影がすっと後方へ退いた。「汝の心の強さ、しかと示してみせよ。試練の時だ」厳かな声が響き渡った。
突如、辺りを満たしていた光が揺らめき、空の星々がすっとかき消えた。アレンは驚いて周囲を見回す。しかし、さっきまでそばにいた守護神の姿も見当たらない。代わりに押し寄せてきたのは、深い深い闇だった。足元の光の床が砕け散り、アレンの体は宙へと放り出される。思わず叫び声を上げた。
気がつくと、アレンは荒れ果てた大地に立っていた。紫がかった黒い空からは不吉な雷光が走り、周囲には炎に焼かれた廃墟が広がっている。腐臭を帯びた風が吹き抜け、遠くで誰かのすすり泣く声が聞こえた。ここはどこなのか——アレンの胸にじわりと恐怖が広がる。
「……なぜこんなことに……」
震える声が背後から漏れ、アレンははっと振り向いた。そこには、人影がひとり立っていた。黒い外套に身を包んだ若い男性——見間違えるはずもない、ゼオだった。ゼオは鋭い眼差しをアレンに向け、その顔には悲痛な怒りが浮かんでいる。
「ゼオ……! お前、どうしてここに……」アレンが声をかけると、ゼオは激しく首を振った。「なぜだ、アレン。お前が世界樹など追い求めていたせいで、俺たちは皆……!」ゼオが腕を振り上げ、指差した先を見る。そこには幾人もの人々が倒れていた。鎧に身を包んだ兵士、ローブ姿の魔法使い——ライラとカインの姿もある。全員が血に塗れ、まるで人形のように横たわって動かない。
「嘘だ……!」アレンは絶叫した。ライラとカインが地面に崩れ伏し、返り血で赤黒く染まっている。その瞳には光がなく、全く動く気配がない。「ゼオ、これはどういう……」
ゼオは苦悶の表情でアレンを睨んだ。「お前が世界樹だの守護神だのと夢物語を追っている間に、闇は俺たちのすべてを奪ったんだ! 俺たちが必死に戦っている時に、お前がいてくれたら……!」
「違う、僕は……!」アレンは否定しようとするが、言葉が出てこない。目の前には揺るがしがたい悲惨な光景が広がっていた。自分が道を違えたせいで、こんな未来を招いてしまったのか——そんな考えが脳裏を過ぎり、アレンの心はずたずたに引き裂かれる思いだった。
その時、アレンの周囲に冷たい闇が渦巻き始めた。黒い靄が手足に絡みつき、立っていることさえ困難になる。ゼオの叫び声と亡骸の光景が頭から離れず、アレンの心は絶望に沈んでいった。「僕のせいで……皆が……」膝が崩れ落ち、地面に手をつく。涙がぽろぽろと零れ、止まらない。
『希望は失われていない…』
ふと、誰かの声が脳裏に響いた。それは守護神の声なのか、自分自身の心の声なのか判然としなかった。しかし、その言葉は沈みかけたアレンの胸に小さな灯をともした。
「まだ……終わっていない……!」アレンは顔を上げた。頬を涙が伝い落ちるが、その瞳には再び炎が宿り始めている。手足に絡みつく闇を振り払うように、よろめきながらも立ち上がった。「僕は負けない……こんな運命、絶対に変えてみせる!」
心の底から叫ぶと、体の奥から熱い力がこみ上げてきた。まばゆい光がアレンの全身を包み込む。闇の靄が一瞬で吹き払われ、目の前の悲惨な幻影が音を立てて崩れ去っていく。「ゼオ……ライラ、カイン……! 僕は諦めない、絶対に……!」消えゆくゼオの人影に向けて、アレンは涙ながらに叫んだ。
気づくと、あたりの闇が晴れて光が戻っていた。先ほどまでの悪夢の光景は消え去り、世界樹の枝間に広がる神秘の大地が再び足下に現れている。アレンは肩で息をしながら、目前に立つ光の人影を見上げた。守護神がいつの間にか戻っており、静かにアレンを見下ろしていた。
「よくぞ乗り越えた、アレン」守護神の声は柔らかだった。その瞬間、アレンの目から涙が一筋こぼれ落ちた。今しがた体験した悲痛な幻は消えたが、心の中に確かな決意が生まれている。「僕は……負けません……!」震える声でそう言うと、守護神の人影が満足げに頷いた。
「汝の決意、確かに受け取った」守護神の声が大地に響き渡る。その手が静かに差し出され、アレンへ向けられた。「今こそ、汝に古の力と記憶を授けよう」
差し伸べられた光の手から、眩い輝きが溢れ出した。黄金の奔流がアレンの胸に飛び込んでくる。アレンは目を見開いたまま身動きできなかった。頭の中に無数の映像と声が流れ込んでくる。世界の理、人々の歴史、各種族の絆、闇の司祭団の野望——そのすべてが一瞬で理解できた。まるで長い夢から醒めたように、アレンの心には確信が宿る。
「これが……守護神様の力……!」アレンの全身が温かな光に包まれていた。身体の奥から力が漲り、その胸には不思議な安堵と勇気が同時に湧き上がる。アレンはそっと自分の胸に手を当てた。ペンダントの存在をかすかに感じる。現実の身に着けているはずのそれが、光となって自分の中で脈打っているようだった。
「忘れるな、アレン」守護神の声が優しく語りかける。「お前は決して一人ではない。世界樹と守護神たる私の加護は常にお前と共にある。ゆけ、選ばれし子よ。そしてすべての種族の心を一つに束ね、闇を打ち払うのだ」
アレンは光の中で力強く頷いた。「はい……必ずやり遂げます!」
守護神の人影が穏やかにかがやきを増した。「私はいつでもここでお前を見守っている……さあ、行くのだ、我が希望よ」
その言葉とともに光が急激に強まり、アレンは思わず目を閉じた。
アレンがゆっくりと瞼を開くと、目の前には泣きそうな顔のライラと、安堵した表情のカインがいた。二人は地面に横たわっていたアレンの身体を支えるようにして覗き込んでいる。「アレン!」「気がついたのね!」
「ああ……心配かけて、ごめん」アレンは上体を起こしながら、微笑んだ。その穏やかな笑みに、二人は思わず目を見張った。アレンを包む雰囲気がどこか以前と変わっている。「アレン、お前……」カインがまじまじと友の顔を見つめる。「何だか顔つきが違う。まるで何十年も修行を積んだ賢者みたいな……」
「それに、何だか光ってる気がするわ」ライラも不思議そうに呟いた。
アレンは自分の手のひらを見下ろした。守護神から授かった力が未だ体の芯で脈動しているのを感じる。傷一つないその手を握り、確かな実感を噛みしめた。「……世界のすべてが頭の中に流れ込んできたんだ。今ならはっきりと分かるよ。何を成すべきか、何を守るべきか」
ライラとカインは顔を見合わせ、うなずきあった。「守護神様に会えたのね?」ライラがそっと尋ねる。アレンは静かに頷いた。「ああ。そして、力を授かった。僕たちには守護神様の加護がある。もう恐れるものは何もない」澄んだ瞳でそう言い切るアレンに、二人の胸にも熱いものが込み上げてきた。
「これで闇の司祭団と戦えるのね……!」ライラが力強く頷いた。「私たち三人だけじゃない、守護神様も一緒なら百人力だわ!」
カインも拳を握りしめる。「ああ、きっと勝てるさ。闇の奴らになんか負けやしない!」
アレンは二人に微笑みかけたあと、真剣な表情に戻った。「でも、僕たちだけじゃだめなんだ」
「え?」
「守護神様も言っていた。すべての種族の心を一つに束ねろって」アレンは立ち上がり、巨大な世界樹の幹に触れながら言った。「人間もエルフもドワーフも、みんなで協力しなければ闇には勝てない。世界のすべての命が力を合わせてこそ、光は闇に打ち克つんだ」
ライラは感嘆したように息を飲んだ。「全種族の協力……確かに伝説にもそんな記述があったわ。みんなで最後の戦いに挑んだって」
カインが大きく頷く。「僕たちがここで得た真実を、各国に伝えよう。王たちや長老たちも、きっと立ち上がってくれるはずだ」
「ああ。幸い時間はまだ残されている」アレンは世界樹を仰ぎ見た。高みに茂る枝葉の隙間から、一筋の陽光が差し込んでいる。「闇の司祭団はこれから最終の儀式に取り掛かるだろう。でも、完成する前に必ず止めなくては」
アレンの言葉に、ライラとカインは力強く頷いた。「急ぎましょう。皆を集めるには時間との勝負ね!」
アレンは二人を見回し、静かに告げた。「まずは……ゼオに会おう。今度こそ、力を合わせるために」
カインも即座に応じた。「僕が各地に伝令を出す手はずを整える」。
聖域に静かに木霊する世界樹の歌声に見送られながら、アレンたちは未来を切り拓くために歩み出した。守護神の加護と共に、今こそ全ての種族を束ねる戦いの旅路が始まる。




