第16話 暁の共闘
帝国の都は阿鼻叫喚の渦中にあった。巨大な魔物が皇城を背に立ちはだかり、無数の根のような腕を振り回して建物を薙ぎ倒している。顔のない巨人。その咆哮は空気を震わせ、月光の下で黒いシルエットが不気味に蠢いた。所々で火の手が上がり、夜空を赤黒く染めている。人々の悲鳴があちこちで上がり、逃げ惑う群衆が石畳の街路を埋め尽くしていた。
アレンとエリーナ、そしてゼオは帝都の城門近くまで辿り着いていた。凄まじい魔力の奔流が行く手に渦巻き、頬を刺す風圧となって吹きつけてくる。三人は一瞬立ち尽くした。
「なんて大きさ…」エリーナが蒼白な顔で呟いた。
「無貌の巨人、か」ゼオが忌々しげに睨みつける。「宰相風情が、本当にこんなものを…」
アレンは周囲を見渡した。崩れた建物の陰に、帝国兵や民衆が怯えうずくまっている。かつての敵も味方もなく、皆が恐怖に震えていた。宰相の姿は見当たらない。既に魔物に踏み潰されたのか、それとも…と考えかけ、アレンは歯噛みした。今は目の前の脅威を止めることが先決だ。 「リアナを探さないと…」アレンが叫びかけたその時、轟音と共に城門の一角が内側から爆ぜ飛んだ。吹き飛ぶ瓦礫と土埃。その中から飛び出してきた人影がある。
「リアナ!」アレンは目を見開いた。破れた軍服姿のリアナが剣を片手に現れたのだ。彼女の髪は乱れ、頬には血が滴っているが、その碧眼は強い光を宿している。
「こっちだ、早く!」リアナは後ろを振り返り、誰かに叫んだ。続いて数名の帝国兵たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ出してくる。恐怖に駆られた彼らは、リアナを置いて我先にと門から走り去った。
リアナは舌打ちして立ち止まった。するとすぐ背後に巨大な黒影が迫る。「危ない、リアナ!」エリーナが悲鳴を上げた。
魔物の根の腕が振り下ろされる寸前、リアナはとっさに地面を転がってかわした。しかし衝撃波で瓦礫が飛散し、リアナの体を直撃する。「きゃっ…!」彼女は短く悲鳴を上げて地面に倒れ込んだ。
「リアナ!」アレンは血相を変えて駆け出した。ゼオも後に続く。
リアナは朦朧としながらも起き上がろうともがいている。頭上では巨人の腕が再び振り上げられていた。
「間に合え…!」アレンは渾身の力で脚を蹴り出した。次の瞬間、リアナを抱えるようにして転がり、間一髪でその場から離脱する。大地が砕け、二人の背後に深い亀裂が走った。
「アレン…!」リアナが驚愕と歓喜が入り混じった声を上げる。アレンはリアナの体を支えつつ、必死に問いかけた。「怪我は? 大丈夫か?」
リアナは小さく呻きながらも頷いた。「ええ…平気。でも、どうしてゼオが…?」彼女の視線がすぐ横に立つ黒衣の魔族に吸い寄せられる。
ゼオは冷ややかに答えた。「勘違いするな。貴様らの仲間を助けに来たわけではない」
リアナは反射的に剣を構えかけたが、アレンが肩に手を置いた。「リアナ、今は帝国も魔族もない。あれを倒すために共闘しているんだ」
「共闘…?」リアナは戸惑いながらも、すぐに奥歯を噛み締めてうなずいた。「…わかったわ」
四人がようやく顔を揃えたその時、巨人がこちらに向き直った。巨大な腕が唸りを上げて迫る。「来るぞ!」ゼオが叫び、四人は散開した。 天を衝くほどの巨体に挑むべく、アレンたちは四方から同時に攻撃を仕掛けた。
「はああっ!」リアナが先陣を切り、素早い斬撃を巨人の足元に浴びせる。刃は幹のような脚に深々と食い込んだ。
「エリーナ、援護を!」アレンが声を飛ばす。
「ええ!」エリーナは杖を掲げ、清冽な氷の槍を無数に生み出した。「いっけぇぇ!」彼女の導きに応じ、氷槍は雨のごとく巨人の上半身に降り注ぐ。
巨人は顔こそないものの、苦悶するようにのけぞり、嘶いた。その体からどす黒い蒸気が立ち昇り、傷口からは粘つく闇の液体が滴り落ちる。
「怯んだ今だ!」アレンが跳躍し、巨人の腕へと斬りかかった。一条の閃光が闇を裂き、巨人の一本の腕が地面に崩れ落ちる。
しかし巨人は揺らぐことなく、残る無数の腕を四方に叩きつけてきた。地面が砕け、轟音とともに破片が飛び散る。アレンは衝撃に吹き飛ばされて瓦礫の山に叩きつけられた。
「ぐあっ…!」視界が乱れ、肺から一気に空気が押し出される。
「アレン!」リアナが駆け寄ろうとする。だが巨人は彼女を逃がすまいと、触手じみた根の先を何本も地面から突き出させた。リアナは咄嗟に飛び退くが、足に蔦のような根が絡みついて転倒してしまう。
「くっ…放せ、この!」彼女は必死に足をばたつかせる。根はどんどん絡みつき、締め上げていく。
「雷よ!」エリーナが詠唱を完成させた。次の瞬間、稲妻がリアナに巻き付く根を直撃する。焦げた異臭とともに根は離れ、リアナは解放された。
「助かったわ…!」リアナが礼を言う暇もなく、新たな腕が彼女に迫る。リアナは剣を構えて迎え撃とうとする。しかし突然、漆黒の影が彼女の前に割って入った。
「何を呆けている」ゼオが冷たく言い捨て、振り下ろされた巨腕をその剣で受け止めていた。凄まじい衝撃が大地に亀裂を走らせる。ゼオは歯を食いしばり、一歩も退かない。「切り裂け…闇よ!」彼が剣に闇の力を込めて振り払うと、巨人の腕は付け根から裂断され、黒い躯体からずるりと崩れ落ちた。
リアナは驚愕の面持ちでゼオを見つめた。ゼオはちらりと振り返り、「礼なら無用だ」と吐き捨てた。
「みんな伏せて!」エリーナが声を張り上げた。見ると、巨人の胸部に赤黒い光が集束しつつある。次の瞬間、灼熱の光線が口のない顔の中心から放たれた。
四人は各々地面に身を投げ、その熱線を避ける。背後で爆発音が轟き、地面に巨大な焦げ跡が残った。
「こんな化け物、どうすれば…」リアナが唇を噛む。苛烈な攻撃にも関わらず、巨人はなお健在で蠢いている。
ゼオが低く唸った。「弱点を狙うしかあるまい…あの胸だ」
「確かに、エリーナの攻撃に反応した…」アレンがうめきながら立ち上がった。「胸の中枢に魔力が集まってるのかもしれない」
「ならば総攻撃をかけるまでだ」ゼオが長剣を握り直した。「魔族の誇りにかけ、必ず仕留める」
アレンは頷き、リアナと視線を交わした。「やるしかないな」リアナも顔を上げる。「ええ、全部叩き込んで終わらせましょう」
四人は再び陣を整え、巨人の正面へと歩み出た。今この瞬間、人間と魔族の垣根は消え、四人の心は一つになっていた。怪物の胸には不気味な光を帯びた紋様が浮かび上がり、鼓動するかのように明滅している。
「せーのでいくよ!」エリーナが叫ぶ。
「一…二…」リアナがカウントを取り、剣を構える。
「三!」
刹那、四人の全力の攻撃が奔流となって巨人に叩き込まれた。
リアナとアレンの双剣が風を裂き、渾身の斬撃で胸の紋様を十字に断つ。ゼオの闇の刃がそれに続き、裂け目を深く抉った。
「でやぁぁぁっ!」エリーナが天高く杖を掲げ、迸る稲妻をその裂け目めがけて叩き込んだ。
怒涛の閃光が闇を貫き、巨人の体内で炸裂する。次の瞬間、巨人は断末魔のような轟きを上げ、全身から黒い光を噴き出した。
「やったか…?」アレンが息を切らしながら巨体を見上げた。巨人の紋様は砕け散り、内部から眩しい光が漏れている。
その光は次第に強まり、巨人の輪郭が膨れ上がった。「来るぞ!」ゼオが翼のようにマントを広げ、闇の障壁を展開する。アレンも急いでリアナとエリーナの前に立ちはだかった。
閃光と轟音。巨人の体は内側から崩壊し、凄まじい衝撃波が辺りを薙ぎ払った。
砂煙が収まった時、巨人の姿はそこになかった。無数の黒い粒子が宙に舞い上がり、夜風に溶けてゆく。あの怪物は完全に消滅したのだ。
「勝った…の?」エリーナが信じられないというように呟いた。
「勝ったんだ…!」リアナががくりと膝をつきながらも笑みを浮かべる。アレンも全身の力が抜け、その場にへたり込んだ。「終わった…のか…」
やがて、重たい静寂を破って歓声が上がり始めた。遠巻きに様子を窺っていた帝国兵や市民たちが、口々に歓喜と安堵の声をあげる。「魔物が消えたぞ!」「勇者が倒したんだ!」
アレンは息を整えながら仲間たちの方を振り返った。リアナとエリーナも傷だらけになりながら互いに笑みを交わしている。
「良かった…本当に無事で…」エリーナが涙声でリアナに言った。リアナは静かに首を振り、「ごめん、心配かけたわ」と囁いた。その瞳にも涙が滲んでいる。
アレンは二人に歩み寄り、その肩にそっと手を置いた。「リアナ…もう大丈夫だ」
リアナはアレンの顔を見上げた。「来てくれたのね。信じてた…絶対来てくれるって」
「ああ、約束したからな」アレンは微笑んだ。「無事で本当に良かった」
三人は短い抱擁を交わした。戦火の中で引き裂かれた絆は、こうして再び固く結ばれたのだった。
「茶番は終わりか?」不意に冷たい声が響いた。ゼオである。彼は少し離れた場所に立ち、薄い笑みを浮かべていた。「人間ども…なかなかやるではないか」
アレンたちは顔を見合わせ、そしてゼオに向き直った。アレンが静かに口を開く。「ゼオ、助けてくれて感謝する」
リアナは訝しげにゼオを睨んだままだが、エリーナは「ありがとう…」と小さく頭を下げた。
ゼオはつまらなそうに視線をそらせた。「勘違いするな。自分のためにやったまでだ」
「それでも、共に戦えたことは事実よ」リアナが険を含みつつも口を開いた。「あなたとは殺し合う宿命かと思っていたけれど…不思議なものね」
ゼオはふっと笑った。「…次に会う時はどうかな」
アレンは一歩前に出てゼオを見据えた。「次に会う時までに、お互い道を選べるさ」
ゼオはその瞳をじっと覗き込んだが、やがて踵を返した。「戯言を…貴様は甘いな、勇者」
そう言い残し、ゼオの姿は闇の中へと消えていった。
冷たい夜風が吹き抜ける。遠くで炎上する建物の赤い輝きが夜空を染めていた。
「…行ってしまったわね」エリーナが静かに呟いた。
「ええ。でも、今は…」リアナが夜空を見上げる。「今はただ、生き延びたことに感謝しましょう」
アレンも星々が瞬く空に目をやった。「ああ…そうだな」
三人は寄り添い、折れた城壁にもたれかかった。疲労しきった体を休めながら、帝都の夜に訪れた静寂を噛み締める。
だがアレンの心には、一抹の不安が残っていた。宰相の企みは潰え、魔物も消え去った。それでも胸騒ぎが完全には消えていないのだ。
「どうしたの?」エリーナが顔を覗き込む。
「いや…」アレンは微笑んで首を振った。「大したことじゃない」
仲間たちには笑顔で答えたものの、彼はぼんやりと己の右手を見つめた。知らぬ間に、あの巨人の黒い血がこびりついて乾いている。どことなく嫌な予感がした。
(あれは終わりではなく、始まりに過ぎないのではないか…?)
心の片隅で囁く声があった。アレンはそっと拳を握りしめる。今はまだ誰にも言わないでおこう。ただ、自分の中に芽生えた警戒の種を忘れずに胸に留めて。
東の空には微かに暁の光が射し始めていた。それはまるで、新たな戦いの幕開けを告げる狼煙のようにも見えた。