第25話 世界樹の真実
アレンたちは深い霧に覆われた森の奥へと足を踏み入れていた。空を突くようにそびえる巨木――それが伝説の世界樹だった。枝葉は雲と交わり、根は大地の底深くにまで絡みついている。その幹は時の流れさえ記憶しているかのように古くひび割れ、苔むした表皮からは淡い光が漏れている。荘厳でありながらどこか懐かしい気配が辺りに満ち、まるで森全体が彼らの訪れを待っていたかのようだった。
巨木の足元には、太古にこの地で神々を祀っていた名残と思しき石造りの祭壇跡が広がっていた。砕けた碑や倒れ伏した石像が点在し、その多くは長い年月の間に苔むしている。高く生い茂る枝葉に遮られた陽光が、薄緑の微かな光となって廃墟の上に降り注いでいる。いずれの石像も顔の部分だけが欠け落ちており、無残な姿を晒していた。それはあたかも世界樹の守護神が<顔>を失った神話を映すかのようで、アレンは言い知れぬ畏怖を覚える。
森は静寂に包まれていた。鳥の囀りも風の囁きも、世界樹の前ではかき消されている。聞こえるのは自らの鼓動と、かすかな足音ばかりだった。微かに漂う樹液の甘い香りが、現実感をさらに遠ざけていく。時間の感覚さえ曖昧になり、現実と神話の境界が溶け合っていくようだ。アレンは小さく息を呑んだ。胸の奥が高鳴り、不安と期待が入り混じる。これが世界樹……と心中で呟いた。幼い頃から聞かされてきた神話と伝承が、今まさに現実となって眼前に広がっている。
長き旅路の末、ようやく辿り着いた聖域。傍らには心強い仲間たちが寄り添っていた。女剣士のライラは緊張を滲ませつつも毅然と大地を踏みしめ、周囲を警戒している。未知の聖域ゆえ、何が起こるか分からないと神経を尖らせているのだ。魔法使いのカインは興奮を抑えきれない様子で世界樹の幹に刻まれた古代文字を読み取ろうとしていた。カインは指先で文様をなぞり、小声で古の詩を口にする。「……『闇再び迫るとき、世界樹唄いて選ばれし子現れん』」不思議な響きを持つその言葉に、ライラが「それは……?」と問いかける間もなく、空気がふと震えた。
根元に近づくにつれ、空気がさらに変わっていく。冷たく清浄な空気に微かな光の粒子が舞いはじめ、肌に触れるたび心まで洗われるようだ。聞こえるはずのない囁きが風に乗って流れてくる。それは言葉ではなく直接心魂に響く調べ――世界樹の歌声だった。その旋律はどこか悲しげでいて慈愛に満ち、遠い記憶を優しく呼び覚ましてゆく。アレンの意識はふっと遠のいていく。
「見よ……」 誰かの声が心奥で響いた。その瞬間、アレンの目の前に幻の光景が広がる。遠い昔、世界が生まれたばかりの頃の姿だ。混沌から最初の光が生まれ、一粒の種が虚空に撒かれた。その種は瞬く間に芽吹き、一本の幼き木となって天と地を繋いだ。やがて木は成長し、世界樹となって地上を覆うほどの緑を蓄えた。人々は世界樹の恵みにより大地の果てまで広がり、森羅万象に宿る命を謳歌した。世界樹の加護の下、さまざまな種族が平和に共存し、豊かな文明が栄えた。
だが同時に、闇もまた生まれ落ちた。光あるところに影が差すように、闇は人々の心の隙間に巣食い、負の欲望を糧に力を増していった。時は流れ、闇に魅入られた者たちが現れる。黒い法衣に身を包んだ司祭たちは禁忌の魔術を操り、永遠の闇の神を崇め始めた。彼ら闇の司祭団は世界樹の無限の力を我が物にせんと企み、その聖域に戦いを挑んだ。
世界樹を守るため、一柱の神が立ちはだかった。かつて世界樹には<顔>があった――精霊王とも呼ばれる守護神が人の姿をとり、世界を統べていたのだ。守護神は優しい眼差しで全ての命を見守り、人々に知恵を授けていた。その穏やかな<顔>は世界樹の頂に浮かび、大樹を通じて世界と言葉を交わしていたという。しかし、闇の勢力が増す中、守護神は世界樹を狙う司祭団と激突した。大地は裂け、空は悲しげに泣き、光と闇が荒れ狂う激戦の末、守護神は深い傷を負ってしまう。闇の司祭たちは神ですら冒涜する禁呪を放ち、世界樹に黒い炎を浴びせた。枝葉は焼かれ、命の泉は干上がらんとした。窮地に追い詰められた守護神は、最後の力を振り絞り、自らの<顔>を天高く掲げた。
「これ以上、世界を闇に渡すわけにはいかない…!」守護神の嘆きにも似た叫びとともに、その<顔>は聖なる光を放って砕け散った。世界樹は眩い輝きに包まれ、溢れ出した生命の力が闇を払い去っていく。闇の司祭団は焼けつく光に悲鳴を上げ、残党は影へと逃れた。しかしその代償はあまりにも大きかった。守護神は自らの顔と共に声をも失い、世界樹と一体となって永遠の眠りに就いたのだ。<無貌の世界樹>――顔を失った世界樹は静寂に沈み、その後、神々の声は一切届かなくなった。
アレンは幻視の中で、光と闇の果てしない攻防を目の当たりにし、言葉を失った。壮絶な光景の数々に、まるで自分もその場に立ち会っているかのような錯覚さえ覚える。人々の悲鳴、祈り、絶望と希望がない交ぜになった感情が押し寄せ、アレンは胸が張り裂ける思いだった。幾千年もの間、世界各地で戦乱が繰り返され、勇敢な英雄たちが立ち上がっては散っていった。アレンの幻視には、かつて幾度も闇に立ち向かった勇者たちの姿が浮かんでは消えていく。白銀の甲冑に身を包んだある王が聖剣を高く掲げ突撃するも、黒き巨影に飲まれてゆく光景。エルフやドワーフの軍勢が種族の垣根を越えて手を携え、最後の砦を死守しようと奮戦するも、業火に焼き尽くされていった結末……。どの時代も、守護神なき戦いでは決定打を欠き、勝利はあと一歩のところで潰えたのだった。守護神なき時代、人々は神話の断片だけを頼りに試練を乗り越えてきたが、その間にも闇の勢力は力を蓄え、再び世界を覆わんと機を窺っていた。そして今、闇はついに動き出したのだ――アレンはそれを直感的に悟った。遠く離れた現在の世界各地で、不穏な影が蠢いている光景が脳裏をよぎった。荒廃した村、泣き叫ぶ人々、天を覆う黒雲……。黒衣の司祭たちが古びた祭壇に集い、不気味な儀式を執り行っている。闇の魔物が産声を上げ、大地を蹂躙する姿……。それらは闇の司祭団の復活と悪しき企みを如実に示していた。
視界が一瞬にして暗転する。アレンは現実へと引き戻された。膝ががくりと崩れそうになるのを堪え、必死に踏みとどまる。すぐ傍らでライラが支え、カインが青ざめた顔で覗き込んでいた。「アレン、大丈夫!?」ライラの声が耳に飛び込む。アレンは額に滲んだ冷汗を袖で拭い、荒い息を整えながらなんとか頷いた。「……平気だ。ただ、今…見えたんだ。遥かな過去と…これから起こるかもしれないことが。」震える声でそう答えると、二人の表情は驚愕に強張った。
「見えた…だと? 何を見たというの」カインが恐る恐る問いかける。アレンは先程心に流れ込んできた光景を、言葉を選びながら話し始めた。世界樹の誕生と繁栄、守護神の存在、闇の司祭団との戦い、そして守護神が<顔>を失った経緯――目にしたままを伝える。語り終えると、三人の間には深い静寂が降りた。伝承が現実の脅威となった事実に戦慄し、誰もすぐには言葉を発せない。
その沈黙を破るように、カインがはっと何かに思い当たったように顔を上げた。「そういえば…先ほど幹で読んだ詩に『選ばれし子現れん』という一節があった。まさか……アレン、お前のことじゃないのか?」ライラも驚いた様子でアレンを見つめる。
アレンは戸惑いに目を泳がせた。自分が“選ばれし子”などと信じられない。だが世界樹が自分に幻を見せたのは確かだ。偶然ではあり得ない。「…わからない。僕なんかが選ばれし子だなんて……。だけど、世界樹が僕にあの幻を見せたのは、きっと何か意味があるはずだ」アレンは言葉を絞り出した。その拳は震え、胸の内には使命感にも似た熱が灯り始めていた。
カインは青ざめた顔で声を震わせた。「まさか…闇の司祭団が本当に復活しているというのか? 世界樹の力を再び奪おうとしている…?」自分で言いながら、その声は震えていた。ライラは悔しげに唇を噛みしめる。「放っておけば、世界は闇に堕ちるってことね…」。アレンは拳を強く握りしめた。胸の内に沸き起こる怒りと使命感――自分たちがここへ辿り着いたのも、もはや偶然ではないのだと確信する。これまでの旅の途上で目にした数々の異変――各地で起きていた魔物の狂暴化や、夜毎村人が姿を消す怪事件。あの時は理由も分からぬまま対処するしかなかったが、今なら分かる。それらは全て闇の司祭団の暗躍と復活の兆しだったのかもしれない。アレンはそう悟り、背筋に冷たいものが走るのを感じた。「僕たちで止めるしかない。闇の企みを…世界樹を、守護神様をこれ以上傷つけさせはしない」静かながらも強い決意を滲ませてアレンが言うと、二人も力強く頷いた。
そのとき、アレンの脳裏にある一人の友の面影が浮かんだ。かつて共に戦い、しかし今は袂を分かった戦士、ゼオの姿だ。共にいるはずの彼が傍らにいない寂しさが、胸の奥で疼く。闇との決戦には、ゼオのような強き力も必要になるだろう……。アレンは静かにその名を心の中で呼んだ。いつの日か再び肩を並べて戦えることを願いながら。そして今はまず、目前の使命を果たす時だと自分に言い聞かせた。
「守護神様は今も世界樹の中で生きているの?」カインがふと尋ねる。アレンは再びそびえ立つ世界樹に目を向けた。木漏れ日のような光が幹を伝い、揺らめいている。あの幻視が真実ならば、守護神は自らの顔と引き換えにこの樹そのものとなり、長い眠りについているのだ。<無貌の世界樹>――それは守護神が己を犠牲にして成した姿。その思いに触れ、アレンはそっと幹に手を当てた。ひんやりとした木肌から、かすかな鼓動が伝わってくる。それは確かに命の響きだった。アレンの胸の奥に熱いものが込み上げる。守護神の犠牲と思いを無駄にはできない、と強く心に誓った。
アレンは瞼を閉じ、静かに心の中で呼びかけた。「守護神様…もしあなたが今もこの世界を見守っているなら、どうか教えてほしい。私たちは何をなすべきなのか…どうか、お力を貸してください」胸の内で懸命に祈る。その刹那――
そのとき、不意にアレンの胸元が明るく輝いた。彼の首から下げられた小さなペンダントが、世界樹に呼応するように光を放ち始めたのだ。それはアレンが生まれた時から身につけていた、中央に翠玉をあしらった銀細工の小さなペンダントである。突然のことに三人は目を見張った。アレン自身も驚きに息を呑む。ペンダントは脈動するように明滅を繰り返し、その光は次第に強さを増していく。
「な、何…?」ライラが戸惑いの声を上げる。カインが恐る恐る魔力を探ろうとしたその刹那、眩い閃光が辺りを満たした。アレンの意識は白い霧に包まれていく。遠くで誰かの声がした。「…よく来た…」穏やかながら力強いその響きは、直接頭の中に語りかけてくるようだった。ライラとカインが「アレン!」と叫ぶ声が耳元で反響し、次第に遠のいていく。視界は純白に染まり、アレンの身体から力が抜けた。そして彼の意識は深い淵へ沈み込んでいった。
閃光が消え去り、森には再び静寂が訪れた。残されたライラとカインは、光を失い崩れ落ちたアレンを支えながら、ただ茫然と聖域に立ち尽くしていた。その時、世界樹の梢がそよ風に揺れ、葉擦れの音が静かに響いた。それはまるで、眠れる守護神が二人を見守りながら息づいているかのようであった。




