第17話:魔族領潜入――暗闇に蠢く派閥争い
漆黒の闇が大地を覆う頃、アレンとゼオは息をひそめて魔族領の国境を越えた。夜露に濡れた荒野に月光は乏しく、まるで世界そのものが息を殺して二人の行く末を見守っているかのようだった。アレンの心臓は高鳴り、全身の感覚が研ぎ澄まされる。魔族領への潜入――それは危険と隣り合わせの使命であり、人間であるアレンにとって未知なる闇に足を踏み入れることを意味していた。
ゼオが先導する。月明かりに浮かぶ彼の背中は逞しく頼もしいが、その影はどこか孤独を帯びているようにも見えた。かつて敵対していた魔族の青年を仲間として信じ、ともに魔族領へ入る——その奇妙な巡り合わせに、アレンは胸中の複雑な思いをかみしめる。互いに背負った過去があり、いまだ完全に溶け合ったわけではない。それでも今は、ゼオの知識と意志に身を預けるほかない。二人は固い絆ではなく脆い糸で繋がっているに過ぎないかもしれない。それでも、暗闇の中で頼れるのは互いの存在だけだった。
砂礫が混じる冷たい土を踏みしめ、二人は岩陰から岩陰へと慎重に進んだ。遠くには魔族の尖塔がいくつも影を落とし、蒼白い燐光が所々で揺らめいている。魔族たちの集落や砦から漏れる不気味な光だ。アレンはごくりと唾を飲み込み、その光景に圧倒される自分を叱咤した。敵地に足を踏み入れた緊張と恐怖が、喉元に鋭い刃となって突きつけられているかのように感じられる。しかしゼオの導きによって、足取りは確かに前へと進んでいた。
ゼオは手を上げ、小さな茂みに身を潜めるようアレンに合図した。二人は身を伏せ、息を潜める。数秒後、甲冑に身を包んだ魔族の斥候が二人の前方を通り過ぎていった。漆黒の甲冑に赤い意匠を刻んだその姿は異様な威圧感を放っている。アレンは息を止め、ゼオもまた微動だにしない。斥候の足音が遠ざかると、ゼオはわずかに息を吐き出した。
「奴らも内心は怯えているさ」ゼオは低く囁いた。その横顔には緊張の中にも嘲るような冷笑が浮かんでいる。「この辺りは今、不穏な空気に包まれている。魔族ですら夜道を急ぐほどにな」
アレンは訝しげに眉をひそめた。「不穏な空気、か……」
ゼオは答えず、ただ「こっちだ」と促した。二人は再び暗闇に紛れ、魔族領の奥へと進んでいく。道すがら、アレンはゼオの言葉の意味を考えていた。魔族領の内部で何かが起きているというのか。内部に漂う不穏さ——ゼオはそれを感じ取っているらしい。かつて魔族として生きた彼だからこその直感なのだろうか。
やがて二人は小高い丘の上に辿り着いた。荒涼とした丘の斜面には枯れ木が立ち並び、月光に照らされて骸骨の腕のような影を落としている。ゼオは指をさし、丘の向こうを示した。「見ろ、あれが魔族の集落だ」
アレンは這うように身を乗り出し、指差す先を窺った。そこには闇に浮かぶ無数の灯りが点在していた。篝火の橙、妖しく揺れる蒼白い魔導の炎、所々に立つ黒い尖塔の窓明かり——様々な光が交錯し、まるで地上に広がる星空のようだ。その中心には一際大きな砦らしき建造物が聳えている。鋭角的で威圧的な城壁には黒々と旗が翻り、魔族の紋章が月明かりに浮かんでいるのが見えた。
「あそこが……魔族の拠点の一つなのか」アレンは息を呑んだ。
「いや、あれは辺境の集落に過ぎない」ゼオは冷静に答えた。「内部の派閥争いで居場所を追われた者たちが集まる場所の一つだ。俺の古馴染みも、今はあそこに潜んでいる」
それはゼオが信頼する魔族の協力者がいるという意味だった。アレンは内心安堵すると同時に、魔族社会の実態への興味が湧いた。派閥争いによって行き場を失った者たちがいる——敵対する魔族内部が一枚岩ではない証拠だ。彼らはなぜ争っているのか。ゼオの古馴染みとは何者なのか。
疑問を胸に抱きつつ、アレンはゼオの後に続いた。丘を下り、集落の縁へと慎重に近づく。集落の外れには粗末な木造の小屋がぽつりと一軒建っていた。周囲の様子を窺うゼオの緊張を、アレンも同じように感じ取る。やがてゼオは短く合図を送り、小屋の戸口へと音もなく歩み寄った。アレンも後を追う。
ゼオが扉をそっと叩くと、中から低い声が返ってきた。「……合言葉を」
「……”常闇に非ず”」ゼオが静かに答えると、一瞬の間の後に扉が軋みを立てて開いた。中から現れたのは長身の魔族の男だった。淡い魔導灯に照らされた顔には古い傷痕が走り、年齢はゼオと同じくらいだろうか。その鋭い黄金の瞳がゼオを捉えると、一瞬驚いたように見開かれ、すぐに安堵の色へと変わった。
「ゼオ……無事だったのか!」男は抑えた声で叫び、ゼオの肩を掴んだ。感情を押し殺してはいるものの、その震えから再会の喜びが伝わってくる。
「ロエン、お前こそ……」ゼオもまた相手の肩に手を置き、短く息をついた。「しばらく見ない間に傷が増えたな」
ロエンと呼ばれた男は苦笑した。「派閥争いのせいでね。まあ、生き延びてはいるさ」そう言ってから、彼はアレンに目を向けた。「そちらは?」
突然自分に向けられた敵意をはらむ視線に、アレンは一瞬身構えた。ロエンの瞳が探るように自分を見つめている。ゼオは静かに言った。「信頼できる人間だ。俺が選んだ仲間の一人、アレン」
「人間だと?」ロエンは目を細め、一歩こちらに踏み出してきた。その体躯からは魔族特有の威圧感がにじみ、アレンは喉元に刃を突きつけられたような息苦しさを感じた。しかし目を逸らさずに睨み返す。こんなところでひるむわけにはいかない。
「……人間がここに来るとはな」ロエンは低く唸ったが、やがてフッと小さく笑った。「ゼオ、お前が心を許すとは相当変わった男らしい」
ゼオは肩をすくめた。「あいにく、な」
ロエンは戸口から顔を引っ込め、手招きした。「中に入れ。他の連中に見られると厄介だ」
アレンとゼオが薄暗い小屋の中に足を踏み入れると、ロエンは急いで扉を閉め掛け金を下ろした。狭い室内には簡素な木製の机と椅子、そして地図や紙片が乱雑に散らばっている。壁には剣や槍が立てかけられ、いくつかの魔法具らしきものも見えた。逃亡者の隠れ家というより、さながら臨時の作戦司令室のようだとアレンは思った。
ロエンが椅子を勧めてくれたので、アレンは礼を言って腰掛けた。ゼオは机に広げられた地図に目を落とし、指で何か所かを確かめている。ロエンは部屋の隅から水筒を取り出し、三人分の木杯に水を注いだ。
「礼を言う、ロエン」ゼオが木杯を受け取り、水を一口飲んでから口を開く。「俺たちは状況を知りたい。魔族領の内部で何が起きている?」
ロエンは静かにうなずき、自分も水を飲んだ。「……案の定、お前は戻ってきたか。ゼオ、お前が離れている間に事態はさらに悪くなっている」
「派閥争いが激化しているというのか」ゼオの声には苦々しさが滲んだ。
「ああ。魔王派と長老派、そのどちらにも属さない者たちは狭間で踏み潰されている状態だ」ロエンは悔しそうに顔を顰めた。「魔王直属の将軍たちが権力争いを始めてな。特にあのガルザークとライメリアの二人が、魔王の座を巡って互いに爪を剥き出しにしている。ガルザークは力による人間殲滅を主張し、一方ライメリアは一時的な休戦と内政の立て直しを唱えているが……どちらも強硬だ。両派閥の衝突で被害を被るのは、我々一般の魔族さ」
アレンは初めて聞く魔族内部の事情に思わず息を呑んだ。魔族の中でも意見の違いがあり、それが争いに発展しているとは。ガルザークとライメリア——二人の将軍が次期魔王の座を巡って対立しているという。前魔王がどうなったのかはわからないが、その空白を埋めんとする野心家たちが覇権を競っているのだろう。派閥の争いは魔族社会全体を混乱に陥れているらしい。
「ライメリアは比較的穏健派だが、それでも人間を信用はしていない」ロエンが続ける。「彼女は魔族社会の立て直しを優先すると言っているが、本心は読めんよ。ガルザークに至っては狂犬だ。力こそ全て、弱者は蹂躙しろという考えだ。やつは配下を使って異端狩りすら始めている。ガルザークに与しない者はことごとく粛清か粛清まがいの迫害に遭う始末だ」
ゼオが拳を握り締めるのが見えた。アレンも言葉を失う。魔族内での粛清——それは内戦に等しいではないか。ロエンは悔しげに歯噛みし、机上の地図を指さした。「この辺境の集落も、本来はライメリア派に属していた小領主が治めていた。しかしガルザーク派が攻め込んできて蹂躙し、多くの者が殺された。辛うじて逃げ延びた者たちがこうして隠れ住んでいるというわけだ」
「そんなことが……」アレンは拳を震わせた。魔族が魔族を殺している——人間との戦争どころではない悲惨な内情だ。敵であるはずの魔族にも守るべき日常があり、理不尽に命を奪われている者たちがいる。その現実に直面し、心が軋む思いだった。
「そして厄介なことに、そんな混乱に乗じて奇妙な動きがある」ロエンが声を潜めた。「ガルザーク派の動きがどうも不可解なんだ。力押しで各地を制圧している影で、何かを探しているようにも見える。あるいは……何者かの入れ知恵があるのかもしれない。噂だが、影で糸を引いている存在がいるという話もあるんだ」
「影で糸を引く存在……?」アレンが聞き返す。彼の脳裏に、不気味な予感がよぎった。
「確証はない。だがガルザーク配下の一部の将兵が奇妙な祈祷のような儀式に加担しているとの目撃談がある」ロエンは言いにくそうに言葉を継いだ。「正直、信じがたい話だが……魔族の中に巫女や祈祷師以外でそんな儀式をする文化はない。何か異質なものが入り込んでいる可能性がある」
ゼオとアレンは目配せし、表情を引き締めた。異質な儀式、影の存在……ただの権力闘争以上の闇が潜んでいるのかもしれない。だが今はそれを確かめるすべもない。
「とにかく、我々はライメリア派にもガルザーク派にも与しない魔族をまとめ、犠牲者を減らそうとしている。だが数も力も足りない」ロエンは悔しそうに拳を握った。「ゼオ、お前が戻ってきてくれたのは心強い。できれば力を貸してほしい……お前ほどの戦士が必要だ」
ゼオは静かに頷いた。「ああ。そのために戻ったようなものだ。……それに、俺だけじゃない」彼はアレンに視線を向ける。「アレンも、俺と共に来てくれた」
ロエンは不思議そうに眉を上げた。「人間が……俺たちに加勢するというのか?」
アレンは静かに前に出て言った。「あなた方の内紛は人間にも関係ないことではありません。ガルザークのような者が力を握れば、いずれ人間社会にも攻め込んでくるでしょう。それに——」少し言い淀んでから、正直な気持ちを告げた。「あなたたちが同じ魔族に殺されるのを見過ごせない。敵味方である前に、命が理不尽に奪われるのは耐え難いことだ」
ロエンの目が驚きに見開かれる。やがて彼は噛み締めるように頷いた。「……奇特な人間もいたものだな。正直、信じられん気持ちだが……その正義感、本物と見た」
「アレンは本物だ」ゼオが静かに微笑んだ。「俺が保証する」
アレンは照れくささを覚えながらも、決意を新たにした。魔族であれ人間であれ、命の価値に違いはない。目の前にある悲劇を放ってはおけない——その思いがアレンの心を支配していた。
その時、不意に外から何かが崩れるような音がした。三人は一斉に緊張し、ゼオとロエンは瞬時に武器に手をかける。アレンも腰の剣に触れ、耳を澄ました。
「見つかったか……?」ロエンが低く呟く。窓の隙間から外を覗いた彼の表情が険しくなる。「……ガルザークの手先どもだ。巡回が来ている」
アレンの背筋に冷たい汗が流れた。どうやらこの隠れ家の所在が知られた可能性がある。ゼオが小声で促す。「アレン、裏口から逃げるぞ」
ロエンは頷き、急いで机の裏にある板張りの床を剥いだ。隠された小さな地下通路が姿を現す。「ここから外の茂みまで繋がっている。身を屈めて進めば見つからないはずだ」
外では複数の重い足音と怒声が近づいてきていた。どうやら数人の魔族兵が家々を捜索しているようだ。
「ロエン、お前も来い」ゼオが急かすと、ロエンは首を横に振った。「いや、俺はここに残って陽動する。お前たちは情報を持ち帰れ。……ゼオ、また後で落ち合おう」
「だが……!」
「俺なら大丈夫だ、心配するな。お前はお前の使命を果たせ」ロエンは一瞬だけ笑ってみせた。その瞳には覚悟の光が宿っている。
ゼオは苦悩の表情を浮かべたが、やがて力強く頷いた。「必ず戻る。死ぬな、ロエン」
「ああ、お前もな」ロエンがそう言ってウインクすると、ゼオとアレンは地下通路へ身を滑り込ませた。
暗い狭道を這うように進みながら、アレンの心臓は激しく鼓動していた。背後で聞こえる怒号と物音——ロエンが陽動を始めたのだろう。ゼオの友を置き去りにして逃げることへの忸怩たる思いが胸を刺したが、今は目的を果たすことが先決だと自分に言い聞かせる。
やがて通路の先に微かな月光が差し込み、外の茂みへと繋がっている出口が見えた。アレンとゼオがそこから抜け出すと、背後の方角で物々しい叫び声と武器のぶつかる音がかすかに聞こえた。ロエンが戦っている——そう思うと胸が締め付けられる。
「急ぐぞ」ゼオが静かに言い、アレンもうなずく。二人は低姿勢のまま茂みから離れ、再び闇の中へと溶け込んだ。隠れ家から遠ざかるにつれ、喧騒も次第に遠のいていく。無事に追っ手を振り切ったのだろうか? アレンは何度も後ろを振り返ったが、暗闇に動く影はなかった。
丘の陰に辿り着き、二人は一息ついた。荒い息を整えながら、アレンはゼオの横顔を盗み見た。ゼオは険しい表情のまま、じっと集落の方角を見つめている。友を残してきた悔しさと不安が、その瞳に揺れていた。
「ゼオ……」アレンが言葉を探していると、ゼオはかすかに首を振った。「今はいい。ロエンの無事を祈ろう。彼なら上手く切り抜けるさ」
そう言いながらも自分に言い聞かせているようなゼオの声に、アレンは痛みを覚えた。ゼオとロエンの再会は束の間だったが、その間に交わされた言葉から二人の絆が伝わってきた。ゼオにとって魔族領に残してきた大切な友……その友を再び危険に晒してしまったのだ。
アレンは静かに拳を握り、ゼオの横に並んだ。「ロエンさんはきっと無事ですよ。そして、必ずまた会えます」
ゼオは短く息を吐き、口元に微かな笑みを浮かべた。「ああ……そうだな。お前の言葉を信じるさ、アレン」
月明かりが雲間から漏れ、荒野に二人の影を落とした。夜の静寂が戻り、遠くで梟が低く鳴く声が響く。アレンは今宵目の当たりにした魔族社会の現実を反芻していた。内部の派閥争いの実態——それは想像以上に悲惨で根深いものだった。魔族であれ人間であれ、争いが生むのは悲しみと血だけだ。
そして、ロエンが言っていた「影で糸を引く存在」。それが何であるにせよ、魔族領に広がる不穏な闇の正体が気にかかる。アレンは空を見上げた。雲間から顔を覗かせた月は、静かに世界を照らしている。しかしその光は頼りなく、広大な闇の中でか細く揺らめくだけだった。
暗闇の奥で何が蠢いているのか——アレンは胸騒ぎを覚えながらも、ゼオと共に次の目的地へと歩み出した。二人の心に、小さな決意の灯火が燃え始めていた。魔族と人間の垣根を越えて手を取り合い、この闇に立ち向かう。その誓いが、暗い荒野を進む二人の足取りを少しだけ強くしていた。