第21話 仲間たちの内面的な葛藤
漆黒の夜空に瞬く星々さえ、彼らの胸中に渦巻く不安を照らし出すことはなかった。静まり返った森の中、焚き火の揺れる赤い灯だけが頼りなく足元を照らしている。アレンたち一行は野営の準備を終え、それぞれが黙り込んで火を囲んでいた。焦げた薪から立ちのぼる煙が、かすかな風に乗って夜気へと消えていく。だが、その煙のように消え去らないものが、彼らの胸にはあった。
アレンは炎を見つめながら、仲間たちの静かな様子をうかがった。ゼオは大剣を脇に立てかけ、腕組みをして目を閉じているが、その眉間には深い皺が刻まれている。リアナは膝を抱えて炎の揺らめきに目を据え、何かを堪えるように唇を噛んでいた。エリーナは傍らの古びた書物に視線を落としているものの、その指先はページを捲ることなく固く閉じられている。それぞれが異なる思いに囚われ、互いの存在を感じながらも声をかけられずにいた。
今日まで苦楽を共にしてきた仲間たち――だが、闇の司祭団との戦いが苛烈さを増すにつれ、彼らの間に見えない亀裂が生まれていた。アレンには、その綻びが放つ冷たい気配が痛いほど感じられる。ほんの些細な考え方の違い、信念のすれ違いが、積み重なって裂け目となりつつあった。
やがて、ゼオが押し黙ったまま重い口を開いた。「……このままで、本当に勝てるのか?」低く搾り出された声は、焚き火のはぜる音にかき消されそうになりながらも確かに届いた。彼は目を開けずに言葉を続ける。「俺たちは正しいことをしているのか、わからなくなる時がある」
唐突な言葉に、リアナが小さく反応した。彼女は顔を上げ、ゼオを見つめる。「どういう意味?」声音には微かな震えがあった。ゼオはゆっくりと瞳を開き、炎越しに仲間たちを見渡した。
「闇の司祭団を止める。それ自体は間違っていないさ」ゼオは沈んだ瞳で語る。「だが……俺たちだけで何ができる? 相手はこの世界の深部に根を張った闇だ。あいつらを追うたびに、新たな犠牲が出ている。今までだって、俺たちは色んなものを失ってきた……」ゼオの拳が怒りに震え、堪えきれない思いが滲み出る。「それなのに、これ以上何を賭けろって言うんだ!」
最後は吐き捨てるような叫びだった。静寂を破った怒声に、エリーナがびくりと肩を震わせる。リアナも目を見開いたまま、言葉を失っている。アレンは胸が締め付けられる思いだった。ゼオの痛みも葛藤も、痛いほど理解できる。彼らは旅の中で、大切なものをいくつも失ってきたのだ。
アレンはそっと息を吐き、一歩前に出て皆の顔を見回した。「俺たちが払ってきた犠牲は、決して無駄じゃない」静かだが芯のある声で語りかける。「それぞれの想いを抱えてここまで来た。ゼオ、君の怒りも悲しみも、僕たち皆のものだ。リアナ、エリーナ、皆が傷ついてきた……でも、それでも歩みを止めなかった」
リアナが小さく頷いた。「私だって怖い。戦うたび、自分の信じてきたものが揺らぐことがあるわ」彼女の声はか細かったが、確かな熱を帯びていた。「だけど……私は守りたい。どんなに苦しくても、失いたくないものがあるから」
エリーナも口を開く。「私も同じです……闇に屈してしまえば、残るのは後悔だけ」彼女は震える声を抑えながら言葉を絞り出した。「私は知りたいんです。本当の真実を……闇の司祭団が何を企んでいるのか、この世界に何をもたらそうとしているのか。それを知って、止めたい。自分が信じる未来のために」 ゼオは炎を見つめながら黙って二人の言葉に耳を傾けていた。その表情にはまだ暗い影が宿っている。しかし、リアナとエリーナの決意を帯びた瞳に触れ、彼の頑なな心も少しずつ解きほぐされていくかのようだった。アレンは静かにゼオに問いかける。「ゼオ……君が本当に守りたいものは何だ?」
ゼオはハッとしたようにアレンを見た。守りたいもの――彼の脳裏に浮かんだのは、かつて誓い合った約束。故郷で待つ家族や仲間たちの笑顔、そして信じてくれた恩師の姿。ゼオは奥歯を噛み締めると、絞り出すように答えた。「……俺は、もう何も失いたくないんだ。守れるものは全部守りたい。そのためなら……俺は、自分のすべてを懸けると決めたはずだった」
リアナが優しくゼオを見つめた。「ゼオ、その気持ちは私たちも同じよ。失いたくない、守りたいって思うから戦っている」エリーナも静かに頷く。「ええ…私たちは皆、何かを守るためにここにいます。ゼオさんだけじゃありません」 ゼオは二人の視線を順に受け止めると、微かに苦笑した。「……俺は、怖かったのかもしれない。守りたいと思うほど、失うことが怖くなってたんだ」重たい独白だった。「お前たちを失うのも……自分自身を失うのも、もう嫌だと思っていた。だから戦いに臆病になっていたのかもしれない」
アレンはゆっくりと首を振った。「臆病なんかじゃない。誰だって怖いさ……本当に大切なものを知っている人間ほど、恐れを知るものだよ」彼はゼオの目をまっすぐに見据え、確かな口調で続けた。「だけど、僕たちは一人じゃない。皆で支え合ってきたからここまで来られた。これからも……共に戦おう」
火の粉がはぜ、夜空へと瞬いた。ゼオはしばらくアレンの瞳を見つめ返していたが、やがて静かに目を閉じた。「……悪かった」それは仲間たちへの詫びとも、自分自身への認識ともつかない短い言葉だった。「俺は、お前たちを信じる。信じて……託す」ゼオは自らの胸に手を当て、再び強い眼差しを取り戻していく。「だから、俺にもお前たちの力を貸してくれ」
リアナが微笑んだ。その頬には涙が一筋伝っていたが、焚き火の光の中で輝いて見えた。「もちろんよ、ゼオ。私たちは仲間でしょう?」エリーナも安堵の笑みを浮かべる。「はい、共に歩んできた仲間です。これからも、一緒に」
アレンは胸の奥に温かなものが灯るのを感じた。孤独な闇夜に一輪の灯火がともるように、皆の心にも小さな光が宿ったのだ。彼らは互いの存在を再確認し、深い絆で結ばれていることを改めて知った。ゼオの熱き闘志も、リアナの優しき信念も、エリーナの探究心も――本来は別々の道を照らす灯火だったかもしれない。それでも今、彼らの心に宿った光は重なり合い、ひとつの大きな炎となって胸の内で燃え上がっていた。それは闇夜をも照らす希望の篝火。互いが違う存在であるからこそ生まれる強さが、確かにここにある。
アレンは静かに息を吸い込んだ。先ほどまで胸を支配していた不安は霧散し、代わりに確固たる決意が心に根づいているのを感じる。今度こそ、闇を断ち切るのだ――そう胸に誓った。
「ありがとう、みんな……」アレンは静かに礼を述べた。自身もまた、不安や疑念に囚われていた心が軽くなるのを感じていた。「俺たちなら、きっと乗り越えられる。どんな闇が相手でも、共に立ち向かえば恐れるものはない」
その時、不意に森の奥から小さな音が聞こえた。皆が一斉に反応し、物音のした方へ目を凝らす。リアナが呪文の詠唱に備えて杖を握り、エリーナは古書を構え、ゼオは大剣を手に立ち上がる。アレンは素早く腰の剣に手を添えつつ、静かに仲間たちに合図を送った。
闇に包まれた木立の向こう、何かが蠢いている気配がある。風に乗って、低い呻き声のようなものが微かに届いた。やがて、影が一つ、朧な月明かりの下に姿を現す。ぼろ布をまとった人影――否、その異様な瘦せ細った肢体と虚ろな瞳は、人ならざる存在。闇の司祭団が各地に放っている使い魔の類だろうか。
「皆、用心して…!」アレンが小声で告げる間に、その異形の者はギギ、と軋むような声をあげた。直後、信じられない速さでこちらへと跳躍してくる。ゼオが前に出て大剣を振りかざし、闇の如き影を叩き伏せた。鈍い手応えと共に地面に崩れ落ちる怪物。しかしそれで終わりではなかった。森の闇から次々と複数の赤い光点が浮かび上がる。複数の同じ使い魔が潜んでいたのだ。
リアナが素早く呪文を唱え、聖なる光の矢を放つ。木立の間を縫うように飛翔した光の矢は、一体の胸を正確に貫いた。甲高い悲鳴とともに、それは闇の塵となって霧散する。エリーナも古書の頁を広げ、結界の呪句を唱え始めた。「来るわ…!」彼女の声が緊張に張り詰める。
三体、四体……次々と現れる邪悪な気配に、アレンたちは円陣を組んで背中を合わせた。「まるで僕たちを狙っていたかのようだな…」ゼオが息を吐き、汗を握る。アレンは周囲を警戒しつつ頷いた。「恐らく、我々の動きを探る偵察かもしれない。でも、ここで食い止めよう。逃がせばまた追跡される」
激しい戦闘が始まった。闇の使い魔たちは知性なき獣のように襲いかかり、その数は尽きることがないかに思えた。だが、仲間たちは先ほど取り戻した結束を力に変え、見事な連携で応戦する。ゼオの大剣が唸りを上げて前衛を薙ぎ払い、リアナの聖なる光が闇を穿ち、エリーナの結界が仲間を守る。アレンは素早い剣技で死角に迫る敵を退けながら、全体の戦況に目を配った。
一陣の風が吹き抜け、木々のざわめきが増す。ふと、アレンの脳裏に嫌な予感が走った。この奇襲は、単なる偶然ではない。まるで彼らの居場所を的確に嗅ぎつけているかのような執拗さ――。闇の司祭団がすぐ近くに迫っているのでは? あるいは、何か罠なのではないか?
「アレン!」リアナの叫び声に思考を引き戻される。目の前に一体の使い魔が迫っていた。アレンは驚愕しながらも身を翻し、寸でのところで敵の牙から逃れた。すかさず剣を振り抜き、相手を斬り伏せる。しかし腕に生温かい感触が走った。浅い傷を負ったらしい。
ゼオが駆け寄り、その使い魔をとどめとばかりに叩き斬った。「無理をするな!」彼が叫ぶ。アレンは頷き、体勢を立て直した。「大丈夫、ありがとう!」素早く返事をしながら、再び戦いの輪に加わる。
数分に及ぶ死闘の末、ついに最後の一体が断末魔を上げて地に崩れ落ちた。荒い息をつきながら、アレンたちは辺りの気配を探る。もう動く影はないようだった。エリーナが結界の維持を解き、緊張がわずかに和らぐ。
「全員、無事か?」アレンが声をかける。リアナは頷き、額の汗を拭った。エリーナもほっと息を漏らし、ゼオは剣を収める。「ああ…しかし、妙だな。何故こんな場所にまで使い魔が出没する?」ゼオの疑問はもっともだった。
リアナがあたりの闇を警戒しつつ答える。「私たちを追ってきたのかもしれないわ。闇の司祭団が操っているのなら、私たちの存在を感知したのか…」エリーナは思案顔で首を傾げた。「だとしたら、ここに留まるのは危険ですね。すぐにでも移動した方が…」 リアナはそっと瞼を閉じ、杖を握りしめたまま周囲の気の流れを探ろうと精神を研ぎ澄ました。聖なる光の術を操る彼女には、残留する邪悪な気配を感じ取ることができるのだ。やがて、彼女の眉が僅かにひそめられる。「感じるわ…遠くからだけど、微かに。とても禍々しい波動が北の方角に集まっているのを」リアナの声音には怯えと怒りが混じっていた。
「北か…」ゼオが険しい表情で呟く。「まさか、司祭団の……」言葉の続きを飲み込むと、彼は唇を引き結んだ。
エリーナが驚いたようにリアナを見る。「リアナさん、それは確かですか?」「ええ、はっきりとは言えないけれど…この森に漂っている瘴気の流れが、北へ引き寄せられているように感じるの」
アレンは皆の言葉を聞きながら考えを巡らせていた。奇襲は不意を突いたものだったが、結果として仲間たちの結束を再確認させる契機にもなった。今の彼らなら、どんな困難も乗り越えられる――そう確信できる戦いぶりだった。だが同時に、敵の執拗さも実感する結果となった。
「エリーナの言う通りだ。ここに長居はできない」アレンはきっぱりと告げた。「夜明けを待って、すぐに移動しよう。安全な場所を探して、今後の作戦を立て直す必要がある」仲間たちは皆賛同の意を示すように頷いた。闇の司祭団との最終的な決戦に向けて、やるべきことは山積しているのだ。
ゼオがふと空を仰いだ。「夜明けまで、そう長くはないな」東の空がわずかに灰色に染まり始めていた。暗い夜を抜けて、やがて朝が訪れる。それは、新たな希望の兆しでもある。リアナは微笑みながら呟いた。「ええ…きっと、明けない夜はないわ」
アレンは頷き、仲間たちと共にもう一度火の周りに腰を下ろした。彼らは疲れていたが、その胸には小さな希望の火が灯っていた。誰も言葉を発しなかったが、静寂はもはや重苦しいものではなかった。互いの存在を暖かく感じながら、各々が短い休息に身を委ねる。新しい朝陽が森を照らし出す頃、彼らは再び歩き出すだろう。共に闇と戦う、確かな信念を胸に抱いて。




