第23話 司祭団拠点への潜入と探索
エルドリアの森を発って半日、アレンたちは北方の古き遺跡へと続く険しい山道を進んでいた。空には朝から厚い雲が垂れ込め、時折遠くで雷鳴が轟いている。風に湿り気を孕んだ冷たい空気が肌を刺し、まるでこれから訪れる試練を暗示するかのようだった。
ガルンたちエルフの追撃部隊は後方を慎重に進んでいるはずだが、彼らと合流することは一旦諦め、アレンたちは先行して遺跡への突入を図ることにしていた。時間との戦い――闇の司祭団の儀式が完了する前に、何としても核心へ辿り着かねばならない。四人は無言のまま、ひたすら山道を駆け上っていく。
やがて、ぽつりと冷たい雨粒が頬を打った。見る見るうちに雨脚は強まり、灰色の世界に白い線を描く。薄暗い午後の光の中、遠目にも巨大な石造りの構造物が山腹に姿を現した。それが目的地である北方の遺跡だった。荒れ果てた古の神殿は所々崩れ、石柱が苔むしている。だが、断崖を穿つようにして建てられた正面の大扉は固く閉ざされており、周囲には不気味な静けさが漂っていた。
アレンはその威圧的な光景に身震いしたが、すぐに気を引き締めて手で合図した。一行は遺跡から少し離れた岩陰に身を潜めた。雨音が周囲の物音をかき消しているが、慎重に越したことはない。「見張りはいないようだな…?」ゼオが低い声で囁く。エリーナが首を横に振った。「いえ、感じます。結界の気配が…遺跡全体が魔法障壁で覆われているようです」リアナが静かに目を閉じ、気を探る。「確かに…自然の流れが不自然に遮断されてる。この雨も結界に阻まれてか、遺跡の上だけ降り注いでいないみたい」
四人は顔を見合わせ、頷き合った。物理的な見張りこそ見当たらないが、強力な防御魔法が展開されているらしい。「強行突破は得策じゃないね」アレンが小声で言う。「敵に気付かれずに内部へ潜入する方法を考えよう」彼は雨に煙る遺跡の輪郭を睨みつけながら思考を巡らせた。
「裏手に回ってみましょう。古い遺跡なら、秘密の抜け道があるかもしれません」エリーナが提案する。彼女は古代遺跡に詳しいため、何か思い当たることがあるのかもしれない。アレンたちは慎重に遺跡の側面を回り込むように移動した。岩肌に沿って進むと、小さな割れ目のような隙間が見つかった。苔と蔦に覆われ見落としそうになるが、確かに人工的な石材が覗いている。
ゼオが力任せに蔦を掴み引き剥がした。「ここから中に入れそうだ」隙間は人ひとりがやっと通れる幅しかなかったが、他に道はない。アレンが先頭に立ち、身を横にして隙間へと滑り込んだ。冷たい岩壁が身体に擦れ、闇が彼を呑み込んでいく。鼓動が耳に響くほど静まり返った空間だったが、アレンは恐怖を押し殺し、一歩また一歩と奥へ進んだ。岩と岩の間を擦り抜けると、内部はひんやりと湿った空気に満ちていた。そこは遺跡の地下へ通じる隠し通路のようだった。
エリーナが魔導灯にそっと呪文を唱え、微かな光を灯す。狭い石造りの階段が下方へ続いており、一行は足音を殺してゆっくりと降りて行った。壁面には古代文字が刻まれていたが、ところどころ苔と土に覆われ判読できない。それでもエリーナは興味深げに指でなぞり、解読を試みる。「この遺跡…やはり世界樹に関する祭祀場だったみたい。<聖なる根>とか<大いなる命>といった語が読み取れるわ」彼女の囁きに、リアナが緊張した面持ちで頷いた。「きっと、ここで世界樹と交信していたのね。だから司祭団も……」言葉の続きを飲み込み、四人はさらに奥へと進んだ。
ひんやりと湿った空気の中、壁から滴る水音だけが響く。しばらく行くと、通路が二手に分かれていた。アレンが立ち止まり、小声で仲間に囁く。「どうする? 道を間違えれば、無駄な時間を使うことになる」ゼオが壁際を注意深く観察した。「こっちは微かに風を感じる。外へ通じているか、広い空間に出る道かもしれん」一方、エリーナは反対側の通路の床に目を凝らした。「こちら、地面に古い血痕のような染みが…何か儀式に使われた跡かもしれません」どちらも捨てがたい情報だった。
アレンは思案した末、リアナを見た。「リアナ、何か感じることは?」リアナは静かに目を閉じ、周囲の魔力の流れを探った。「…奥の方から、かすかに嫌な気配を感じるわ。左の道の先、何か…強い負の感情の残滓のような…」それはエリーナが示した血痕の方角だった。アレンは頷く。「よし、こちらへ行こう」四人は慎重に左の通路へ進んだ。 進むにつれ、鼻を突く鉄錆びた匂いと、朽ちた植物の腐臭が漂ってきた。皆、無言のまま緊張を強める。やがて、廊下の先に朽ちた扉が見えた。アレンがゆっくりと扉に手を掛け、押してみる。ギィ…と嫌な軋み音を立てて扉が開いた。
次の瞬間、アレンは咄嗟に身を引いた。直後にシュッという音がし、一本の矢がアレンの眼前を掠めて背後の壁に突き刺さった。続いてさらに数本が次々と射出され、石壁に突き立ったのだ。どうやら罠が仕掛けられていたらしい。「気をつけて、古い罠がまだ生きてるなんて…」リアナが息を呑む。ゼオが矢を一本引き抜き調べた。「毒だ。即死性の強毒が塗られてる。相当悪質な罠だな…」エリーナが眉をひそめる。「司祭団が仕掛け直したのかもしれませんね。侵入者を防ぐために」
アレンは慎重に廊下の先へ目を凝らした。どうやら罠は今の一度きりのようだが、油断はできない。「ここから先、ますます警戒しよう。一歩ずつ踏みしめて進んで」彼は声を潜めて言った。仲間たちは緊張した面持ちで頷く。矢の罠を抜け、四人は部屋の中へ足を踏み入れた。
そこはかつては儀式の間だったのだろうか、天井の高い広間に無数の石柱が林立していた。かすかな苔の匂いと、ほこり臭さが鼻を掠める。エリーナが天井付近を見上げ、「気をつけて、魔法の気配がするわ」と注意を促した。その声の直後だった。床に描かれていた魔法陣がぼんやりと淡緑色に光り始めたのだ。リアナが叫ぶ。「何か来る…!」
床の魔法陣から盛り上がるように黒い影がいくつも湧き出した。それらは人型をしているが、輪郭は霞のように揺らめいている。闇の魔力で創り出された幻影兵だ。「やはり罠か!」ゼオが大剣を抜き放ち、構えを取った。アレンも剣を抜き払い、仲間たちに声を飛ばす。「各自、迎え撃て!」ファントムたちは濁った光の眼を見開き、一斉に襲いかかってきた。
ゼオが先陣を切って一体を両断すると、幻影らしく抵抗もなく霧散した。しかし次の瞬間、斬り伏せたはずの影が再び形を成す。アレンは愕然とした。斬ったはずの敵が何事もなかったかのように形を取り戻したのだ。剣を握る手に冷たい汗が滲む。「厄介ね…物理攻撃だけでは倒せないみたい」リアナが素早く詠唱に入り、浄化の光を放つ。光に触れたファントムは耳障りな悲鳴を上げて消滅した。「聖なる魔法が有効よ!」リアナの声に、エリーナもうなずき詠唱を開始する。彼女は古代語で封印の呪を紡ぎ、数体の影の動きを封じ込めた。
その間にも、残るファントムたちが刃となった腕を振り下ろし、アレンたちに襲いかかる。アレンは一体の攻撃を剣で受け止め、刃を滑らせて逆に相手を弾き飛ばした。実体のない敵ゆえ手応えはないが、注意を逸らすことはできる。しかしその隙に別のファントムが鋭い爪を振り下ろし、アレンの左腕をかすめた。鎧の合間を浅く切られたが、傷口から氷の刃が入り込むような冷たさが広がり、彼は思わず歯を食いしばる。「ゼオ! そっちを任せる!」アレンが叫び、ゼオは短く「任せろ!」と答えて別の一体を引き受けた。
リアナとエリーナの魔法詠唱が重なり合い、広間に閃光が炸裂した。聖なる光が波となって押し寄せ、ファントムたちの黒い影を呑み込んでいく。怨嗟の声が木霊し、次々に幻影兵が消滅していった。最後の一体が絶叫とともに掻き消えると、広間には静寂が戻った。呼吸を整えながら、アレンは周囲を見渡す。「全員、怪我はないか?」ゼオが肩で息をしつつ「なんとか無事だ」と答えた。その声に安堵しながらも、リアナはアレンの左腕から薄く血が滲んでいるのを見とめ、小さな癒しの光を当てた。「助かるよ、リアナ」アレンが礼を言う傍らで、傷口はすぐに塞がっていく。冷たい痺れがまだ腕に残っていたが、それもじきに和らいだ。リアナとエリーナも互いに無事を確かめ合い、ほっと息をついた。
「見て…」エリーナが部屋の隅を指差した。そこには台座があり、かつては何かが据えられていたようだが、今は空だった。「おそらく、世界樹への祈りに使われた聖具があったのでしょう。司祭団が持ち去ったのかもしれないわ」リアナが悔しそうに呟く。アレンは拳を握りしめた。「急ごう。連中は奥で儀式の準備を進めているはずだ。この先に主目的の場所があるはずだ」四人は頷き合い、再び緊張感を新たに先へと進んだ。
広間を抜けた先には、長い回廊が続いていた。壁には古びた燭台が等間隔に並び、弱々しい炎がゆらゆらと揺れている。どうやらこの先は既に人の手が入っているようだった。リアナが小声で告げる。「近いわ…闇の気配がどんどん強くなっている」彼女の言葉通り、空気が次第に粘りつくような重さを増してくる。アレンたちは足音を殺し、壁沿いに進んだ。
やがて行き止まりに見えた壁に、巨大な扉が口を開けていた。分厚い石製の両開き扉が半ば開放され、その向こうから暗紫色の明滅する光が漏れている。アレンは静かに扉の縁に身を寄せ、中の様子を窺った。そこは広大な円形の大広間だった。天井は闇に消えるほど高く、壁面には無数の古代文字と魔法陣が刻まれている。その中心には巨大な石造りの祭壇が据えられ、絡みつくような木の根が床から競り上がっていた。世界樹の根の一部であろうか、祭壇を抱えるように黒ずんだ太い根がうねり、禍々しい光に照らされている。
祭壇の上にはいくつかの光る物体が配置されていた。一つはリアナの里から奪われた世界樹の果実——脈動する翠玉のような球体だ。他にも、赤い輝石や、銀の杯、古びた巻物のようなものが見える。それらはおそらく各地から集められた聖なる宝だろう。祭壇を中心に、黒衣の司祭たちが十数名、円陣を描くように並び祈祷を捧げていた。彼らの低い呪詛のような詠唱がうねりを持って空間を満たし、紫の炎が蝋燭台に揺らめいている。
そして祭壇の前には、一際背の高い男が両手を広げて立っていた。闇色の法衣に身を包んだ長身の男——その顔には奇妙な仮面が付けられている。まるで能面を思わせる無表情な面で、目の部分だけが赤く光を宿していた。アレンの心臓が高鳴る。おそらく、あれが闇の司祭団の司祭長であり、この儀式を取り仕切っている男に違いなかった。
祭壇の根元では、黒い霧が渦巻いている。その中心に黒々とした穴のようなものが口を開け、まるで奈落へ通じる門のようだ。男は呪文を高らかに唱え、何かを呼び出そうとしているようだった。アレンはその光景に戦慄を覚えながらも、決意を新たにした。胸には故郷の仲間たちや旅路で散っていった人々の面影が浮かぶ。もう誰一人失うわけにはいかない——その思いがアレンの全身に力を漲らせた。今ここで食い止めなければ、全てが闇に覆われてしまうのだ。
アレンは身を隠したまま、後ろの仲間たちに囁いた。「僕たちで儀式を止める。合図したら一斉に攻撃を仕掛けよう」ゼオが大剣を握り直し、リアナとエリーナもそれぞれ呪文の準備に入る。皆の顔に緊張が走る中、アレンは静かに深呼吸した。この瞬間のために、自分たちは全てを賭けてきたのだ。いざ——。
アレンが飛び出そうとしたその刹那、冷ややかな声が広間に響き渡った。「客人とは珍しいな…出てきたらどうだ?」はっとしてアレンは動きを止める。司祭長の仮面の下の唇が、嘲笑を浮かべているのが見えた。既に気取られていたのか——。緊張が一気に張り詰める。ゼオが小さく舌打ちした。「チッ、バレていたか…」
「隠れるつもりならば、もう遅いぞ」司祭長の男がゆっくりと振り向き、赤い仮面の目がまっすぐこちらを捉えた。「世界樹の迷い子たちよ、その身ごと闇に捧げるがいい」静かながら空気を震わせる声だった。次の瞬間、司祭たちが一斉に詠唱を停止し、こちらへ腕をかざした。紫の光弾が無数に生み出され、矢のように飛んでくる。
「散開しろ!」アレンが叫ぶより早く、一行は四方へ跳び散った。直後に立っていた場所を光弾が抉り、石片が飛び散る。ゼオが吠えるように剣を掲げ、アレンも剣を構え直した。リアナとエリーナはすかさず防護の魔法障壁を展開し、後方を固める。「ついにご登場ってわけか…派手にやろうぜ!」ゼオが不敵に笑う。アレンも静かに頷き、鋭い眼光で司祭長を見据えた。
こうして、死闘の幕が切って落とされた。闇の司祭団との最終決戦が、今始まろうとしている。




