第14話 裂かれた信頼
朝焼けが帝国の街を赤く染める中、アレンたちは薄暗い客間で緊張の朝を迎えた。遠く宮廷のほうから祝典の準備を告げる喇叭の音が響き、否応なく鼓動が早まる。
「行くしかないわね……」リアナが腰の剣にそっと手を触れながら低く言った。彼女の声には覚悟とわずかな苛立ちが入り混じっている。
「うん。逃げ出せば余計に怪しまれるだろう」アレンは頷いた。既に正装の上に簡易な革鎧を身に着け、万一に備えている。エリーナも長衣の下に護符を隠し持ち、魔法の準備を整えていた。
「私たちだけで大丈夫かしら……」エリーナが不安げに呟く。「もし何かあったら…」
「大丈夫」アレンは優しく微笑んでみせた。「君の魔法と俺たちの剣がある。何が起きても乗り切ろう」
リアナもエリーナの肩に手を置く。「そうよ。私たちは負けない」
三人は互いに短く頷き、部屋を後にした。胸の内の不安を振り払うように、アレンは剣帯を握りしめる。
陽光煌めく中庭には、既に多くの人々が集まっていた。帝国兵の整列する道を進み、アレンたちは儀式の舞台となる壇上へと案内される。皇帝セドリック二世は玉座に座し、左右に重臣や将軍たちが居並んでいる。その隣には黒衣の宰相の姿もあった。
帝国軍楽隊が勇壮な調べを奏で、観衆が歓声を上げる。色とりどりの旗が翻り、華麗な衣装をまとった貴婦人たちが拍手を送っていた。だがアレンの額には一筋の汗が滲んでいた。刺すような視線を感じて宰相を見ると、彼は無表情のままじっとこちらを見つめている。嫌な胸騒ぎがさらに募った。
「勇者アレン、そして仲間たちよ」壇上に立ち上がった皇帝の声が、朗々と中庭に響き渡った。「その勇敢なる行いにより我が帝国と世界にもたらした平和に、今一度感謝を表したい」
皇帝は高らかに宣言し、側近から黄金の冠を受け取った。「ゆえにアレン殿に名誉勲章を授与する。前へ」
促され、アレンは慎重に歩み出た。祝福の歓声が沸き起こる。リアナとエリーナも一歩下がってそれを見守った。
皇帝が冠を掲げる。その瞬間――アレンは空気の変化を感じた。胸が軋むような不穏な気配。エリーナが叫んだ。「罠よ、下がって!」
次の瞬間、眩い光が炸裂し、壇上に刻まれていた魔法陣が青白い炎を噴き上げた。
「くっ…!」アレンはとっさに飛び退いた。直後に自分が立っていた場所を巨大な透明な壁が囲う。結界だ。もし警戒を怠っていれば閉じ込められていたに違いない。
悲鳴が群衆からあがり、中庭は瞬く間に大混乱となった。帝国兵たちが剣を抜き放ち、一斉にアレンたちに襲いかかってくる。
「裏切りね…!」リアナが怒りに声を震わせ、迫り来る兵士の剣を受け止めた。火花が散り、金属音が響く。エリーナは素早く魔術を唱え、紫電の矢を放つ。雷撃が兵士たちを薙ぎ払い、何人かが呻き声をあげて倒れた。
アレンも剣を抜き放ち、防御の構えを取る。「みんな、囲まれるな! 守りを固めて中央に!」
三人は背中合わせになり、次々と襲い来る兵士たちと刃を交えた。かつて共に笑顔で杯を交わしたはずの将軍までもが剣を振りかざして襲ってくる。その目は何かに支配されたように虚ろだった。
「なぜ…どうしてこんなことを!」アレンは叫んだ。しかし答えはない。ただ無数の刃が三人を狙ってきらめくだけだ。
壇上では宰相が冷酷に笑みを浮かべ、杖を天に掲げて何事か呪文を唱えていた。すると魔法陣がさらに強く光を放ち、暗紫色の靄が噴き出して周囲に渦巻き始めた。
「まずい…!」エリーナが蒼白になって叫ぶ。「あれは瘴気…門が開かれようとしている…!」
「門ですって?」リアナが歯噛みした。「何を呼び出す気なの…!」
誰も答える間もなく、宰相の足元から無数の異形の影が這い出してきた。醜悪な鬼のような魔物たちが這い出し、甲高い叫び声を上げてアレンたちに襲いかかってくる。帝国兵と魔物、それぞれが狂ったように三人を取り囲んだ。
「リアナ、エリーナ! ここを突破するぞ!」アレンが叫び、仲間たちも必死に応戦する。
剣と魔法の閃光が入り乱れ、中庭は戦場と化した。歓喜に沸いていた観衆は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、悲鳴が空を満たす。
宰相は高笑いを響かせながら、なおも呪文を続ける。「さあ、来るのです…我らが主よ! 血と魂を捧げます!」
アレンは魔物の群れを斬り伏せつつ、壇上の宰相に目を向けた。このままでは何か取り返しのつかない存在が召喚されてしまう。焦燥に駆られ、彼は声を張り上げた。「止めるんだ!」
しかしその前に一際大きな魔物がアレンに躍りかかった。獣のような咆哮。アレンは衝撃で地面に転げ、剣が手から滑り落ちる。
「アレン!」エリーナが悲鳴を上げた。その瞬間、小柄な影が魔物の背後から飛び掛かり、渾身の一撃を叩き込む。リアナだ。彼女の剣が魔物の頸に深く食い込み、巨体が地響きを立てて倒れる。
「大丈夫!?」リアナが喘ぎながらアレンに手を差し伸べる。アレンは頷き、その手を掴んで立ち上がった。「助かった…!」
束の間、二人の目が合う。その隙に――
「アレン、後ろ!」エリーナの叫び。しかし一瞬遅かった。無数の光の鎖が宰相の杖から放たれ、アレンとリアナめがけて奔る。
アレンはとっさにリアナを突き飛ばした。鎖はアレンの腕に絡みつき、その身を縛り上げる。「ぐっ…」彼は歯を食いしばり耐えた。
「アレン!」リアナが叫び、鎖を断ち切ろうと剣を振る。しかし魔法の鎖は霧のように形を変え、再びアレンを拘束する。
宰相が狂気に満ちた瞳を光らせて叫んだ。「大人しく我が主への生け贄となるのです、勇者よ!」
リアナは憤怒に駆られて宰相へ駆け出した。「誰がお前たちの好きにはさせない!」
「リアナ、待て!」アレンは叫ぶが、間に合わない。彼女は単身、壇上の宰相に斬りかかった。
眩い閃光。宰相の周囲に結界が張られ、リアナの剣は弾かれた。瞬間、結界は砕け散るも、リアナの体もまた衝撃に吹き飛ばされる。地面に叩きつけられた彼女のもとへ帝国兵たちが殺到した。
「くっ…離せ!」リアナは必死にもがくが、数人がかりで四肢を押さえつけられてしまう。
「リアナ!」エリーナが救おうと駆け出す。しかしすかさず魔物たちが行く手を阻んだ。
エリーナは震える手で魔法を紡ぎ、氷の槍を放つ。魔物を貫くも、次々に沸き立つ敵に追いつかない。
アレンも鎖に縛られ動けない。焦りと怒りが胸を焼いた。「やめろ! リアナに手を出すな!」もがけばもがくほど鎖は食い込み、身体から力を奪っていく。
「見苦しいですね、勇者殿」宰相が嘲弄するように吐き捨てた。「あなた方は最初から我々の計画の駒だったのですよ」
「計画…?」アレンは苦痛に喘ぎながら問い返した。
宰相は答える代わりに手を打ち鳴らした。すると皇帝セドリック二世が立ち上がり、ゆっくりとこちらに歩み出る。奇妙なほど無表情だ。その隣にはいつの間にか現れた全身黒衣の男が控えている。薄笑いを浮かべたその男の瞳は、爬虫類じみた冷たさを湛えていた。
皇帝が口を開く。「勇者アレンよ。礼を言うぞ。お前が各地で魔王軍を討ち滅ぼし、力を示してくれたおかげで…」
「陛下…?」アレンの胸に嫌な予感が広がる。
「…我らが主は、ついに降臨なさる」皇帝の声は平板で、感情が感じられない。「お前たちの役目は終わったのだ」
「まさか…あなたが黒幕だったの?」エリーナが信じられないというように叫んだ。
皇帝は答えず、傍らの黒衣の男――魔術師と思われる人物に目配せした。次の瞬間、その男が低い声で呪文を唱える。
アレンは必死に抗おうとするが、鎖がますます強く締め付け動けない。魔術師の詠唱が最高潮に達しようとした、その刹那――。
突然、空が暗転した。中庭の上空に黒雲が渦巻き、稲妻が閃く。宰相の足元の魔法陣が音を立ててひび割れ、制御を離れた魔力が迸った。
「ぐわっ!」黒衣の魔術師が悲鳴を上げて吹き飛ばされる。皇帝もバランスを崩し、近くの兵に支えられた。
激しい揺れに地面が裂け、幾本もの巨木の根のような黒い影が地面から突き出てきた。それは蠢きながら形を成していき、一つの巨大な姿を形作る。まるで顔のない巨人のごとき異形がゆっくりと立ち上がったのだ。その姿に、人々は恐怖に凍りつき悲鳴を忘れた。
「こ…これは…」エリーナが息を呑む。
「まだだ…まだ完全ではない…!」宰相が狼狽した声を上げる。「勇者を、生け贄を捧げねば…!」
アレンを縛っていた光の鎖が揺らぎ、僅かに緩んだ。その刹那、エリーナが駆け寄り魔術の短刀で鎖を断ち切った。
「アレン、今のうちに…!」
自由を取り戻したアレンは、咄嗟にエリーナの腕を掴んだ。「リアナを助けに――」
「だめ、間に合わない!」エリーナが泣き叫ぶ。「リアナが自分の命と引き換えに時間をくれたのよ! 無駄にしちゃだめ!」
アレンは苦悶の表情で睨んだ先で、遠く兵士たちに押さえつけられたリアナがこちらを見ていた。血がにじむ唇で、彼女は確かに「逃げて」と形を作った。
「リアナァァ!」アレンの叫びが虚しく木霊する。彼の胸を灼く憤怒と悲痛。それでも足は動かなかった。エリーナが懸命にその手を引く。「行きましょう、アレン!」
涙で視界が滲む。だがエリーナの言葉は正しかった。このままでは三人とも死ぬだけだ。アレンは奥歯を噛み締め、無理やりその場から目を背けた。「リアナ…必ず迎えに来る…!」喉の奥で絞り出すように誓い、二人は崩れゆく中庭から走り去った。
宰相の怒声と魔物の咆哮が背後で渦巻いている。巨大な「何か」はまだ不完全な姿のまま天を仰いでいた。
日暮れ時、帝都郊外の森の中。アレンとエリーナはようやく追手の届かない木立の陰へと逃れ込んでいた。二人とも泥と血に塗れ、疲労で肩で息をしている。
「リアナを…リアナを置いて逃げるなんて…!」アレンが拳で木の幹を殴りつけた。悔しさに声が震える。「俺は…仲間を見捨てたのか…!」
「アレン…」エリーナが涙声で囁いた。「見捨てたんじゃない…助けるためよ。きっと助け出そう、ええ?」
「どうやって?」アレンは荒い息のまま顔を上げた。「帝国全軍と魔物が相手だぞ! あの宰相も、皇帝までもグルだった…俺たちだけでどうにかなるのか?」
「わからない…でも…!」エリーナは必死に言葉を探した。「諦めないで。リアナも、あなたが諦めたら悲しむわ」
アレンはきつく目を閉じた。瞼の裏に、無数の兵に取り囲まれるリアナの姿が浮かぶ。無力さが胃の腑を突き上げ、激しい自己嫌悪が押し寄せた。「俺が…もっと強ければ…!」
「十分強いじゃない…!」エリーナが首を振る。彼女の頬にも涙の筋が光っていた。「あなたがいなければ、私たちはとうに殺されてた。それでも足りないというの? 私…私は悔しい。自分が無力で…リアナを救えなかった…!」
エリーナは嗚咽を堪えながら続けた。「でも、きっとまだ間に合うわ。リアナは強い人だもの。宰相の目的は勇者であるあなたでしょう? リアナをすぐには殺さないわ…」
「……そうだな」アレンは震える息を吐き、額を木にもたせかけた。エリーナの言葉を信じたい気持ちと、最悪の想像がせめぎ合う。「俺は…弱音を吐いている場合じゃないな」
そっとエリーナがアレンの背中に手を置いた。「ええ…私たちでリアナを取り戻しましょう。そして、帝国の陰謀を止めなくちゃ」
アレンは静かに顔を上げた。涙に濡れたエリーナの瞳が揺れている。「怖いだろうに…ありがとう、エリーナ」
エリーナは小さく首を振って微笑もうとした。「私だって…怖い。でも、リアナを助けたいの。それに…このまま放っておけば、きっともっと酷いことになる」
「あの“何か”を完成させるわけにはいかない…」アレンは天を仰いだ。木々の隙間から覗く空には、いつの間にか冷たい星々が瞬いている。「必ず止めてみせる。リアナも救う」
彼の言葉に、エリーナは涙を拭って力強く頷いた。
その時、森の奥で枯葉を踏む微かな音がした。アレンははっとして顔を上げる。疲労しきった体に再び緊張が走った。「誰だ!」
静寂。風が吹き、梢がざわめく。エリーナがアレンの傍に身を寄せ、震える声で囁いた。「まさか追っ手が…?」
アレンは剣を握り直し、息を潜めて闇に目を凝らした。