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第15話 闇に響く咆哮

暗い森の中、アレンとエリーナは音のした方角を警戒しながら身構えていた。木々の間に漂う瘴気に似た気配。嫌な予感が肌を刺す。

 

「出てこい!」アレンが剣を抜き放ち、闇に向かって怒鳴った。

 

しばしの静寂の後、不意に冷ややかな笑い声が響いた。「ふん…傷だらけの犬がよく吠える」

 

低く嘲るような声。その瞬間、漆黒のマントをまとった人影がするりと木陰から姿を現した。整った人間の青年のようにも見えるが、異様に蒼白な肌と煌めく赤い瞳が人ならざる存在であることを物語っている。その額には闇に紛れるように小さな黒い角が二本突き出ていた。

 

「ゼオ…!」アレンは忌々しげにその名を呼んだ。こんな時に宿敵まで現れるとは…喉元に怒りと緊張がせり上がる。魔族の将、宿敵とも言える存在が目の前に立っている。

 

ゼオの唇が嗜虐的な笑みに歪んだ。「久しいな、勇者アレン。そして…」彼の赤い瞳がエリーナに向けられる。「震える女魔導士も一緒か」

 

エリーナはゼオの放つ威圧感に息を呑みつつも、杖を握る手に力を込めた。「あなた…どうしてここに…」

 

「決まっているだろう」ゼオは静かに歩を進めた。ゼオが一歩踏み出すたび、森の闇が一層濃くなるように感じられた。「逃げ出した獲物の臭いを嗅ぎつけてな」

 

「俺たちを追ってきたのか」アレンは剣先を僅かに下げ、相手の出方を探る。「帝国と手を組んでいたのか?」

 

「愚かな」ゼオが嘲笑う。「我が覇道に人間の手など不要。…もっとも、帝国の愚行は遠くからでも感じ取れたがな。貴様らの匂いも混じっていた」

 

アレンは歯噛みした。「感じ取れた…ということは、あの禍々しい存在が現れたのを知って…」

 

「そうさ。貴様ら人間め、禁忌に踏み込みおって」ゼオの声には怒気が含まれていた。「貴様ら自身の世界を滅ぼすつもりか?」

 

エリーナが叫んだ。「私たちのせいじゃない! 帝国の宰相が…」

 

「言い訳か?」ゼオの目に怒りの炎が宿る。「笑わせるな。お前たち人間は常にそうやって災いを招く。我ら魔族の大地を荒らし、欲望のままに」

 

アレンの胸にかっと熱いものが込み上げた。「魔族が何を言う! お前たちが俺たちの故郷を襲い、多くの命を奪ってきたんだ!」

 

ゼオの顔に怒りが走る。「奪っただと? 貴様に何が分かる! 人間に狩られ、弄ばれ、蹂躙された同胞の無念が…!」ゼオの声音には激しい怒りと悲しみが混じっていた。地獄の記憶を喚び起こすかのように声が震えている。

 

「それは…」アレンの言葉が詰まる。ゼオの赤い瞳に宿る激情と痛みに、一瞬気圧された。

 

だがゼオは間を与えず鋭く手を振った。「黙れ、所詮相容れぬのだ。我らの悲しみを貴様らが理解することは決してない!」

 

ゼオの周囲に闇の気が渦巻き、次の瞬間、彼は凄まじい速度でアレンに斬りかかった。その手にはいつの間にか漆黒の長剣が握られている。

 

「くっ…!」アレンは間一髪で受け止めた。火花が散り、鋼の衝撃が腕に痺れをもたらす。ゼオの剣圧に押され、アレンは足元の落ち葉を巻き上げながら後退した。続けざまに放たれる重い一撃一撃が、疲労したアレンの身体に食い込んでゆく。

 

「アレン!」エリーナが援護の魔法を放つ。閃光がゼオの足元で炸裂した。しかしゼオは苦もなく跳躍し、闇の中に姿を溶かす。

 

「無駄だ!」ゼオの声が木立に反響する。「隠れても無駄だ、お前の気配は丸見えだ!」エリーナは周囲を見回し、恐怖に息を荒くする。

 

ゼオの狙いは瞬時に定まっていた。音もなく背後に降り立ち、エリーナへと刃を振り下ろす。「やめろぉっ!」アレンが絶叫した。

 

刹那、エリーナの前に飛び出したアレンの剣が辛うじてゼオの一撃を受け止めた。衝撃で二人の剣がぶつかり合い、夜闇に金属音が高く響き渡る。

 

「ほう…まだ動けるか」ゼオが獰猛に笑い、距離を取った。アレンの肩は大きく上下し、息が上がっている。既に満身創痍のはずの彼が、気力だけで踏みとどまっていた。エリーナは呪文の詠唱に入ろうとしたが、アレンが振り向きざま叫んだ。「エリーナ、下がって! これは俺にやらせてくれ!」

 

「で、でも…」

 

「頼む!」アレンの声は鋭かった。エリーナははっとして足を止め、悔しげに唇を噛んだ。  


森の闇に、二人の男の激しい息遣いだけが響く。一瞬の静寂。次の瞬間、アレンとゼオはほとんど同時に地を蹴った。

 

剣が閃き、互いの身をかすめる。ゼオの剣線がアレンの腰を裂き、鮮血が夜気に散った。同時にアレンの刃もゼオの左腕に傷を刻んでいた。

 

「はあっ…はあっ…」アレンは深い傷に膝をつきかけた。傷口からは熱い血が溢れ出す。焼け付く痛みが全身を貫き、視界が滲む。それでもアレンは歯を食いしばり、気力で立ち上がった。(ここで倒れるわけには…リアナを救うまでは!)

 

ゼオもまた肩で息をしながらアレンを睨み据えている。その左腕からは血が滴り落ちていたが、意にも介していない様子だった。

 

「何故そこまでして戦う…?」ゼオが苦々しく吐き捨てた。「守りたいものなど、この世界に残っていないだろうに」

 

アレンの脳裏に、リアナが囚われた光景が蘇る。「守りたいものは…まだある! 仲間が…リアナが残っている限り、俺は諦めない!」

 

ゼオの眉がわずかに動いた。「拘束されたあの女戦士か。愚かな、所詮お前には救えまい。無駄に命を散らすだけだ」

 

「黙れ!」アレンは傷ついた体に鞭打って剣を構え直した。「お前に何が分かる! 大切な仲間を見殺しにできるものか!」

 

「仲間、か…」ゼオの表情に一瞬揺らぎが生じた。「笑わせる…そんな絆に何の意味がある…!」

 

「俺にはある!」アレンは即座に叫んだ。「たとえお前に笑われようと、俺は仲間を信じる!」

 

ゼオが瞳を細める。「信じる…? 信じてどうなる。裏切られるのがオチだ」

 

「お前だって、かつては誰かを――」アレンが言いかけたその時、ゼオの剣が怒涛の勢いで襲いかかった。

 

「黙れと言った!」ゼオの声が怒りに掠れている。アレンは防戦一方になりながらも気づいた。ゼオの目尻に僅かに光るもの…それが涙に似ていることに。

 

(まさか、ゼオも俺たちと同じ苦しみを抱えて…?)アレンは息を呑んだ。その一瞬の隙をゼオは見逃さない。漆黒の刃が容赦なく振り下ろされ、アレンの剣が弾き飛ばされた。

 

「終わりだ、アレン!」ゼオが刃を振り上げる。

 

「やめて!」エリーナが絶叫した。アレンを庇うように駆け寄った彼女が、両手を広げゼオの前に立ちはだかる。「お願い、これ以上戦わないで…!」

 

ゼオの剣先がぴたりと止まった。彼の赤い瞳がエリーナを射抜く。

 

「どけ、人間」ゼオが低く言い放つ。

 

「嫌よ!」エリーナの声は震えていた。「アレンを殺すなら、まず私を斬って。それでも構わないわ!」

 

「エリーナ、だめだ…!」アレンが苦痛にうめきながら叫ぶ。


ゼオは動かない。鋭い殺気を漂わせたまま、女の細い首筋に刃を突きつけている。しかしエリーナは必死に腕を広げたまま退こうとしなかった。アレンは歯を食いしばり立ち上がろうとするが、膝が崩れ落ちる。

 

「どうしてそこまでして、この男を庇う?」ゼオが絞り出すような声で問うた。

 

エリーナの頬を涙が伝う。「彼は…私の大切な仲間だから。命に代えても守りたい人だからよ…!」

 

その言葉を聞いた瞬間、ゼオの瞳が見開かれた。彼の脳裏に、遠い記憶が閃く。血煙の中で自分を庇って斬られた、かつての友の姿。断末魔に凍りついたその瞳が、自分に向かって何かを言おうとしていた――。ゼオは耳鳴りのように亡霊の声が木霊するのを感じ、忌々しげに頭を振った。

 

「くだらん…」ゼオは自嘲するように呟いたが、その声音には先ほどまでの殺気が幾分影を潜めていた。

 

ゆっくりとゼオは剣を下ろし、一歩後退った。目の前の人間たちを睨みつけるが、その表情には複雑な色が浮かんでいる。「これ以上貴様らに構っている暇はない」

 

「ゼオ…?」アレンが痛みに耐えながら顔を上げた。ゼオの態度の変化に戸惑う。

 

ゼオは忌々しげに舌打ちした。「勘違いするな、人間ども。貴様らを殺すのはいつでもできる」そう言って斜めに視線を空へ投げた。「だが今は、他に始末すべき厄介なものがあるようだ」

 

その瞬間、遥か帝都の方角から地鳴りのようなどよめきが伝わってきた。空に赤黒い光が不気味に立ち昇り、低い轟音が森の静寂を破る。木々がざわめき、群れになっていた鳥たちが一斉に夜空へ飛び立った。まるで世界全体が悲鳴を上げているかのような、不吉な響きだった。

 

「……あれが完全に顕現してしまえば、手が付けられなくなる」ゼオが静かに言った。闇の中で、その横顔には忌々しさと焦燥が入り混じっている。「馬鹿な人間どもめ、貴様らが呼び出した怪物の尻拭いは自分たちでしてもらうぞ」

 

アレンは朦朧としながらもゼオに問いかけた。「……放っておけば、魔族だってただでは済まないんじゃないのか…?」

 

ゼオは表情を歪めてアレンを見下ろした。「哀れだな、人間。自分たちの過ちを魔族に縋って正そうというのか?」

 

「そうじゃない…だが、俺たちには時間がない。リアナも、帝国も…このままじゃ滅茶苦茶になる」アレンは苦しげに続けた。「頼む、協力してくれとは言わない…せめて、今だけ敵対しないでいてくれないか」

 

エリーナもゼオに縋るような目を向けた。「お願い…!」

 

ゼオは短く嘲笑を漏らした。「滑稽だな。だが…悪い気はしない」

 

彼は再び夜空を仰いだ。空の彼方、帝都の方向に不気味な赤光が脈動している。「放っておけばあれは魔族の領域にも影響を及ぼすやもしれん。……好きにはさせんさ」

 

アレンはゼオの横顔を見据えた。「…ということは…?」

 

ゼオは一瞬目を閉じ、それから忌々しげに吐き捨てるように言った。「せいぜい足を引っ張るなよ、人間」

 

ゼオは身を翻し、帝都の方角へ歩み出した。その背で黒いマントが翻る。アレンは浅く息を吐き、落ちていた剣を拾い上げる。ふらつく身体をエリーナがすぐに支えた。彼女の瞳には安堵と心配が入り混じっている。

 

アレンの胸にかすかな安堵が灯った。隣でエリーナもほっと息を漏らす。

 

遠く轟く異形の雄叫びに、夜空の星々が震えていた。今まさに、かつてない脅威との戦いが幕を開けようとしていた。

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