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プロローグ

古の昔、この世界はまだ名もなく形もない混沌に包まれていた。光も闇も曖昧に溶け合い、時の流れさえ定かではなかった。音も色もなく、ただ原初の息吹のみが漂っていた。その中心に、ひときわ巨大な樹が佇んでいたという。天へと届くほどそびえるその樹こそが、後に世界樹と呼ばれる存在であった。世界樹は根を大地とし枝を天と成して、混沌から天地を形作ったとも伝えられる。初めて光が闇から分かたれ、昼と夜が生まれた。世界樹の枝に宿った星々と月が空を巡り、大地には朝の訪れがもたらされた。無貌の世界樹――それは顔も声も持たぬまま、ただ静かに世界の胎動を見守っていた。


やがて世界樹は無数の枝葉を広げ、大地に命の息吹を注ぎ込んだ。その根は地の底深く張り巡らされ、枝先は星々を撫でるほどに繁茂したという。その庇護のもと、やがて大地には最初の民が現れた。人間、精霊族、獣人族、そして魔族――いずれも世界樹の恵みから生まれ落ちた種族である。人間は大地を拓き文明を築くことを許され、精霊族は森羅万象と語らい自然を司る力を与えられた。獣人族は獣の魂と人の心を併せ持ち、世界樹と共に森を守護する者たちとなった。そして魔族――彼らは夜の闇と世界樹の影から這い出で、未知なる力を携えて現れたと伝えられる。


世界樹の恩寵のもと、四つの種族は長きにわたり繁栄し、それぞれの役目を果たしながら世界に調和をもたらしていた。まさに黄金の時代であった。しかし繁栄の陰で、次第に欲望と猜疑が芽生え、種族間にはわずかな軋轢が生じていった。互いの違いを恐れ、些細な誤解から争いの火種が燻り始めた。やがて誰からともなく、更なる力を求める声が上がる。禁忌の知恵を授ける者が現れ、幾人かは世界樹の秘奥に手を伸ばした。それは「異能」と呼ばれる、人の身を超えた力の萌芽であった。かくして世界には新たな原理が刻まれる――「大いなる力には等しい代償が伴う」。異能を得た者は同時に大切な何かを差し出さねばならなかった。命の炎を燃やして魔法を操る者、愛する記憶を手放して時を止める者、自らの姿を異形へと変えてまでも力を振るう者……奇跡の影には常に犠牲があった。強大な力は世界の均衡を揺るがし、やがて種族間の均衡も崩れていった。


ついに世界全土を巻き込む争乱が起こった。異能の力が激しくぶつかり合い、その衝撃は大地を裂き海を荒れ狂わせ、空をも焼き尽くすほどであったという。大地は炎に包まれ、海すら煮えたぎったとも伝わる。人も精霊も獣人も魔族も、誰一人この大戦の渦から逃れることはできなかった。そして戦乱の果てに、世界樹も深い傷を負い、その輝きは翳り始めた。永遠に青々と茂るはずだった葉は色褪せて散り、大地への恵みは日に日に痩せ細っていく。世界樹の枯渇によって世界は大きく姿を変えた。豊穣だった大地は荒廃し、四季は狂い、夜空の星々さえもかつての輝きを失ったと言われる。作物は実らず、人々は飢えと疫病に苦しんだ。精霊族の多くは森と運命を共にするように姿を消し、獣人族は棲み処を追われ彷徨うことを強いられた。人間の築いた古き王国は次々と衰退し、魔族の影は再び不気味に濃さを増した。世界樹という柱を失いかけた世界は、まるで行き場を失った船のように不安定に揺れ続けた。


それでもなお人々は細々と生き延び、失われた世界樹の奇跡を求めて祈り続けた。だがその裏で、密かに暗き祈りを捧げる者たちが現れ始めた。荒廃した世界を嘆くのではなく、むしろ終焉を望む狂信の徒だった。その者たちは闇に紛れて禁忌の儀式を行い、世界樹の死をさらなる力に変えんと画策していた。闇の司祭団――いつしかそう呼ばれる影の集団が各地で蠢き始めたという。彼らは世界樹の滅びこそが真の救済であると歪んだ信念を抱き、陰から世界の終末を企んでいた。村が忽然と消える怪異、空一面に満ちる不吉な黒雲、各地で囁かれる黒い教団の噂……それら全てが闇の司祭団の暗躍の予兆であった。


そして、幾星霜の時が過ぎ去った。世界樹の伝説は語り継がれつつも、人々の記憶から次第に遠ざかりつつある。世界樹にまつわる神話は子供の寝物語として語られるものの、それを現実の出来事と信じる者はほとんどいなかった。現代、人間たちは滅びた王国の跡に小さな都市や村を築き、かろうじて文明の灯火を守っていた。精霊族や獣人族の姿は久しく見られず、人々は魔族の脅威に怯えながらも日々を紡いでいた。アレンという若き青年も、そんな移ろいゆく時代を生きる一人である。彼はまだ知らない――遠い昔に始まった物語の波が自身の運命をも飲み込もうとしていることも、闇の司祭団の魔手が再び世界を覆わんとするときに世界樹の残した微かな祈りが若きアレンとその仲間たちの胸に灯るであろうことも。


無貌の世界樹が見守り続けてきた悠久の物語――その新たな幕が、今まさに上がろうとしている。

その行く末を知る者は、まだ誰もいない。

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