第9話 精霊郷
蒼翠の森林に足を踏み入れた刹那、アレンは息を呑んだ。空気はひやりと澄み渡り、木漏れ日が幾筋もの黄金の帯となって地上に降り注いでいる。周囲には大小無数の樹々がそびえ、その幹は古びた緑青の鎧をまとっているかのように苔むしていた。そこここに舞う光の粒――精霊の火だろうか――が静けさの中で揺らめき、まるで森自らが生きて呼吸しているように感じられる。
アレンたちが精霊族の故郷「精霊郷」へ足を踏み入れたのは、長い旅路の果てだった。人里を離れ、険しい山道や深き森を抜け、ようやく辿り着いたこの隠された聖域。彼の隣ではリアナが一歩一歩噛みしめるように大地を踏みしめている。その横顔には懐かしさと不安が交錯していた。ガルザはというと、得体の知れぬ静寂に緊張を隠せない様子で、喉を鳴らしながら辺りを見回している。
「ここが……精霊郷か」アレンが低く呟く。彼の声は木霊することなく、茂みと葉擦れの音にかき消された。それほどまでに森は深く、その静けさは聖域の威厳を湛えている。「ああ……私の故郷、そして……」リアナが答える声もまた小さい。故郷、と彼女は言った。アレンは横目でリアナを見る。彼女の碧い瞳は遠い記憶を追うかのように微かに震えていた。
やがて、一行の前方に人影が現れた。長身の男女が数名、木々の合間から滑るように姿を見せる。揃いの淡緑の衣に身を包み、腰には簡素な木製の短剣が提げられていた。彼らの瞳は葉の緑と同じ色を帯び、アレンたちを見据える視線には警戒の色が濃い。
先頭の男が一行に近づき、澄んだ声で告げた。「ここより先は精霊郷の領域。何者であろうと無断で踏み入ることは許されぬ」アレンはゆっくりと両手を広げ、武器を持っていないことを示した上で一歩前に出た。「我々は旅の者です。精霊郷の長老にお目通りを願いたい」彼はできるだけ穏やかな口調で述べる。背後でガルザが身構える気配があったが、アレンはそっと手のひらを見せて静止させた。
警戒する精霊族の男が視線をリアナに移す。「……そちらの娘は」リアナはフードを外し、豊かな銀髪を揺らして進み出る。その顔立ちは人間のものながら、どこか精霊族の面影が宿っていた。「リアナ……と申します。長老に、お伝えいただけませんか。故あって里を離れた私が、戻って参りましたと」彼女の声は震えていたが、はっきりとそう告げると、相手の精霊族たちの間にどよめきが走った。
「リアナ……まさか、あの時の子か!」別の若い女性の守人が、驚きに目を見開く。「確かに、髪と瞳の色が…。長老に知らせねば」先頭の男は一瞬ためらったものの、仲間に短く合図するとリアナたちを注視した。「お前たちを長老のもとへ案内しよう。ただし、決して妙な真似をするな」
こうしてアレンたちは森の奥へと導かれていった。やがて、樹々が途切れる開けた場所に出る。そこは巨木が環状に並んだ広場であり、中心には一本、ひときわ大きな古木が天を衝くように聳えていた。その根元に設けられた祭壇のような石造りの台座の上に、一人の老いた精霊族が静かに立っている。
長老――白眉と長い耳を持つその老人は、深緑の法衣をまとっていた。アレンは自然と背筋が伸び、厳かな気配に圧倒されながらもゆっくりと跪く。リアナも隣で膝をつき、ガルザも遅れて不器用に頭を垂れた。「長老様、外つ国の客人をお連れしました。…そして、この者をご覧ください」案内役の精霊族がリアナに目を向ける。長老は静かに段を下り、リアナの前まで歩み寄った。
「顔を上げなさい」長老の声は森のせせらぎのように穏やかで、しかし奥底に大樹の根のような力強さがあった。リアナがゆっくりと顔を上げる。長老の琥珀色の瞳が彼女を捉えた瞬間、その表情に微かな驚きが走った。「やはり…。その瞳の色、間違いない」長老は囁くように言い、優しく微笑んだ。「よく戻った、リアナ。長い間…待っておったぞ」
リアナの瞳にたちまち涙が滲んだ。「長老様…! 私を覚えて…いてくださったのですね…」彼女の声は震え、抑えていた想いが溢れそうになるのを堪える気配があった。長老は静かに頷く。「あの日、お前がこの里を離れて以来、ずっと気に掛けておった。無事に育ったようで何よりだ」そう言って長老はそっとリアナの肩に手を置く。その仕草は遠い親戚の孫娘にでも再会したかのように温かなものだった。
アレンは傍らで成り行きを見守りながら、疑問が胸に芽生えていた。リアナは精霊郷で育ったのか? 彼女が自らを「故郷」と呼んだ意味をようやく理解し始める。だが今は問うべきではないとアレンは自制した。再会の感動に言葉を失っているリアナに代わり、彼自身が改めて口を開く。「長老様、初めまして。私の名はアレンと申します。遠方より、貴方とこの地の智慧を請いに参りました」
長老はゆったりとアレンに向き直った。「アレン殿と申したか。よく来られた。我らが隠れ里を訪ねてくるとは…並の者ではあるまいな」穏やかな声でありながら、その眼差しはまるで相手の魂の奥底を覗くかのようだった。アレンは一瞬言葉を探し、それから正直に答える。「お察しの通り、私は尋ねるべき道を求めて旅しております。世界に忍び寄る災いに立ち向かうため、各地で知識と縁を求めているのです」
「災い、か…」長老は天を仰ぐように目を細めた。「確かに近頃、世界樹の囁きが不穏を告げておる。大いなる影が大地を覆わんとしているとな」アレンは驚きを隠せなかった。世界樹という言葉が長老の口から発せられたからだ。この地に伝わる伝承か何かだろうか。
「長老様…その世界樹とは?」彼が問うと、長老は静かに笑んだ。「お主らの言葉では“世界樹”と呼ぶかどうかは知らぬが、古よりこの世界を支える大いなる命の樹があるのだよ。我ら精霊族はそれを信仰し、その声に耳を傾けてきた。近年、その声が弱り、呻くようになったのだ」
リアナがはっと息を呑む。「まさか…世界樹が、苦しんでいると…?」彼女は幼い頃にも聞かされていたのか、その表情にはかすかな恐れが浮かんだ。長老は頷く。「ああ。そしてそれは、お主たち人間界の乱れとも無縁ではあるまい。世界の各地で争いが絶えず、魔のものどもも活発に蠢いておると聞く。アレン殿、そなたが旅をする理由もそこにあるのではないかね?」
アレンは拳を握り締めた。「お恥ずかしながら、その通りです。人間たちの王国は分裂し、外には魔物の脅威が増し…私は微力ながらそれを食い止める道を探しています。その鍵が各種族の知恵にあると信じて」彼の瞳には決意の光が宿っていた。長老はしばらくアレンを見つめ、それから静かに瞬きをした。「志は立派じゃ。しかし、言葉だけでは信用するわけにはいかぬのが世の常というもの。ましてや我らは長く人間と距離を置いてきた種族。簡単には心を開けぬ」
ピリ、と張り詰めた空気が走るのをアレンは感じた。周囲を取り囲む精霊族たちの視線も依然として警戒を解いていない。ガルザが控えめに唸り声を漏らした。「だから言ったんだ、信用されるわけが…」と悔しげに呟く。彼もまた獣人族として、人間との確執を知っているのだ。アレンは静かに首を横に振り、ガルザを宥めた。そして改めて長老に向き直る。
「ごもっともです、長老様。信頼は行いをもって示すより他ありません。どうか私たちに、あなた方の信頼を得る機会をいただけないでしょうか。我々は精霊郷の掟に従う覚悟で参りました」揺るぎない声音でそう告げると、長老は再び微笑んだ。「よかろう。外部の者に課すべき掟、そして試練がある。それを受けてもらおう」
「精霊の試練…」リアナが小さく呟いた。その言葉にはどこか懐かしさが宿っていた。長老は頷く。「そうじゃ。外から来た者が我らと心を通わせるために古来より行われてきた儀式。それに耐え得る魂かどうか、見定めさせてもらう」長老が片手を上げると、木立の陰からさらなる数人の精霊族が姿を現した。彼らは長老の脇に整列すると、一斉にアレンたちに向かって頭を下げる。案内役の精霊族が言った。「我らが客人の宿へとお連れします。試練は明朝、日の昇る刻に執り行われます。それまでお休みを」
アレンとガルザはそれぞれ静かに立ち上がった。リアナも涙の痕を拭い微笑む。「ありがとう、長老様」リアナが礼を述べると、長老は優しくうなずいた。「さぞ疲れたであろう。ゆるり休むがよい。リアナ、お前には話したいことが山ほどあるが…それは試練の後にしよう」含蓄ある言葉にリアナは「はい」と素直に頷く。
そして一行は精霊族の案内に従い、奥の茂みへと消えていった。長老はその背中を見送りながら、独り静かに呟いた。「世界樹が導きし縁か…。さて、あの少年の心の色、明日見極めるとしようか」古木の梢から一羽の翠の小鳥が飛び立ち、夕闇に溶けていった。
その夜、精霊郷の片隅にある客人用の小屋で、アレンは寝台に横になっていた。しかし瞼を閉じても心が冴え渡り、なかなか眠りにつけない。長老の語った世界樹の不穏な囁きが耳に残っていたのだ。火の消えかけた灯火が壁に揺れる影を映し出す中、アレンは静かに起き上がった。
小屋の外に出ると、澄んだ夜気が肌を撫でた。見上げれば夜空には幾千の星々がきらめき、森の上には薄い霧が幻想的に棚引いている。遠くで虫の鳴く声と、小川のせせらぎが聞こえた。精霊郷の夜は、昼以上に神秘に満ちているようだった。ふと、少し離れた大樹の根元に人影が見える。リアナだ。彼女はひとり木にもたれ、星空を仰いでいるようだった。
アレンは足音を立てないようゆっくりと近づいた。「眠れないのかい?」小声で問いかけると、リアナは驚いたように振り返った。「アレン…ごめんなさい、起こしてしまった?」彼女は目元を赤くしていた。泣いていたのだろうか。アレンは首を横に振り、彼女の隣に腰を下ろす。「いや、僕も眠れなくてね。それで外の空気を吸いたくなっただけさ」そう言って優しく微笑む。
しばらく二人は黙って夜空を眺めていた。しんと静まる森に、互いの鼓動だけが微かに聞こえる気がした。やがてリアナがぽつりと囁くように話し始めた。「私…小さい頃、この森で母と暮らしていたの。でも…母は人間だったのよ」意外な言葉にアレンは息を呑む。リアナの碧い瞳が揺れていた。
「母は若い頃に旅をしていて、この精霊郷に迷い込んだの。そこで父と出会った。父は精霊族だったわ」リアナは遠い記憶を手繰るようにゆっくりと言葉を紡ぐ。「種族の垣根を越えた恋…だったのね。もちろん、周りは反対した。けれど長老様だけは二人を許してくださったそうよ。私が生まれたときも、皆は祝福してくれたわ。…でも、幸せな時間は長くは続かなかった」
アレンは隣で静かに耳を傾ける。リアナの表情には痛みが浮かんでいた。「ある日、村が魔物に襲われたの。突然の襲撃で…父は私を守って戦い、命を落とした。母は私を連れて辛うじて逃げ延びたけれど、この地に居られなくなった。父を失った悲しみと、人間である自分がもたらした災厄だという自責で…母は里を出る決心をしたの。私を連れて、人間の世界で生きていこうと」涙が一筋、リアナの頬を伝った。
「それから私は母と二人で人間の国の隅で暮らしたわ。母は精霊郷のことを私に話してくれなかった。きっと忘れたかったのね…愛する人を亡くした場所だから。でも私は覚えていた。幼いながらに、森の香りも、父の笑顔も。だからいつか訪ねたいと思っていたの。母が病で亡くなった後、なおさら…」リアナは震える声を抑えるように息を吐いた。
「そうだったのか…」アレンは胸の痛みを覚えた。リアナが背負ってきた孤独と悲しみを思うと、言葉が見つからない。ただ彼女の話を受け止め、そっと寄り添うことしかできなかった。「リアナ、君は強いね。辛い過去を乗り越えて…よくここまで」絞り出すように告げる。
リアナはかすかに微笑んだ。「強くなんてないわ。ただ…父と母が繋いでくれたこの命を無駄にしたくないだけ。そう思って前に進んできたの」彼女の瞳には涙が浮かんでいたが、その奥には確かな光が宿っていた。
「僕も、君に出会えて良かった」アレンは率直に言った。「君の存在に、どれだけ救われてきたか…わからない。明日の試練も、きっと大丈夫さ。君がいれば乗り越えられる」不意に出た本心に、自分でも驚いた。しかし嘘ではない。旅の中で、リアナの優しさや強さがどれだけ自分を支えてくれたか。
リアナは頬を染め、はにかんだように目を伏せた。「ありがとう、アレン。…少し、心が軽くなったわ」二人は短い笑みを交わし、再び星空に目を向けた。遥か彼方、瞬く星の群れがぼんやりと天の川を描いている。アレンは小さく息をついた。先ほどまで胸を占めていた不安が嘘のように和らいでいることに気づいた。隣にリアナがいる。その温もりが、不思議と力を与えてくれるのだった。
やがてリアナが「そろそろ戻りましょう」と囁いた。二人は静かに立ち上がり、並んで小屋へと戻っていく。森の梢では月明かりが葉陰に斑を作り、小さな精霊の火が二人の後ろを追うように揺れていた。精霊郷の静かな夜は更けてゆき、明日という新たな試練の訪れを静かに待っていた。