第20話:宿命の初戦、そして犠牲
闇が深々と降り積もる夜半、鬱蒼と茂る原生林の奥に朽ちた神殿が佇んでいた。魔族の古い祠の跡だというその場所に、不気味な紫の光が明滅している。闇の司祭団が次なる儀式を決行しようとしていた。
アレン、ゼオ、ロエンは、森に身を潜めながらその様子を窺っていた。ロエンが奪い取った黒水晶の通信具から読み取った情報を頼りに駆けつけたのだ。彼らの背後には、辛くも生き延びた魔族の同志たち数名が緊張の面持ちで武器を構えている。人間一人、魔族数人という奇妙な混成部隊——だが、目的は一つ。司祭団の野望をここで食い止めること。
開けた神殿跡の広場には、松明と魔導光が点々と置かれ、十数人のローブ姿の司祭たちが円陣を組んでいた。その中心には石造りの祭壇があり、一人の高位司祭らしき男が両手を天に翳して呪文を唱えている。祭壇には何やら生贄と見られる小柄な影が横たわってもがいていた——まだ幼い魔族の子供だ。彼の口を布で塞ぎ、涙に濡れた目が光に反射している。
「ひどい……!」様子を確認した魔族の一人が息を呑んだ。仲間を制しつつ、ロエンが素早く囁く。「司祭団め、生贄をさらってきていたか……今すぐ動くぞ。あの子を救出し、儀式を止めるんだ」
アレンとゼオは頷いた。ゼオが低く号令を下す。「いいか、全員、俺たちに続け。闇に乗じて一気に距離を詰める。合図したら一斉に突撃だ」
緊張に喉を鳴らしつつ、一同は静かに間合いを詰めていく。アレンは剣を握る掌が汗ばんでいるのを感じた。敵は自分たちの数倍以上、しかも異様な術を操る狂信者たち。それでも、引くわけにはいかない。頭上では雲が月を覆い、森は闇に沈んでいた。今が好機——アレンはゼオと目配せを交わした。
「今だ、行け!」ゼオの一声とともに、一同は草陰から飛び出した。静寂を切り裂き、武器を振りかざしながら司祭団の陣へ突入する。
最初に気づいた司祭が悲鳴を上げるより早く、アレンの剣がその喉を断ち切った。ゼオも双剣で左右から二人の司祭を串刺しにし、一瞬で仕留める。奇襲は成功したかに見えた——だが高位司祭は冷静に杖を振り上げ、叫んだ。「侵入者だ! 儀式を中断し、皆殺しにせよ!」
瞬く間に闇の広場は戦場と化した。司祭たちは呪符を空中に放り投げ、次々と魔物を召喚し始めた。地の底から湧き出すように黒狼や巨大な蜥蜴の化け物が出現し、咆哮を上げる。アレンは仲間の魔族と背中合わせになり、迫り来る黒狼に剣を突き立てた。獣は怯むことなく猛然と牙を立ててくる。なんという執念——アレンは力任せに剣を捻じ込み、ようやく狼を地に伏せさせた。
周囲では魔族の戦士たちも必死に戦っていた。一本角を持つ悪鬼のような怪物に槍を突き立てる者、飛びかかる影法師のような魔物を魔法で焼き払う者。阿鼻叫喚の混戦の中、ゼオとロエンは祭壇めがけて一直線に駆けた。狙いは生贄の救出と、術を主導する高位司祭の撃破だ。
「僕も行く!」アレンは二人の後を追おうと駆け出した。しかし直後、巨大な魔物が行く手を阻んだ。黒い鱗に覆われた双頭の魔竜——司祭団が呼び出した魔獣だ。二つの頭が不気味に輝く瞳でアレンを捉え、業火のブレスを吐き出してきた。「くっ!」アレンは間一髪で横に飛び退き、盾で顔を庇った。灼熱の炎が脇を通り過ぎ、焼け焦げた草木の臭いが鼻をついた。
魔竜が猛然とこちらに迫る。アレンは冷汗を感じながら剣を構え直した。双頭が左右から牙を剥いて噛みついてくる。鋭い牙が鎧の肩当てに食い込み、金属が軋んだ。激痛が走るが、何とか剣を振り上げ片方の首に叩きつける。「ぐおおっ!」魔竜が咆哮し、アレンは振りほどかれて地面に転がった。
その時、焼け付くような閃光が辺りを満たした。「聖なる雷よ、邪悪を打て!」高らかな魔法詠唱が響き、空から一筋の雷撃が魔竜に直撃する。魔竜は痙攣してのけ反り、黒煙を上げながら怯んだ。「今だ、アレン!」声の主はロエンだった。どうやら途中で気づき、雷の魔法で援護してくれたのだ。
「助かった!」アレンは立ち上がり、渾身の力を込め剣を振り抜いた。一つの首が胴から切り離され、血飛沫を撒き散らす。魔竜は怒り狂い、もう一つの頭がもがき苦しみつつ炎をまき散らした。木々が燃え上がり、戦場を赤く染める。だがこの隙にロエンが素早く駆け寄り、氷の魔法を唱えた。「凍てつけ!」凍結の槍が空気を裂き、魔竜の残る頭に突き刺さる。魔竜は最後の咆哮を上げ、その巨体を地響きとともに崩れ落とした。
荒い息を吐きながらロエンが手を差し伸べ、アレンを引き起こす。「無事か、アレン!」
「ああ、ありがとう! おかげで助かった」アレンは感謝の笑みを返した。だが安堵も束の間、祭壇の方から高位司祭の怒声が響き渡った。「儀式を邪魔立てする愚か者どもめ……闇の眷属よ、我に力を!」見ると、高位司祭が手にした短剣で自らの掌を切り裂き、祭壇に血を滴らせている。黒い瘴気が渦巻き、彼の周囲に異形の影が集まり始めた。大地が低く唸り、空気が軋む。途方もない邪悪が形を成しかけたその瞬間、高位司祭は瘴気を鋭利な刃に変え、ゼオと少年めがけて解き放った。
「ゼオ、危ない!」アレンが叫ぶが、間に合わない。
刹那、ロエンが駆け出し、ゼオと少年の前に割り込んだ。瘴気の刃がロエンの胸を貫く。「——っ!」ロエンの口から血が噴き出した。「ロエン!!」ゼオが絶叫する。ロエンはその場に膝をつきながらも、気力を振り絞って手を翳した。「炎よ……!」彼は最後の力で高位司祭に向けて火球を放った。火球は命中し、司祭の身体を激しく燃やし始めた。司祭は狂ったような悲鳴を上げ、もがき苦しむ。
「この、愚か者どもが……貴様らも道連れだ……!」司祭は焦げる身体を引きずりながら、祭壇に伏していたもう一人の生贄へと手を伸ばした。そこにはいつの間にか怯える人間の少女も縛り付けられていた。司祭は邪悪な笑みを浮かべ、少女の喉元に短剣を突き立て——
「させるか!」アレンが疾風の如く駆け、渾身の突きを繰り出した。剣先が司祭の胸を貫き、その短剣は少女に届く寸前で止まった。「ぐはっ……」司祭の目から狂気の光が消え、呆けたようにアレンを見つめる。アレンは剣を引き抜くと、司祭は力なく崩れ落ちた。絶命した司祭の手から短剣が転がり落ち、辺りに重苦しい静寂が訪れた。
火の手が上がり、森の奥では逃げ残った司祭団の末端たちが悲鳴を上げながら潰走していく。魔族の戦士たちは皆、傷だらけになりながらも最後まで戦い抜いた。しかし数名の同志が二度と立ち上がることはなかった。辛くも戦闘は終息を迎えた。だがその勝利はあまりに苦く、重いものだった。
「ロエン!」ゼオは地面に膝を突き、ロエンの身体を抱きかかえた。ロエンの胸には大きな穿孔が空き、そこから血があふれている。ゼオの腕の中で、ロエンは薄れゆく意識を懸命に繋ぎ留めようとしていた。
「ゼオ……無事か……?」ロエンはか細い声で尋ねた。「ああ、俺は平気だ……喋るな、今治療を——」ゼオは狼狽し、周囲に助けを求める視線を投げた。他の魔族が駆け寄り応急処置を試みようとする。しかしロエンは首を横に振った。
「いいんだ……ゼオ……」ロエンは微笑もうとしたが、唇が血で赤く染まるだけだった。「俺は……ここまでのようだ……」
「何を言っている!」ゼオの声が震える。「しっかりしろ、ロエン! お前まで俺を置いて逝くつもりか……!」
ロエンは薄目を開け、ゼオの頬に手を伸ばした。「お前は……強く生きろ……ゼオ……。世界樹は……見ている……俺たちの戦いを……共に成し遂げたかったが……」咳に血が混じり、言葉が途切れがちになる。
ゼオの瞳から涙があふれ落ちた。「頼む、死ぬな……ロエン……!」
ゼオの脳裏に、幼き日にロエンと交わした約束が閃いた。いつか争いのない世界を二人で見よう——その誓いはまだ果たされていないのに。
アレンも傍らに跪き、ロエンの手を握った。「ロエンさん……!」言葉が喉に詰まり、それ以上何も言えない。
ロエンは僅かに笑みを浮かべた。「人間の……アレン……だったな……ありがとう……お前が……いてくれて……ゼオは……もう……一人じゃ……ない……」途切れ途切れの声。それでも、その目には安堵の色があった。
「当然です……俺たちは仲間ですから」アレンは涙をこらえながら答えた。
ロエンは満足そうに瞬きし、最期の力を振り絞るように言った。「ゼオ……頼む……世界樹を……この世界を……闇から……救ってくれ……」ゼオは声にならない嗚咽を漏らしながら、必死に頷いた。「ああ……約束する……必ず……!」
ロエンの手の力が徐々に抜けていく。「俺も……お前を……信じている……友よ……」それが彼の最期の言葉だった。ロエンの黄金の瞳から光が消え、手が地面へと落ちる。ゼオは「ロエン!」と泣き叫び、その身体を強く抱きしめた。
静かに森の燃えさしがはぜる音だけが響く。勝利の代償として、あまりに大きな犠牲が払われた。魔族の戦士たちも皆、頭を垂れてロエンの死を悼んだ。アレンは拳を握りしめ、込み上げる悲しみに歯を食いしばった。こんな悲劇を二度と繰り返してはならない——胸の内でその思いが炎のように燃え上がるのを感じる。
ゼオは長い間、ロエンの亡骸に額を擦り付け泣き続けていたが、やがて静かに顔を上げた。その瞳には決意の光が宿っている。アレンはゼオの肩に手を置き、静かに言った。「行こう、ゼオ。彼の願いを果たすために」
ゼオは涙を拭い、力強く頷いた。「……ああ。ロエンのためにも、俺は闇の司祭団を必ず討つ」声は悲しみに掠れていたが、その奥底に燃える闘志は誰の目にも明らかだった。
魔族の生存者たちが簡素な祈りを捧げ、ロエンの亡骸を丁重に横たえる。彼の顔には安らかな表情が浮かんでいた。ゼオはそっと自分の外套を外し、彼の体にかけてやる。「安らかに眠れ、友よ……」震える声でそう告げると、ゼオはゆっくりと立ち上がった。
アレンもまた心に誓いを新たにする。憎しみがさらなる犠牲を生まないよう、そしてロエンの犠牲が無駄にならないよう、この闇の脅威を食い止めなければならない、と。
ふと見ると、救い出された魔族の少年と人間の少女が、残った戦士たちに守られながら互いに寄り添っていた。二人とも震えてはいたが、確かに生きていた。同じ恐怖をくぐり抜けた幼い魂同士が、種族の壁を越えて手を取り合う姿に、アレンは暗闇に灯る小さな光を見た。それは未来への希望を示す灯火のように彼らには思われた。
闇夜の帳が次第に薄れ、東の空がわずかに白み始めていた。長い戦いの夜が明けようとしている。アレンは剣の柄を握りしめ、静かに息を吐いた。「俺たちは負けない……どんな闇にも、必ず光を取り戻してみせる」
ゼオが隣で小さく頷く。互いに傷つき、悲しみを抱えながらも、二人の心は一層強く結ばれていた。人間と魔族——異なる種族の戦士たちが肩を並べ、共通の敵に立ち向かう意思を固めたのだ。ロエンの魂もまた天上から見守ってくれているだろう。
燃え残る松明の火が風に揺らめき、夜明けの気配にかき消されていく。こうして司祭団との最初の大規模戦闘は終わりを告げた。アレンたちは深い悲しみを胸に抱えつつも、確かな勝利を手にしたのである。辺りには戦闘の爪痕が生々しく残り、焦土と化した大地から煙が立ち昇っていた。魔物たちの残骸は黒い塵と化し、空気にはなお瘴気と血の匂いが微かに漂っていた。しかし戦いは始まったばかりだ。ロエンの遺志を胸に刻み、無貌の世界樹が静かに遠くから見守る中、アレンとゼオは闇に立ち向かう光となることを心から誓い、夜明けの空を仰いだ。その光は、新たな希望の幕開けを静かに告げているように彼らには思われた。




