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第10話 精霊の試練

夜明け前の森は、静寂の中に微かな緊張感を(はら)んでいた。東の空が紺青から(だいだい)へと移ろう刻、アレン、リアナ、ガルザの三人は精霊族の案内に導かれ、再び巨木の広場へとやって来た。朝露に濡れる草葉が足元で優しく光を弾き、ひんやりと澄んだ空気が肺に満ちる。鳥たちが一斉に(さえず)り始め、森全体が目覚めようとしていた。


長老が広場の中央で待っていた。その背後の大古木は、朝日に黄金色に輝き始めている。長老の傍らには数人の精霊族たちが並び、皆一様に厳かな面持ちであった。アレンは昨夜の決意を胸に刻み、リアナと視線を交わして頷き合う。ガルザも粗い息を吐きつつ身構えていた。


「準備はよいか、旅の者たちよ」長老が問いかける。アレンたちは声を揃えて「はい」と答えた。長老は静かに目を閉じ、何事か古い言葉で詠唱を始めた。響きは低くゆったりとして、森羅万象へ語りかける祈りのようにも聞こえる。すると、不思議なことに風がざわめき、木々がこぞって葉を揺らし始めた。頭上から朝露がぱらぱらと降り注ぎ、光の粒と戯れる。


「精霊の試練を始める」長老がそう告げると、ひとりの青衣(あおごろも)巫女(みこ)が前に進み出た。彼女はアレンたちに微笑みかけ、小さな土製の杯に満たされた水を差し出した。「これをお飲みなさい。森と心を一つにするための水です」杯には澄んだ水が揺らいでいた。アレンたちは促されるまま杯を受け取り、一口ずつ口に含む。その瞬間、ほんのり甘い草の香りが舌に広がり、体の芯まで清冽(せいれい)な感覚が行き渡った。


「目を閉じ、心で森を感じよ」巫女の優しい声に従い、アレンはそっと瞼を閉ざした。耳を澄ますと、風の音、木の(きし)む音、土の下を流れる水音…森の営みが鮮明に浮かび上がってくる。昨夜リアナと交わした言葉が脳裏をよぎった。彼女は言った、「父と母が繋いでくれた命を無駄にしたくない」と。アレンもまた、自分をここへ導いた数々の出会いと犠牲を思う。胸に静かな熱が生まれ、森の鼓動と自身の鼓動が次第に重なっていくのを感じた。


どれほどそうしていただろうか。突然、ひと筋の光がアレンの閉じた瞼に差し込んだ。思わず目を開くと、自分が見知らぬ森の中に立っていることに気づいた。先程までの広場ではない。周囲にリアナやガルザの姿も見当たらなかった。「これは…試練の一環か」アレンは独りごちる。静まり返った森に自らの声が吸い込まれていった。


辺りには濃い(もや)が立ち込め、木々は幽玄な影を落としている。どちらに進むべきか分からず立ち尽くしていると、不意に幼子の泣き声が聞こえた。アレンははっとして振り向く。朽ちかけた古木の根元に、小さな男の子が(うずくま)って泣いていた。「どうしたんだい?」アレンは近寄り、優しく声を掛ける。だが少年は顔を上げない。ただ震える背中から嗚咽だけが漏れている。


「ここは危ない、早く一緒に行こう」アレンは手を差し出した。その時、森の奥から低いうなり声が聞こえ、黒い影がいくつも迫ってくるのが見えた。魔物だ。獣のような赤い目が不気味に光り、牙の生えた獰猛(どうもう)な狼じみた姿が霧間から現れる。アレンは咄嗟(とっさ)に剣を探したが、腰には何も帯びていないことに気づく。素手でどうにかするしかない。少年を(かば)うように前に立ちはだかり、腕を広げた。「来るな!」怒声を上げ威嚇するも、魔物たちは(よだれ)を垂らして迫ってくる。


先頭の魔物が飛びかかってきた瞬間、アレンは渾身の拳を振るった。拳は確かに獣の顔面を捕らえたが、その体は煙のように掻き消える。驚く間もなく次の獣が背後から襲いかかる。鋭い痛みが肩を(えぐ)った。「ぐっ…!」アレンは叫び、振り払おうとするが、空を切った。気づけば魔物の群れは四方八方を取り囲み、牙と爪が幾重にも彼を引き裂かんとしていた。少年の泣き声が耳にこびりつく。「助けて…お父さん…!」


お父さん? アレンの動きが一瞬止まる。まさか、この子は…。疑問が芽生えた刹那、黒い狼の一匹が大口を開け襲いかかった。もはや防ぐ手立てはない。アレンは直感的に少年を庇い、自分が餌食となることを選んだ。「――!」鋭い牙が目前に迫った瞬間、世界が強烈な白光に満たされた。


アレンは目を焼かれ咄嗟に瞑った。次にゆっくり瞼を上げると、そこは再び静かな森だった。魔物の影も少年の姿も消えている。肩の痛みも嘘のように消え失せていた。ただ胸の鼓動だけが激しく高鳴っていた。「今のは…幻?」アレンは額の汗を拭った。


「アレン!」霧の向こうから聞き覚えのある声がした。リアナだ。アレンは声のする方へ走り出す。薄明の森をかき分け進むと、開けた小さな空間に出た。そこにはリアナが立っていた。彼女もまた息を切らし、冷や汗を浮かべている。互いの姿を認めると、二人は安堵(あんど)に胸を撫で下ろした。「リアナ、無事か?」「ええ…なんとか。でもガルザが――」リアナが不安げに辺りを見回す。


「俺ならここにいるぜ」太い声が木陰から響いた。現れたガルザは荒い息をつきながらも健在だった。腕や足には引っ掻かれたような傷跡が生々しく残っているが、動けぬ様子ではない。「どうやら皆、試練の幻影に(さら)されたようだな…たく、ひどい目に遭ったぜ」苦笑するガルザに、アレンとリアナも思わず笑みを漏らした。三人とも極限の緊張から解き放たれ、互いの無事を喜び合った。


ガルザは太い腕で胸をなで下ろし、苦笑いを浮かべた。「いや全く、厄介な幻だったぜ…」まだ残る傷跡を見下ろしながら呟く。「俺は…俺の族長や仲間たちが現れてな。人間なんぞに与する裏切り者めと(なじ)られちまった。おかげで肝が冷えたぜ」

リアナも静かに頷いた。「私も…亡き母が姿を現したわ」その表情は痛みを湛えている。「母は私に謝っていた。『ひとりにしてごめんなさい』って…そして消えていったの。まるで私を残してまた去ってしまうかのように」彼女の目に再び涙が浮かんだ。アレンはそっと彼女の肩に触れ、優しく言った。「リアナ、あれは幻だ。君のお母さんはきっと、今も君を誇りに思っている」リアナは泣き笑いのような表情で「ええ…ありがとう」と頷いた。

アレン自身も幻影の余韻に胸を()き乱されていた。泣いていたあの少年の姿が瞼に焼き付いて離れない。あれは一体誰だったのか――自分が救えなかった誰か、あるいは記憶の奥底に沈めた幼い自分自身だったのかもしれない…。彼は静かに頭を振り、雑念を振り払った。


しかし試練はまだ終わりではなかった。再会の喜びも束の間、森全体が低く不気味な唸り声を上げ始めたのだ。大地が微かに振動し、頭上の梢がざわつく。「また何か来る…!」アレンが身構えた。と、その時、リアナがはっと何かに気づいたように前に進み出た。「待って、これは…」彼女は両手を広げ、そっと目を閉じる。


すると、先ほどまでの唸りが嘘のように静まっていく。代わりに、風に乗って小さな囁きが聞こえてきた。それは言葉ではない。だが確かに意志を持つ何者かの声――森そのものの声だとアレンは直感した。リアナは優しく微笑み、瞳を開く。「怖がらなくていい…森が導いてくれるわ」彼女がそっと手を差し出す。アレンはその手を握り、ガルザも大きな手で二人の肩に触れた。


霧が晴れてゆき、陽光が降り注いできた。目の前には一本の獣道が伸びている。いや、獣道ではない。苔むした地面に淡い光の帯が浮かび上がり、それがまっすぐ森の奥へと続いているのだ。「ついて来て、アレン、ガルザ」リアナに促され、三人は光の小径(こみち)を歩み始めた。木立の間を縫うように続くその道は不思議と心地よい温かさを放っている。三人の足取りは次第に揃い、やがて森と完全に調和したかのような安らぎが胸に広がった。


こうして彼らは森の中心へと近づいていった。やがて眼前に現れたのは、朝靄の中に佇む小さな泉だった。泉の中央には白く輝く石が据えられており、その周囲を取り囲むように精霊族の者たちが立っている。長老もいる。三人が泉のほとりに足を踏み入れた瞬間、精霊族たちは一斉に微笑みを浮かべ、胸に手を当てて深く頭を下げた。


「おめでとう、旅の者たちよ」長老の声が静かに響く。「汝ら、精霊の試練を乗り越えたり」アレンたちは思わず顔を見合わせ、そして喜びが湧き起こった。ガルザが「ははっ!」と大声で笑う。「やったじゃねえか!」リアナの目にも涙が浮かんでいる。アレンは胸が熱くなり、深く息を吸い込んだ。この森の香りが、今はとても愛おしい。


長老は泉の縁まで歩み寄り、三人に向けて手を差し出した。その掌には三枚の小さな翡翠(ひすい)色の葉が載せられていた。「これは精霊郷の祝福の印。汝らの魂が森と共鳴した証として授けよう」アレン、リアナ、ガルザはそれぞれ一枚ずつ慎重に葉を受け取った。葉は手の中でかすかに脈打つように温かく、まるで生きているかのようだ。


「ありがとうございます…!」アレンは感激して頭を下げる。長老は微笑み、「そなたらはもはや我らの友だ。喜んで力を貸そう」と告げた。「アレン殿、何を知りたいか申してみよ。我らの知る限りを伝えよう」長老にそう問われ、アレンは一息ついてから真剣な面持ちで答えた。「はい。では…お聞かせください。世界樹に迫る災い、そしてこの先我々が進むべき道について」


長老はゆっくりと頷き、語り始めた。「…遠からずしてこの地上には大いなる闇が訪れる。世界樹の嘆きは日に日に高まっている。その原因はまだ掴めぬが、人の世界の乱れと魔物の跳梁(ちょうりょう)が拍車をかけておるのは確かじゃ。そなたらが向かうべき道…獣人の地へ行くとよい」


「獣人の地…獣人連合ですね?」リアナが問い返す。長老は深く頷いた。「うむ、北方の獣人連合には近頃不穏な噂が立っておる。内紛の兆しありとも聞く。世界樹の調和を乱す火種となろうやもしれん。そなたらの旅の途上であろう、ぜひ彼らにも手を差し伸べてやってほしいのじゃ」


ガルザが力強く頷いた。「ああ、もちろんだ。俺は獣人族の一員として、連合がどうなっているか確かめたいと思っていた」彼の拳は固く握られている。仲間の故郷を案じる気持ちが滲んでいた。アレンもまた同意した。「はい、長老様。精霊郷とここで得た学びを胸に、獣人連合へ向かいます。きっと彼らの力にもなってみせます」その言葉に長老は満足げに微笑んだ。


「これを持っていくがよい」長老は自らの首にかけていた(つる)で編まれたお守りを外し、アレンに手渡した。蔓に下がった青い宝石が朝日を受けて輝く。「それは我の(しるし)。獣人たちに会ったら見せるのじゃ。多少なりとも、彼らの警戒を解く助けになろう」


アレンは恐縮しながらそれを受け取った。「ご配慮に感謝します…!」リアナも感激の面持ちで長老を見つめている。「長老様…私…」彼女が何か言いかけたとき、長老は優しく手を上げて制した。「リアナ、お前にはまだ旅が必要じゃろう。ここに留まることは言わぬ。じゃがいつでも帰ってきなさい。お前の家はここにある」その言葉にリアナの頬を涙が伝う。「…はい。必ず、また」震える声で答える彼女を、長老は静かに抱きしめた。


こうしてアレンたちは精霊郷を後にすることとなった。森の入り口では多くの精霊族が見送りに集い、その中には昨日アレンたちを案内した守人たちの姿もあった。初めは警戒を露わにしていた彼らも、今は穏やかな笑みを浮かべ、胸に手を当てて敬意を示している。風に乗せて祈りの歌が贈られ、リアナは何度も振り返り、名残惜しそうに手を振った。アレンとガルザも深く一礼し、感謝の言葉を述べる。そして一行は北へと歩み出す。黄金色の朝日が三人の背を押し、木々の影がゆっくりと彼らの前方へ伸びていった。精霊郷で得た絆と教えを胸に、彼らは次なる目的地へと旅路を進めるのだった。

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