第13話 帝国の影に潜むもの
黄昏の陽光が帝国の都を黄金色に染め上げていた。壮麗な城壁に囲まれた帝都は、一見すると平和と繁栄の象徴だった。しかし、その平和の裏には人知れぬ緊張が潜んでいるようにも感じられる。アレンたち一行は巨大な城門をくぐり抜け、石畳の大通りを進んでいく。石造りの街並みは古の繁栄を物語り、中央には皇城の尖塔が空を突き刺すように聳えている。沿道では華やかな幕と帝国の旗が翻り、民衆が花びらを撒いて彼らを迎えていた。衛兵たちが道沿いに立ち、笑顔の群衆を密かに監視している。歓声と笑顔に包まれる光景――だがアレンの胸中には拭いきれぬ違和感が芽生えていた。笑みを浮かべる人々の中に、どこか影の差した表情が混じっているように思えたのだ。歓呼する群衆の中で、幼子が無邪気に手を振っていた。だがその母親は笑顔を浮かべながらも、どこか怯えた様子で子を抱き寄せている。
「歓迎が手厚すぎるくらいだな」
隣を歩くリアナが小声でささやいた。彼女の翠玉の瞳は祝祭めいた街の様子を映しつつも、警戒の色を帯びている。エリーナもまた静かに頷き、銀色の髪をなびかせながら周囲に目を光らせていた。
「帝国側は僕たちを客人として迎えているけど……」アレンは表情を崩さぬよう慎重に言葉を選びながら返す。「何かが変だ。まるで劇の舞台裏で別の筋書きが動いているような気がする」
長い旅路を経て幾多の戦いを潜り抜けてきたアレンの勘が、声無き警鐘を鳴らしていた。
ファンファーレの音が高らかに鳴り響き、一行は衛兵の先導で皇帝の居城へと案内された。白大理石の階段を上ると、豪奢な大広間が目の前に広がる。天井には世界樹を模した巨大な枝葉の彫刻が施され、黄金のシャンデリアが揺らめく光を放っていた。微かな香が漂い、空気には張り詰めた静けさが混じっている。皇帝セドリック二世が玉座から立ち上がり、穏やかな笑みを浮かべてアレンたちを迎えた。年の頃は五十前後だろうか、威厳を湛えた姿ながら、どこか温和な雰囲気をまとった男である。
「よくぞ帝国へいらした、アレン殿。そしてリアナ殿にエリーナ殿も」皇帝の声は朗々としており、礼節を尽くした口調だった。「諸君の訪問を心から歓迎する。諸国に勇名を轟かせた諸君に敬意を表し、明日には祝賀の式典も催す予定だ」
「光栄に存じます、陛下」アレンは一行を代表して恭しく礼を取った。隣でリアナとエリーナも恭謙に一礼する。
皇帝の背後には黒衣の宰相が控えていた。痩身の長身に黒い法衣をまとったその男は、鋭い眼差しでアレンたちを値踏みするかのように見つめている。礼節の幕の裏側に潜む影――アレンは正体の知れぬ不穏さを彼から感じ取っていた。穏やかな皇帝の笑みに安堵しかけた心が、再び引き締まる。
その後、歓迎の宴が開かれ、煌びやかな食卓に山海の珍味が並べられた。帝国の貴族や将軍たちが長いテーブルを囲み、杯を掲げては友好を称える。絢爛たる音楽が流れ、笑い声が咲き、踊る炎の影が壁面で揺れていた。頭上の世界樹の彫刻もまた、不気味な影を床に落としている。
一瞬、アレンはこの祝宴の狂騒に身を委ね、長い旅の疲れを忘れてしまいたい衝動に駆られた。しかし首筋には薄い緊張が張り付き、どうしても気を緩めることができない。彼は杯を握る指先にわずかな力を込め、浮かれすぎないよう自らに言い聞かせた。
やがて隣席の将軍が陽気に話しかけてきた。「いやあ、あなた方の活躍は噂に聞いておりまぞ!実に心強い。我が帝国としても頼もしい限りだ」
「恐縮です」アレンは愛想よく微笑んで答える。
将軍は満足げに頷き、大きな鷲鼻を揺らして笑った。「明日の式典では我ら帝国の誇る軍楽隊が演奏を披露します。ぜひ楽しみにしていてくだされ」
「それは楽しみですわ」エリーナが穏やかに会釈した。だが彼女の指先はテーブルの下で緊張からか小さく震えている。リアナもまた気丈に振る舞ってはいるが、時折鋭い視線で周囲の近衛兵たちの動きを窺っていた。膝の上で握られた拳には、微かに力が込められている。
アレン自身、表面上は談笑に交じっているものの、心の奥底では膨れ上がる違和感を押し殺していた。ふと宴席全体に目を配ると、大広間の出口付近には無表情な近衛兵たちが何人も控えているのが見えた。祝宴にしては警備が厳重すぎる――そんな疑念が頭をもたげた瞬間、隅に立つ宰相と目が合った。彼はこちらをじっと観察している。その目は笑っていない。冷血な蛇に睨まれた小動物のような戦慄がアレンの背筋を走る。
やがて皇帝が席を立ち、満面の笑みで杯を掲げた。「帝国と諸国の友好と繁栄に、そして勇敢なる旅人たちに栄光あれ!」
一斉に湧き上がる歓声と乾杯の声。祝宴は最高潮に達した。しかしアレンは喧騒の中で、遠くからかすかな悲鳴のような音を聞いた気がした。はっとして辺りを見回すが、誰も異変には気づいていない。ひょっとすると誰かが何かの拍子に叫んだのか、それとも自分の空耳か……アレンは戸惑いを覚えながらも、気のせいだと言い聞かせるように首を振った。そして杯を唇に運ぶ。芳醇な葡萄酒の香りが鼻をくすぐるが、喉を通る液体はどこか鉄の味を帯びていた。不安が酒の苦味となって広がっていくようだった。
宴もお開きとなり、夜闇が帝都を包む頃、アレンたちは城内の客人用の居室へと案内された。長い石造りの廊下を進み、それぞれの部屋へ導かれていく。付き添う衛兵の足音が無表情な石壁に反響し、妙に耳についた。壁に掛けられた歴代皇帝たちの肖像画が揺れる松明の明かりに浮かび上がり、どれも皆こちらを見下ろしているように見える。長旅の疲れもあり、仲間たちは順に部屋に入り休息を取ることにした。リアナとエリーナは隣室へ下がり、アレンは与えられた一室で衣服を緩める。
窓辺に立つと、冷たい夜風が吹き込み、彼は襟元をかき合わせた。
「……月が赤い」
見上げた夜空、高く昇った月が薄紅に煙っている。ぞっとするような不吉な色合いだ。赤い月を見たのはいつ以来だろうか……。アレンは幼い頃、故郷の村が魔物に襲われ炎に包まれた夜、血のような月が浮かんでいた記憶を思い出した。封じ込めていた忌まわしい光景が脳裏をかすめ、彼は小さく頭を振って追い払う。それがただの偶然であるよう祈りながら目を閉じてみたが、胸騒ぎは増すばかりだった。結局、落ち着かぬままベッドに腰を下ろし、闇に耳を澄ませていた。
どれほどそうしていただろうか。ノックの音にアレンはハッとして顔を上げた。「アレン、起きている?」小声で囁くのはエリーナだった。扉を開け彼女を中に迎え入れると、エリーナの表情は不安に強ばっている。
「どうしたんだ?」アレンは声を潜めて尋ねた。
「ごめんなさい、こんな夜更けに…でも、どうしても気になって」エリーナは戸口に立ったまま周囲を窺い、さらに声を落とした。「実は少し眠れなくて部屋の外を歩いていたの。そしたら廊下の曲がり角で、二人の兵士がひそひそと話している声が聞こえて…つい立ち聞きしてしまったの。そこで『明日』『儀式』『注意を怠るな』――そんな言葉がはっきりと…」
「儀式…?」アレンは眉をひそめ、引っかかるものを覚えた。「明日の式典のことじゃなくて?」
「わからない。でも…口調が普通じゃなかった。ただの式典の準備をしているようには聞こえなかったわ」エリーナは青ざめた顔で首を振る。「それに…思い過ごしかもしれないけれど、宴の間ずっと胸騒ぎがしていたの。微かだけど嫌な魔力の気配のようなものを感じて…」
「魔力の気配…?」アレンの表情が険しくなる。「君がそう感じたなら、何かあるのかもしれない」
「胸がざわついて…何か恐ろしいことが起ころうとしている気がするの」エリーナは声を震わせた。
アレンはエリーナの震える手に自分の手を重ね、力強く頷いた。「僕も嫌な予感がする。用心するに越したことはないね。リアナにも知らせよう」
二人は隣室へ行き、リアナをそっと起こした。目を覚ましたリアナは、話を聞くや否や険しい表情になる。
「やっぱり何か仕組まれているのね」彼女は吐き捨てるように言った。「歓迎だなんて嘘っぱち…最初から胡散臭いと思っていたのよ」
リアナは素早く身支度を整えると、傍らに立てかけてあった剣と短剣を手に取った。短剣の鋭利な刃が灯火を受けて鈍く光る。
「明日は十分に注意しましょう。何が起きても対処できるよう準備しておくわ。私たち、お互いに背中を預け合うのよ」
アレンとエリーナもそれぞれ自分の武器を確かめ、小さく頷きあった。緊張が漂う中、三人の間に微かな連帯感が生まれる。自分たちならどんな危機でも乗り越えられる――そう信じるほかはなかった。
三人はしばし無言で互いの顔を見つめ合った。やがてリアナが悔しげに口を開く。
「帝国なんて、最初から信用できないと思っていたのよ」
「リアナ…」エリーナが悲しげに眉を曇らせた。「でも、帝国のすべての人が敵というわけではないでしょう? 陛下だって、本当に私たちを歓迎してくださっているのかもしれないわ」
「甘いわ、エリーナ」リアナは鋭い口調で言い放った。「あの宰相の様子を見たでしょう?何か裏があるに決まっている。陛下だって信用できるかどうか…」
「そうだとしても…私、信じたいの。戦いばかりじゃなく、ちゃんと話し合えば分かり合えるって」エリーナの声はかすかに震えていた。
リアナが何か言い返そうとしたとき、アレンが静かに二人へ手を上げた。「今は疑い出せばきりがないよ。大事なのは、何が起きても俺たちが一緒にいることだ」
彼はリアナとエリーナの顔を順に見渡した。「僕たちは仲間だ。それは帝国がどうであろうと変わらない」
リアナは口をつぐんで目を逸らしたが、エリーナは小さく微笑んだ。「…ええ、そうね。ごめんなさい、取り乱して」
「私こそ…少し頭に血が上っていたわ」リアナも息を吐くように言った。「怒っていても仕方ないものね」
アレンは二人にうなずいてみせた。「じゃあ、俺が最初に見張りをする。二人は先に休んで」 アレンは窓際の椅子に腰掛け、静かに剣の柄に手を置いたまま闇に目を凝らした。隣室からは、リアナとエリーナの微かな寝息が聞こえてくる。帝国に赴いたのは和平のためだったはずだ――それが再び戦いの舞台になるのだろうか。尽きることのない争いの運命に、彼は奥歯を噛み締めた。仲間たちを危険に晒すわけにはいかない。胸に宿る決意を新たに、アレンは重く静かな夜の見張りを続けた。
夜更け、外の静寂が一層深まる中、遠くの楼閣から時を告げる鐘の音が低く響いてきた。
その頃――帝都の離宮に位置する高塔の一室で、一つの影が蠢いていた。窓辺に立つ黒衣の宰相である。彼は闇に紛れ、手にした水晶玉に向かって低く囁いた。
「……全て予定通りに進んでおります。勇者たちも明日には――」
月光が彼の横顔を照らす。その薄い唇には冷たい微笑が浮かんでいた。水晶玉の中で鈍い赤い光が脈動し、何者かの低い笑い声が応じる。「フフ…頼んだぞ」かすれた不気味な声がそう告げると、光はすっと掻き消えた。宰相は静かに頷き、満足げに窓を閉じる。
夜風が吹き抜け、帝都の旗がはためいた。華やかな歓迎の裏側で、陰謀の芽が音もなく育ちつつあった。