第11話 獣人連合
精霊郷を発って幾日か、アレンたちは北国の荒野に足を踏み入れていた。草原と針葉樹の森が交互に続く大地は起伏に富み、所々で噴き出す地熱の湯気が陽炎のように揺らめいている。冷涼な風に乗って獣の匂いと草土の匂いが鼻を掠め、空には鋭い鳴き声を上げる鷹が旋回していた。ここは獣人族たちが暮らす土地――獣人連合の領域である。
「近いぜ」先頭を歩くガルザが、鼻先をひくつかせながら言った。彼は狼の耳と尾を持つ獣人族で、野性の勘は鋭い。「懐かしい匂いだ…故郷の風の匂いがする」ガルザの声には微かな緊張が滲んでいた。彼が長く留守にしていた故郷に、いま異邦の友を伴って戻ろうとしているのだ。アレンはその背中を見つめ、小さく頷いた。
昼過ぎ、丘を一つ越えると、遠くに集落が見え始めた。大小様々なテントや木造の家屋が広い平地に点在し、その周囲には丸太の柵が巡らされている。集落の中央には高く掲げられた旗印が風になびいていた。狼、虎、熊、鳥…複数の獣の紋様が円形に描かれている。「あれが獣人連合の紋章だ」ガルザが目を細めて旗を指す。「連合を構成する主要な氏族を象徴しているんだよ」
三人は柵の前まで歩を進めた。すぐに見張りの獣人たちが現れ、低い唸り声と共に槍を構えて近づいてくる。毛皮に覆われた巨漢の獣人が一歩前に出た。熊のようにどっしりとした体躯で、その瞳には猜疑が浮かんでいる。「ここは獣人連合の集落だ。人間風情が何の用だ?」荒々しい声が飛ぶ。アレンは両手を開き、落ち着いた態度で答えた。「我々は旅の者です。あなたがたの長に、お取次ぎ願いたい」その背後でガルザも声を上げる。「久しいな、ドラン。俺だ、ガルザだ!」
槍を構えていた獣人――ドランと呼ばれた男は訝しげにガルザを見つめ、やがて目を見開いた。「まさか…ガルザか? お前、生きていたのか!」ドランは驚きに声を震わせた。周囲の獣人見張りたちもざわめく。「おいおい、本物のガルザなのか?」「人間と一緒に戻ってくるとはな…」様々な声が上がる。ガルザは肩をすくめて笑った。「ああ、本物さ。久闊を叙したいところだが、今は客人を通してくれないか」
ドランは一瞬眉をひそめ、アレンとリアナに鋭い視線を向けた。「客人、だと? 人間を里に入れるなど…」逡巡する様子に、ガルザは静かに付け加えた。「この方々は精霊郷の長老のお墨付きだぜ」そう言って、アレンが首から提げている蔓編みの守りを指差した。青い宝石が陽の光を受けてきらりと光る。ドランはそれに目を留めると、息を呑んだ。「それは…精霊の印か?」
「左様」リアナが穏やかな声で頷いた。「精霊族の長老より託されし証です。我々が貴方たちと誠実に語らい、協力を求めるための」リアナの落ち着いた物腰に、ドランは戸惑いながらも頷きを返す。「わ、分かった…。とにかく、長に報せる。お前たちは俺について来い」彼は他の見張りに警戒を解くよう手振りで命じ、先導役を買って出た。
集落の中へ足を踏み入れると、多くの獣人たちの注目が集まった。背の高い虎の獣人の戦士たちが訝しげに様子を窺い、子供たちは好奇心からか物陰から人間の客を覗き見ている。集落の奥では狩りから戻った若者が巨大な鹿の獲物を担ぎ、広場の片隅では家族が焚き火を囲んで簡素な食事の準備をしていた。その誰もが珍客であるアレンたちに視線を送り、ざわめきが広がってゆく。ガルザは知った顔に何度か会釈を返していたが、その表情は硬い。アレンは周囲の視線に晒されながらも冷静を装い、リアナも緊張を押し隠して歩を進めていた。
やがて一行は集落中央の広場に面した大きな丸太造りの館の前に到着した。ドランが門の番に一言告げると、木戸が軋む音を立てて開かれる。「入れ。長がお待ちかねだ」ドランに促され、アレンたちは館の中へと足を踏み入れた。広間には連合の首領格と思われる獣人たちがずらりと居並んでいた。獅子の鬣を持つ壮年の男、鷲の翼を背に生やした女性、斑模様の毛皮を持つ豹の若者など、実に様々な種族がいる。皆、それぞれの氏族の紋様を刻んだ腕輪や羽飾り、毛皮の装束を身につけ、鋭い眼差しで客人を見据えていた。広間の壁には各氏族の旗標が掲げられ、炉の火が揺らめく中、緊張した空気が漂っている。その中心には一際威厳ある老獣人が腰掛けていた。灰色の狼の耳と尾を持つ彼は、鋭い金色の瞳で来客を見据えている。ガルザはその姿を見るなり、はっとして片膝をついた。「父上…!」
アレンは意外に思い横目でガルザを見た。まさか、この老獣人がガルザの父親、つまり連合の長なのだろうか。老獣人――ガルザの父は静かに頷いた。「よく戻った、ガルザ。無事で何よりだ」その声音には安堵と厳しさが混じっている。「お前が旅に出てからどれほど経つか…まさか人間を連れて帰って来るとはな」
ガルザは恭しく頭を垂れた。「父上、私は見聞を広めるため各地を巡りました。そして今、この方々と行動を共にしております。彼らは信用に足る者たちです」老獣人はゆっくりと立ち上がった。長身で、年老いてなお凛然たる気迫をまとっている。「そうか。その証として精霊族の長老からの使わしも持参したのだな?」アレンは胸元の守りを示し、一礼した。「初めまして。人間のアレンと申します。お目通り叶い感謝します。仰せの通り、精霊郷の長老様より御紹介をいただき参上しました」
老獣人はアレンを上から下まで観察するように見つめ、重々しくうなずいた。「うむ、よく来た。私は獣人連合の盟主、ガルザの父にして狼族の族長、バルグだ」低く響く声が広間に満ちる。「まずは、異邦の客を連合に迎え入れたゆえ、礼を尽くそう」そう言って右手を挙げると、周囲の獣人たちもそれに倣い一斉に胸に拳を当てた。どうやらこれが彼らなりの歓迎の意らしい。
アレンとリアナは丁寧に頭を下げた。バルグ…と名乗った獣人長は続ける。「さて、アレン殿。我らが集いしこの地に、人間の身で何を望む? 息子の縁とはいえ、然るべき理由があろう」その問いに、広間の視線が一斉にアレンへ注がれた。どの顔も警戒と好奇の色を浮かべている。
アレンは緊張を覚えつつも、はっきりと口を開いた。「はい。我々は各地を巡り、迫り来る闇の脅威に対抗する術を求めています。人間界のみならず、この世界全体に忍び寄る災厄を前に、種族の壁を越えた協力が必要だと感じています。そのために、獣人連合の知恵と助力を頂きたく…参りました」
彼の言葉が静かに響いた。一瞬の沈黙の後、低い笑い声が上がる。「ふん、人間の災厄になぜ我らが手を貸さねばならん?」声の主は大柄な虎族の男だった。額に古傷のあるその男は、嘲るような眼つきでアレンを睨んでいる。「お前たち人間は、常に自分たちの都合で動く。都合が悪くなれば今度は我らに泣きつくのか?」
バルグが厳しい目で虎族の男を見やった。「ザラク、無礼は慎め」しかしザラクと呼ばれた虎族は引き下がらない。「盟主殿、私は事実を述べているだけですぞ。人間どもは我ら獣人を蔑み、迫害してきた歴史がある。十年前には人間の王国軍が我らの集落を焼き払ったことさえあった。それを今さら協力とは笑わせる」周囲の数名の獣人が低く唸り、同意するように頷いた。
リアナが進み出て静かに頭を下げた。「ごもっともなご懸念です。ですが、今この世界に迫る危機はすべての種族に及ぶもの。精霊族もまたそれを察知し、協力を決めました」ザラクは鼻白むようにリアナを見た。「ふん、精霊族だと? ああ、お前は人間ではないのか」リアナの髪や瞳にどこか人外の気配を感じ取ったのか、怪訝な表情を浮かべる。
「私は人間ですが、精霊族の血を引いています」リアナは隠さず答えた。「精霊郷にて長老様のご教示を受け、この旅におります」ザラクは嘲笑を浮かべる。「ふ、混血か。ますます信用ならんな!」その言葉にガルザが怒りに声を震わせた。「ザラク! いい加減に――」だがバルグが手を上げ、場を静めた。「よい、ガルザ。ザラク、客人を侮辱する発言は許さんぞ」老獣人の威厳ある一喝に、虎族の男は舌打ちして黙り込んだ。
「アレン殿」バルグが改めて口を開く。「我ら獣人連合が力を貸すに値するか、そなたの言葉だけでは判断しかねる者もおるようだ」彼は周囲を見回した。「今宵は客人をもてなし、明日再び連合会議を開こう。その席で改めて話を聞かせてもらうことにする。それでよいな?」彼の提案に、獅子族の壮年の男が「異論はない」と低く述べ、他の数名も頷き、ザラクも肩をすくめて渋々同意した。
アレンは深く礼をした。「お計らい痛み入ります、バルグ様」こうして一旦会談は中断し、アレンたちは集落内の一角にある来客用の小屋へと案内された。
しばらくして、小屋には簡素な食事が運ばれてきた。香辛料の香り漂う獣肉のシチューと黒パン。それを届けに来た若い獣人の女性は無言のまま盆を置くと、警戒するような視線だけ残して足早に去っていった。歓迎とは言い難い態度だったが、食事を出してもらえただけでも十分だった。アレンたちは静かに謝意を胸に食事を済ませた。
夕暮れ時、アレンは小屋の窓から外の様子を窺っていた。空は茜色に染まり、遠くでは狼たちの遠吠えが聞こえる。集落のあちこちでは焚き火が焚かれ、一日の終わりを告げる煙が立ち上っていた。リアナとガルザはそれぞれの寝台で休んでいる。リアナは疲れからか瞼を閉じて静かに横になり、ガルザは所在なげに天井を睨んでいた。
アレンは胸の内に渦巻く不安を持て余していた。今日の会議で露わになった獣人たちの不信――ザラクの剣呑な眼光が脳裏に焼き付いて離れない。「俺たちは歓迎されてはいないな…」ぽつりと呟いた声に、ガルザが反応した。「ああ、すまねえアレン。俺の故郷なのに、肩身の狭い思いをさせちまった」うなだれるガルザに、アレンは首を振った。「謝ることはないさ。僕たちが突然来たんだ、警戒されるのは当然だよ」
「父上は分かってくれる人だ。だが…ザラクのような強硬派も連合には多い」ガルザは苛立たしげに耳を動かした。「あいつら、人間との和解なんて金輪際ごめんだって考えでね。過去に酷い目に遭った者もいるし…」ガルザの声が沈む。リアナが静かに起き上がり、「時間が必要なのよ」と優しく言った。「私たちだって急に信じてもらおうとは思っていないわ。焦らず、誠意を示していきましょう」
アレンは微笑んで二人を見渡した。「そうだな。僕たちにできることをしよう」そう答えつつも、不安は完全には拭えなかった。窓の外、夜の帳がゆっくりと降り始めている。小屋の戸口のすぐ外には、見張り役の獣人が二人、低い声で何事か話しているのが聞こえた。「まったく、人間なんぞ連れてきおって…」「油断は禁物だ。夜のうちに追い出してしまったほうが――」途切れ途切れに漏れ聞こえる言葉に、アレンはそっと歯噛みした。やはり歓迎されていないのだと痛感する。微かに聞こえる獣人たちの話し声の中に、自分たちへの敵意が潜んでいるのではないか――アレンはそんな疑念を振り払えずにいた。
その時、不意に遠くで甲高い怒号が上がった。アレンが眉をひそめ耳を澄ます。「何だ…?」ガルザも音に気づいたのか、耳をぴくりと動かす。「外で騒ぎが…」リアナも不安そうに立ち上がった。小屋の扉を開け放つと、冷たい夜気とともに緊張感が流れ込んできた。遠方で何やら人々が叫び、慌ただしく走り回る気配がある。「行ってみよう」アレンがすぐさま駆け出すと、ガルザとリアナも後に続いた。
集落の中央付近から、焚き火の明かりと混沌とした怒声が聞こえてくる。何が起きたのか――嫌な予感がアレンの胸をよぎった。そして彼の不安は現実のものとなりつつあった。闇夜に吠える獣人たちの声が、まるで嵐の前触れのように響いていた。