表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/33

第18話:魔族の孤独、絆の灯

夜明け前の空は紺碧から紫へと色を変え、静寂の中に微かな冷気が漂っていた。アレンとゼオは、魔族領の外れにある岩陰で身を寄せ合うように休んでいた。一睡もできぬまま迎えた夜明け——二人の瞳には深い疲労の影が浮かんでいる。だが心の内に去来する思いが昂ぶり、眠りに身を委ねることなど到底できなかったのだ。  


焚き火は敵に見つかる恐れがあるため、小さな魔導灯に布をかぶせた仄かな明かりだけが頼りだった。ゼオは無言で地面に膝を抱え、虚空を見つめている。アレンはそっと隣に腰を下ろし、同じように夜明けの空を見上げた。東の地平から薄明が差し込み、世界の輪郭がゆっくりと浮かび上がっていく。その美しさに心打たれながらも、胸の奥には消えない不安が巣食っていた。  


ロエンは無事だろうか——アレンもゼオも、頭から離れないその問いに苛まれていた。逃走の最中、魔族兵たちの怒号と剣戟の音が確かに背後で響いていた。ロエンが陽動のため戦っているのは明らかだった。ゼオは拳を握り締めたまま、悔しげに唇を噛んでいる。友を残して逃げざるを得なかった自分を責めているのだろう。


「ゼオ……」アレンはおもむろに口を開いた。しかし何を言えばいいのかわからず、その名を呼んだだけで言葉が途切れてしまう。慰めの言葉など空々しいだけだと分かっていたからだ。ただ、そばにいることで彼の心の重荷が幾分かでも軽くなればと願うばかりだった。  


ゼオはゆっくりと首を振った。「言うな。わかっている……ロエンは簡単にはやられないさ」自分に言い聞かせるような声音だった。「あいつとは昔から幾度も窮地をくぐり抜けてきた。今回だってきっと……無事でいてくれる」  


そうは言うものの、震える声の端々に不安が滲んでいる。アレンはその横顔を一瞥し、胸が締め付けられる思いだった。ゼオの金の瞳には微かな涙の光が浮かんでいるようにも見えた。  


アレンはそっと自身の外套を肩から外すと、ゼオの背に掛けた。「冷える。じっとしていると体温を奪われる」そう言って微笑んでみせる。ゼオはハッとしたように顔を上げ、アレンの外套に触れた。「……済まない」消え入りそうな声で呟く。


「礼はいらないさ。互いに助け合う仲間だろう?」アレンは静かに言った。その言葉にゼオは目を見開き、しばらくアレンの顔を見つめていた。やがて視線を落とし、かすかに笑みを漏らす。「……そうだな。仲間、か。俺にもそんな風に言ってくれる人間がいるとはな」  


アレンは首をかしげた。「おかしなことを言うんだな、ゼオ。君は俺たちにとって大切な仲間だよ」それは紛れもない本心だった。ゼオは魔族だが、共に旅をして幾度も危機を乗り越えてきた。彼の勇気と善意を、アレンも仲間たちも十分に知っている。だからこそ命がけでこの地に同行したのだ。  


ゼオはふっと瞳を伏せた。「……俺には理解できないんだ」ぽつりと呟く。「仲間、信頼、そういった感情が……本当に信じていいものなのかどうか」朝の冷気が肌を刺す静寂の中、その声はひどく孤独に響いた。  


アレンは黙って耳を傾けた。ゼオは視線を遠くに彷徨わせ、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。「俺は……魔族の中で異質な存在だった。幼い頃から、他の連中とは何かが違っていたんだ」  


微かな光が揺れる中、ゼオの横顔は遠い記憶を辿っているかのようだった。「物心ついた時から、俺は戦士になるよう仕込まれた。魔族に生まれた男なら誰もがそうだ。力こそ至上、弱さは罪……そう教え込まれる」ゼオの声は苦々しく歪んだ。「俺も最初は疑わなかったよ。与えられた刃を振るい、命令に従って敵を屠ることが誇りだと信じていた」


「……ゼオ」アレンはそっとゼオの名前を呼んだ。その背中に、かつてどれほどの重圧と孤独がのしかかっていたのか、想像するだけで胸が痛んだ。


「けど、ある時気付いてしまったんだ」ゼオはかすかに震える声で続けた。「血に染まった戦場で……自分が何をしているのか、本当は理解していなかったってことに。倒した相手にも仲間がいて、家族がいて、生きる理由があったはずなのに、俺はそれを考えもしなかった」


アレンは息を呑んだ。それは戦場に立つ者すべてが直面する問い——殺すことの意味。ゼオはその疑問を抱いてしまったのだ。他の魔族が疑問を持たないことに、一人で。


「戦いの最中、俺はある人間の兵士と相対した。若い兵士だった……俺と同じくらいの歳の。俺は勝負に勝ったが、とどめを刺す刹那、その兵士が……笑ったんだ」ゼオの眉が苦悶に歪む。「敵であるはずの俺に対してだぞ? 信じられるか……? その兵士は、自分はもうすぐ死ぬと悟っていた。それでも故郷にいる婚約者の幸せを祈ってくれと……震える声でそう懇願したんだ。俺に命乞いではなく、愛する者の幸せを祈ってくれと……」


 声が途切れ、ゼオは俯いた。拳が震えている。アレンはそっとその肩に手を置いた。「ゼオ……」


「わからなかった……理解できなかったんだ……」ゼオはかすれた声を絞り出した。「なぜ俺にそんなことを頼む? 俺はお前を殺そうとしているんだぞ? 憎悪も恐怖もない、ただ誰かの幸せを願う言葉……。その瞬間、剣を振り下ろせなくなった」


アレンの脳裏にも戦場の記憶が蘇る。自身もまた、憎しみと無関係に命を散らせていった多くの兵士たちを見てきた。ゼオの感じた衝撃に思いを馳せ、胸が締め付けられる。


「俺は震える手を抑えられず、その兵士を見逃した」ゼオは続ける。「仲間からは咎められ、上官には叱責された。臆病者だとな。だが俺は……初めて自分の心に従ったんだ。戦場を逃げ出し、森に身を隠して震えていた」ゼオの瞳に悔恨の色が浮かぶ。「そんな時だった——ロエンが俺を見つけたのは。ロエンだけは理解してくれた。俺も同じような疑問を抱えていた、と言ってな……」  


アレンはハッとした。「ロエンも……?」


「ああ。あいつもまた異端者だったんだ」ゼオは苦笑した。「ロエンの父親は長老派の高位だったが、思想の違いから粛清されてね……。あいつは家族を失ってから魔族の在り方に疑問を抱いていたらしい。俺たちは意気投合した。共に故郷を捨て、放浪する決心をしたんだ」  


ゼオの語る過去にアレンは心を揺さぶられた。敵国で生まれ育ちながら、自らの良心に従って戦いを捨てた二人の青年。祖国を離れる苦悩、そして待ち受ける孤独と危険。それを想像するだけで胸が痛んだ。


「だが放浪の途中、ロエンと俺は離ればなれになってしまった」ゼオは苦い表情を浮かべる。「人間領との境で起きた小競り合いで巻き込まれてな。あいつは身動き取れなくなった俺を逃がすため、敵を引き付けてくれた。俺は人間領側へ必死に逃げ延びたが……ロエンは捕まったか殺されたか、わからなかった。それからしばらく俺は人間領で潜伏し、どこへ向かうべきかもわからずにいた」


聞きながら、アレンは自分とゼオの最初の出会いを思い出していた。あれは確か、小さな村が魔物に襲われていた時だったか——アレン率いる義勇団が駆けつけ応戦している最中、ゼオが現れ、共に魔物を討ち倒したのだ。互いに身元も知らぬまま、ただ目の前の脅威に立ち向かった。それが奇妙な縁の始まりだった。


「その後のことは、アレン……お前も知っての通りだ」ゼオはぽつりと言った。「人間領で俺は忌み嫌われ、追われる身だった。どこへ行っても化け物扱いさ。そんな時、お前たちと再会した。魔物退治で力を貸した俺に、お前は剣を向けなかったな……」  


アレンは静かに頷いた。「ああ、覚えているよ。君が魔族だと知った時は驚いたが……俺の村を襲った魔物から子どもを守ってくれた恩人でもあった。敵意を向ける理由がなかったんだ」


「そればかりか、俺を仲間に誘った」ゼオは信じられないものを見るような顔でアレンを見た。「あれには心底仰天したよ。まさか人間が、魔族である俺に手を差し伸べるとは思ってもみなかった」  


アレンはゼオの目をまっすぐ見返した。「君は魔物を退け、人々を救った。それは種族に関係なく称賛されるべき行いだ。俺たちは君を必要としていた——いや、それ以上に、君と共に戦いたいと思ったんだ」  


ゼオの表情がわずかに崩れ、苦しげに眉を寄せた。「俺は……お前たちの信頼に値する存在なのか? 戦場から逃げ出した臆病者で、己の一族を裏切った裏切り者だぞ。それでも、お前は俺を信じろと言うのか……?」


「裏切り者なんかじゃない」アレンの声ははっきりと響いた。「自分の心に従っただけじゃないか。勇気がなければできないことだ」思わず熱がこもる。「誰もが当たり前だと思い込んでいる道を拒み、別の道を選ぶのは容易じゃない。君は勇敢だよ、ゼオ」  


ゼオは言葉を失ったようにアレンを見つめた。その瞳には迷いと戸惑い、そして微かな憧れの色が浮かんでいる。「勇敢……俺が……?」


「ああ」アレンは静かに微笑んだ。「君は自分の良心と向き合った。その勇気を俺は尊敬する。だからこそ、俺は君を仲間だと思ったんだ」  


ゼオは俯き、震える息を吐いた。固く閉ざされていた心の扉が軋むような沈黙が流れる。やがて彼は低く押し殺した声で尋ねた。「……俺には、お前が眩しすぎる。なぜそこまでまっすぐに他者を信じられる? 俺には理解できないんだ……」  


アレンは空を仰いだ。夜明けはとっくに訪れ、薄桃色の光が雲間から差し込み始めていた。「俺だって、最初からそうだったわけじゃない」苦い笑みを浮かべる。「君に話したことはなかったが……俺も昔、魔族に家族を殺されたことがある」  


ゼオは驚いて顔を上げた。アレンは静かに頷く。「子供の頃、村が襲われてね。両親を亡くしたんだ。だからずっと魔族を憎んでいた。おそらく君と出会わなければ、一生その憎しみに囚われていたかもしれない」  


ゼオは息を詰めたまま、アレンの次の言葉を待っていた。


「でも君と出会って、変わったんだ」アレンは優しく微笑んだ。「魔族だからといって皆が同じではない。君のような人間味のある——失礼、言い方が難しいが——心ある魔族もいると知った。俺の目の前で子供を助ける魔族なんて想像もしなかったからな。君は俺の中の固定観念を壊してくれたんだよ」


「アレン……」ゼオは目を潤ませ、感極まったように呻いた。


「だから、俺は信じる」アレンはそっとゼオの肩を掴んだ。「君を信じるし、君となら種族の垣根を越えて分かり合えると信じる。ロエンさんもきっとそう思っているはずだ。俺たちはもう一人じゃない。共に背負えば、どんな苦難だって耐えられる」  


ゼオの瞳からぽろりと涙が零れ落ちた。それに気づいたゼオ自身が一番驚いた顔をした。すぐに腕で顔を覆い隠すが、嗚咽混じりの声が漏れる。「……すまない……俺は……なんて情けない……」


「情けなくなんてないさ」アレンは穏やかに笑って、ゼオの腕をそっと引き下ろした。「泣きたい時は泣けばいい。俺たちは仲間だろう?」  


ゼオはその言葉に堪えきれなくなったように、アレンの胸に顔を埋めた。肩が小刻みに震え、長年押し殺してきた感情が溢れ出す。アレンは優しく彼の背を叩いてやった。「大丈夫だ、ゼオ。もうお前は一人じゃない」  


しばらくして、ゼオは震えを止め、ゆっくりと身を起こした。涙で濡れた瞳には、先ほどまでの孤独な影が幾分和らいでいる。「アレン……ありがとう」か細い声でそう呟く。  


アレンはにっこりと笑った。「礼はいらないと、さっき言ったばかりだろう?」  


二人はお互いの顔を見つめ、そして吹き出した。重苦しかった空気が嘘のように軽くなった気がした。陽光が地平から顔を覗かせ、凍てついた大地を金色に染めていく。  


ゼオは涙の跡を袖で拭い、真っ直ぐに前を見据えた。「……ありがとう、アレン。俺はお前を信じてみる。お前たちを——仲間を信じてみるよ」その声には決意が宿っていた。「そしてロエンとももう一度肩を並べたい。そのためにも、俺は負けない」


「ああ」アレンもうなずいた。「きっとまた会えるさ。ロエンさんは君と同じくらいしぶといんだろう?」


「もちろんだ」ゼオは口元に笑みを浮かべた。「俺の大切な友だからな」


互いに笑みを交わし、二人は朝焼けに染まる空を見上げた。新しい一日が始まろうとしている。過酷な状況に変わりはないが、二人の胸には小さな灯火がともっていた。孤独だった魔族の青年の心に、新たな絆の光が生まれたのだ。  


やがてアレンは立ち上がり、身支度を整え始めた。「さて、行こう。まずはロエンさんと再合流しなければ。あの集落に戻ってみよう」ゼオも立ち上がり、頷いた。「ああ、昨夜のうちに奴らも退いただろう。ロエンがうまく逃れていれば、また隠れ家に戻るかもしれない」  


二人は朝日に背中を押されるように歩み出した。空気は冷たいが、心に宿った絆の温もりがそれを和らげている。種族の壁を越えた信頼——それこそが、今の二人を支える何よりの力だった。  


アレンは密かに拳を握りしめた。ゼオを信じ、ロエンを信じ、そして必ず魔族と人間の無益な争いを終わらせてみせる、と。胸の内で静かな誓いを立てながら、アレンはしっかりと前を見据えた。その先にどのような試練が待ち受けていようとも、もう迷いはしない。夜明けの光に照らされ、二人の影が大地に長く伸びていった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ