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お飾り婚約者と呼ばれた私だけが知る秘密の魔法

作者: たまユウ

「ここが……公爵家……」


 揺れる馬車の窓から見えた壮麗な屋敷に、私は思わず息を呑んだ。白亜(はくあ)の壁に、空を突くような尖塔。手入れの行き届いた広大な庭園。私が今まで暮らしてきた、古びた雨漏りのする伯爵邸とは、何もかもが違っていた。


 今日から私が暮らすことになる、婚約者の家。

 セドリック・アシュフォード公爵令息。宮廷魔術師団にその名を轟かせる若きエースにして、私の婚約者となるお方。


 もっとも、その婚約は「お飾り」でしかないのだけれど。


 私たちバーンズ伯爵家は、とうの昔に財産を食いつぶし、もはや爵位だけが残る没落寸前の貴族だ。そんな我が家に舞い込んできたのが、アシュフォード公爵家からの縁談だった。

 理由は単純明快。研究にしか興味のない次男セドリック様に、体裁を整えるための婚約者が必要になった、ただそれだけ。見返りとして、我が家には莫大な支援金が渡される。いわば私は、家のために売られてきたようなものだ。


 屋敷の玄関で私を迎えてくれたのは、初老の執事だった。セドリック様の姿はない。


「ようこそおいでくださいました、リリアナ様。主のセドリック様は執務室でお待ちです。こちらへ」


 感情の読めない声で案内され、私は大理石の廊下を歩く。壁に飾られた絵画の一つ一つが、うちの家宝よりも価値がありそうで、どうにも足がすくんでしまう。


 通された執務室は、壁一面が本棚で埋め尽くされていた。その中央、大きな執務机に向かっていた人物が、ゆっくりと顔を上げる。

 銀に近いプラチナブロンドの髪、理知の光を宿すスカイブルーの瞳。整いすぎていて、まるで精巧な彫刻のようだ。彼が、セドリック様。


「リリアナ・バーンズ嬢だね。私がセドリック・アシュフォードだ」

「ご、ごきげんよう、セドリック様。リリアナにございます」

.

 私が淑女の礼をとっても、彼は椅子から立ち上がろうともしない。ただ、値踏みするように私を一瞥しただけだった。


「話は聞いていると思うが、これは形式上の婚約だ。君には衣食住において何一つ不自由はさせないと約束する。私室も自由に使っていい。その代わり、私の研究の邪魔だけはしないでもらいたい」

「……はい」

「君に求めるのは、公の場でアシュフォードの婚約者として、ただそこにいることだけ。私的な交流や、ましてや愛情などは期待しないように。いいね?」


 その言葉は、まるで魔法の契約を交わすかのように冷たく、事務的だった。


 噂通りの、いや、噂以上に冷徹で合理的な人。

 私はこくりと頷くことしかできなかった。


 その後、侍女に案内された私室は、客人をもてなすための部屋なのだろう、無駄に広くて豪華だった。天蓋付きのベッドも、柔らかな絨毯も、夢のようだ。けれど、その部屋には主の温もりというものが、まったく感じられなかった。

 食事も、広いダイニングテーブルでいつも一人。

 使用人たちは皆、礼儀正しく私に接してくれる。けれど、その態度はどこかよそよそしく、彼らの視線からは「冷遇されている、可哀想な婚約者様」という同情が透けて見えるようだった。



 ……でも、それでいい。これが私の役目なのだから。



 この豪華な孤独と引き換えに、お父様とお母様、そして領地の皆が貧しさから救われる。そう思えば、耐えられないことなど何もなかった。



 その夜、私は部屋のバルコニーに出て、静かに夜空を見上げた。

 満天の星が、まるで宝石を散りばめたように瞬いている。


「……きれい」


 幼い頃、おばあ様が私にだけ教えてくれた星々の奇跡の物語。天候を読み、作物の豊凶を占い、人々の営みに寄り添ってきた「星詠み」の力。今では「非科学的な迷信」とされ、魔法使いの誰もが見向きもしなくなった、古い魔法(いいつたえ)


 今では「星詠み」を使える人などいないとさえ言われている。


 それを使えることが私に残された、たった一つの()()


 私はそっと胸元で輝く、おばあ様の形見の小さな星のペンダントを握りしめた。おばあ様は沢山のことを教えてくれた。


 けれど、「星詠み」の力に関しては、おばあ様には悪いけど私も半分、迷信と思っている。

 この屋敷で、私がこの力を役立てる日など、きっと永遠に来ないのだろう。


 それでいい。波風を立てず、息を潜めて、お飾りの婚約者を完璧に演じきる。

 それが、今の私にできる、唯一のことなのだから。



―・―・―



セドリック様の屋敷に来てから、一月が経った。

 あの日以来、彼と顔を合わせることはほとんどない。彼は書斎と宮廷魔術師団の研究室を行き来するだけで、私という婚約者の存在など、とうに忘れてしまったかのようだった。

 私も、広すぎる屋敷での静かな孤独にすっかり慣れてしまっていた。


 そんなある日の午後、珍しくセドリック様から呼び出しがあった。


「急にどうしたのかしら……」


 何か不手際でもあっただろうかと不安に思いながら執務室へ向かうと、そこにはセドリック様だけでなく、客人の姿があった。


 燃えるような真紅のドレスをまとった、華やかな女性。勝ち気そうな瞳と、自信に満ちた立ち姿は、私とは正反対の魅力に溢れている。


「紹介しよう。魔術師団の同僚、クラウディア・ウェルナー嬢だ」

「ごきげんよう。クラウディアですわ」

「リリアナ・バーンズです。はじめまして、クラウディア様」


 私が挨拶をすると、クラウディア様は値踏みするように、私をつま先から頭のてっぺんまで眺めた。その視線はあからさまに私を見下していて、居心地が悪い。


「まあ、あなたがセドリック様の婚約者。……バーンズ伯爵家のご令嬢でしたか。没落寸前だと伺っておりましたけれど、大変ですわね。魔術の素養もないのに、高名な魔術師であるセドリック様のお相手を務めるというのは」

「……お恥ずかしい限りです」

「本当に。セドリック様の隣に立つには、それ相応の能力か、せめて釣り合うだけの家格が必要でしょうに。ねえ、セドリック様?」


 棘のある言葉が、容赦なく私に突き刺さる。

 助けを求めるようにセドリック様に視線を送るが、彼は興味がなさそうに書類に目を落としたままだ。庇ってくれる気など、微塵もないらしい。

 ああ、そうだった。彼は私に「ただそこにいること」だけを求めているのだから。彼の客人の機嫌を損ねないのも、私の役目の一部なのだろう。


「クラウディア様のおっしゃる通りですわ。私のような者が婚約者で、セドリック様には申し訳なく思っております」


 私が当たり障りなく微笑んでみせると、クラウディア様は鼻で笑った。


「分かっているならよろしいのよ。せいぜい、セドリック様のご迷惑にならないよう、大人しくなさってくださいね」


 まるで子供に言い聞かせるような物言いに、悔しさで唇を噛みしめそうになるのを、ぐっと堪えた。

 その後も二人は難解な魔術理論について語り合い、私はただの置物のように、そこに座っているだけだった。


 クラウディア様がようやくお帰りになり、私はそそくさと自室に戻った。

 落ち込んではいない。最初から分かっていたことだ。私は惨めかもしれないけれど、家族が何不自由なく暮らせているのなら、それでいいのだ。

 そう自分に言い聞かせていると、侍女がトレイを手に部屋へ入ってきた。


「リリアナ様、セドリック様からでございます」

「……私に?」


 トレイの上には、湯気の立つハーブティーと、一冊の真新しい本が置かれていた。

 そのハーブティーは、私の故郷の特産品で、幼い頃から飲み親しんだ、心を落ち着かせてくれる香り。そして本は、私が唯一の趣味だと、婚約前の形式的な手紙のやり取りで一度だけ書いたことのある、歴史小説家の最新刊だった。


「どうして……これを……」

「さあ……。ですが、セドリック様は口には出されませんが、きっとリリアナ様のことを気にかけていらっしゃるのですよ」


 侍女はそう言って微笑んだけど、私には彼の真意が分からなかった。

 冷たく突き放したかと思えば、こんなささやかな優しさを見せる。あの冷徹な人の気まぐれだろうか。それとも、これも「お飾りの婚約者」を最低限維持するための、義務なのだろうか。

 私は、ほんの少しだけ温かくなった胸の戸惑いを隠すように、静かに本を手に取った。



―・―・―



 それから数週間、再び平穏な日々が続いた。

 しかし、その平穏を揺るがす異変の兆しは、静かに始まっていた。


 ある夜、いつものようにバルコニーから星を眺めていた私は、ふと眉をひそめた。

 星々の配置が、微かに、けれど確実に「淀んで」いる。

 おばあ様から教わった星詠みによれば、これは大地が乾き、恵みが失われる凶兆。


(まさか……。こんなにはっきりと……。長期的な、日照り?)


 いいえ、そんなはずはない。今は科学的な気象観測が主流の時代。星の配置で未来を読むなんて、やっぱりただの迷信よ。私は自分の不安を打ち消すように、首を横に振った。


 けれど、翌日から、私の不安は少しずつ形になっていく。


 空は雲一つなく晴れ渡っているのに、吹く風は妙に乾いて喉を刺す。

 庭師が「このところ雨が降らず、井戸の水位が下がって困る」と嘆いているのを耳にした。

 市場でも、野菜の育ちが悪いと値段が上がり始めているらしい。


 まだ誰も、深刻には捉えていない。けれど、私の目には、夜空に浮かぶ星々の警告が、日増しに色濃くなっていくのが見えていた。


 ———やはり「星詠み」は本当のなのかもしれない。


 胸元の星のペンダントを、ぎゅっと握りしめる。

 このまま何事もなければいい。私の見ているものが、ただの杞憂であればいい。

 けれど、胸騒ぎは一向に収まらなかった。この国に、何か良くないことが起ころうとしている。その静かな足音を、私だけが聞いていた。



 あれからひと月、王国では一滴の雨も降っていない。


 大地はひび割れ、畑の作物は黄色く枯れてしまった。王都を流れる大河ですら、見るからに水かさが減り、川底の岩がいくつも剥き出しになっている。

 市場では作物の値段が高騰し、人々は日に日に険しい顔つきになっていった。誰もが空を恨めしげに見上げ、まだ来ない雨を待ちわびている。


 セドリック様が屋敷に帰ってこない日が増えた。宮廷魔術師団が総力を挙げて、この異常気象の原因究明と対策にあたっているのだと、執事から聞いた。

 けれど、状況は一向に好転しない。


 たまに屋敷に姿を見せるセドリック様は、日に日に疲労の色を濃くしていた。あれほど理知的で揺らぐことのなかったスカイブルーの瞳には、焦りの色が浮かんでいる。


「セドリック様、また雨乞いの儀式が失敗したそうですわ! もっと強力な魔術を行使すべきです!」


 ある日、屋敷に乗り込んできたクラウディア様の苛立った声が、廊下まで響いてきた。


「無意味だ。空の魔力そのものが枯渇している。力任せに雲を生成しようとすれば、大気の均衡を崩し、何が起こるか分からん」

「では、このまま手をこまねいて見ているとでも!?」

「……策は考えている」


 苦々しいセドリック様の声を聞きながら、私は扉の陰で息を殺した。

 違う。魔力が枯渇しているんじゃない。星々の運行が、その流れが歪んでいるから、大地に魔力が満たされないだけ。

 そう叫びだしたい衝動に駆られたが、私にそんなことができるはずもなかった。


 その夜も、私はバルコニーから星を読んでいた。

 星々は、私にはっきりと語りかけてくる。

 この日照りは、数十年周期で訪れる天体の特殊な配置によるもので、魔術でどうにかなるものではないこと。そして、その歪みを正すには、古代の「星詠み」の儀式によって、天と地の流れを繋ぎ直す必要があること。


 おばあ様の古い研究書に、その儀式についての記述があったのを思い出す。けれど、それはあまりに複雑で、膨大な知識と繊細な魔力制御を必要とする、失われた秘術。


(私に……できるの?)


 もし、このことをセドリック様に話したら、彼はどう思うだろう。

「非科学的な迷信だ」と、一蹴されるに決まっている。クラウディア様なら、きっと狂人扱いして嘲笑うだろう。

 お飾りの婚約者である私が、国家の一大事に口出しなどできるはずがない。もし失敗すれば、私だけでなく、バーンズ家もただでは済まないだろう。


 そう思うと、足がすくんで動けなくなる。

 私はただ、このまま嵐が過ぎ去るのを待つしかないのだ。


 けれど、日に日にセドリック様のやつれた姿を見るたびに、私の心は針で刺されるように痛んだ。

 彼は、彼のやり方で、必死に国を救おうとしている。完璧に見えたあの人が、自分の無力さに苛まれている。その苦しみが、私には痛いほど伝わってきた。


 このまま黙っていて、本当に後悔しないだろうか。

 もし、本当に国が立ち行かなくなってしまったら? 多くの人が苦しむのを、ただ見ているだけでいいのだろうか?


 私は胸元の星のペンダントを、祈るように強く、強く握りしめた。

 おばあ様なら、どうしただろう。きっと、人の役に立てる力を持ちながら、何もしないことこそを、恥だとおっしゃるに違いない。


「……このままじゃ、いけない」


 小さく、けれど確かな決意が、心の底から湧き上がってきた。

 笑われてもいい。信じてもらえなくてもいい。それでも、伝えなくては。私が知っていること、私にできるかもしれないことを。

 それが、この屋敷で何不自由なく暮らさせてもらっている、私にできる唯一の恩返しなのだから。


 私はバルコニーから部屋に戻ると、一枚の羊皮紙を取り出した。

 そして、震える手でペンを握り、夜空から読み取った星々の配置と、その意味を書き記し始めた。

 まずは、この事実だけでも伝えなければ。

 そう決意して、私はセドリック様の執務室へと向かった。分厚い扉の前で一度だけ深く息を吸い、意を決して扉をノックした。



 執務室の扉をノックすると、中から「入れ」という短い声が返ってきた。

 私が中に入ると、セドリック様は山積みの資料の中から、訝しげに顔を上げた。


「リリアナ……嬢。何か用か?」

「夜分に申し訳ありません、セドリック様。どうしてもお伝えしたいことがありまして」


 私は震える手で、先ほど書き上げた羊皮紙を彼の机に差し出した。


「これは……星図? いや、古代の占星術か。何の真似だ」


 彼の声に、あからさまな軽蔑の色が滲む。やはり、信じてもらえるはずなどなかったのだ。それでも、私は必死に言葉を続けた。


「迷信だとお思いなのは承知しております。ですが、どうか、どうかお聞きください。この日照りは、天体の配置の歪みによるもの。力任せの魔術では、決して解決はできません。むしろ、大気の流れを乱し、事態を悪化させるだけです」

「……」

「ここに、星々が示す災いの周期と、その意味を記しました。どうか、一度だけでも目を通していただけないでしょうか」


 セドリック様は黙って私を見つめていた。そのスカイブルーの瞳は、私の覚悟のほどを測っているかのようだ。彼はやがて、諦めたようにため息をつくと、羊皮紙を手に取った。

 そこに記された緻密な星の運行図と、古文書から引用したであろう詳細な記述に、彼の眉が微かに動く。


 その時だった。


「セドリック様! やはりここにいらっしゃいましたのね!」


 執務室の扉が乱暴に開け放たれ、クラウディア様が息を切らして飛び込んできた。そして、私とセドリック様の前の羊皮紙に気づくと、嘲るように唇を歪めた。


「まあ、なんですの、その古臭い紙切れは。……占星術? リリアナ様、あなた、正気ですの? 国がこのような時に、非科学的な迷信を持ち込んでセドリック様を惑わすなんて!」

「これは……」

「もう我慢なりませんわ! セドリック様が煮え切らないから、いつまでもこんな女が増長するのです! わたくしが決着をつけます!」


 クラウディア様はそう言い放つと、懐から禍々しい光を放つ魔石を取り出した。


「古代の気象改変儀式を行います。これを使えば、強制的に雲を呼び、雨を降らせることができるはずですわ!」


「馬鹿なことを言うな、クラウディア!」


 セドリック様の鋭い声が飛ぶ。


「その儀式はあまりに危険すぎる! 失敗すれば、制御不能の魔力の嵐が発生するぞ!」

「成功させればいいだけの話でしょう!? このままでは、あなたの評価も地に落ちますわよ! それとも、このお飾りの婚約者の戯言を信じるとでも?」


 クラウディア様は勝ち誇ったように私を睨みつける。セドリック様は苦虫を噛み潰したような顔で二人を見比べ、そして、深く、長い沈黙の後、絞り出すように言った。


「……分かった。だが、万が一のことがあれば、即座に中止しろ。いいな」

「お任せくださいませ!」


 彼の許可を得たクラウディア様は、私に勝利の笑みを投げかけ、風のように部屋を飛び出していった。

 後に残されたのは、重苦しい沈黙だけ。

 セドリック様は、私の羊皮紙を手に取ったまま、何も言わずに窓の外を見つめている。その横顔は、今まで見たことがないほどに苦悩に満ちていた。


 それから、一時間もしないうちに、異変は起きた。


 晴れ渡っていたはずの夜空が、にわかに黒い雲で覆われ始めたのだ。ゴロゴロという地鳴りのような音が響き、生ぬるい風が吹き荒れる。


「まさか……」


 セドリック様が窓辺に駆け寄る。私もその隣に並び、空を見上げた。


 空には、不気味な紫色の稲妻が走り、雲が巨大な渦を巻いていた。自然の嵐ではない。暴走した魔力が、大気をかき乱しているのだ。


「くそっ……! やはり失敗したか!」


 セドリック様が忌々しげに呟く。

 その時、宮廷からの緊急連絡を告げる魔法の光が、部屋に飛び込んできた。


『緊急事態発生! クラウディア様の儀式が失敗! 王都上空に制御不能の魔力の嵐が発生! 甚大な被害が予想される!』


 その報告と同時に、クラウディア様のヒステリックな声が割り込んできた。


『わたくしのせいではございません! あの女ですわ! あの女が、呪いの占星術で儀式を妨害したのです!』


 あまりに身勝手な責任転嫁に、私は言葉を失った。

 だが、セドリック様はクラウディア様の言葉など聞こえていないかのように、ただ一点、渦巻く嵐の中心を見つめている。

 そして、静かに、けれどはっきりと聞こえる声で呟いた。


「……渦の中心に、奇妙な光の歪みがある。あれは……」


 彼は手の中の羊皮紙に視線を落とす。私が記した、星図の一点と、嵐の中心を何度も見比べて。


「『天狼の星が喰われる時、大気に裂け目が生じ、偽りの嵐を呼ぶ』……。君の書いていた通りか……」


 セドリック様が、初めて私をまっすぐに見つめた。

 そのスカイブルーの瞳に宿っていたのは、もはや軽蔑の色ではなかった。驚きと、焦りと、そして、ほんのわずかな――信頼の光だった。


「リリアナ嬢」


 セドリック様が、私の名前を呼んだ。

 その声には、今まで感じたことのない真摯な響きがあった。


「……君の言う通りだった。私の知識も、宮廷魔術師団の力も、この嵐の前では無力だ。教えてくれ。どうすれば、この嵐を止められる?」

「セドリック、様……」

「君を信じる。だから、教えてほしい。私に、何をすればいい?」


 まっすぐな瞳に射抜かれ、私は息を呑んだ。

 プライドの高い天才魔術師であるこの人が、私の、時代遅れの「星詠み」の力を信じると言ってくれている。

 もう、迷っている時間はない。


「……古代の儀式が必要です。力で嵐をねじ伏せるのではありません。天と地の乱れた流れを『調律』し、あるべき姿に戻すのです」

「調律……」

「はい。王宮の最上階にある古い天測儀の間。あそこなら、かろうじて星々の本当の輝きに繋がることができます。ですが、私一人の力ではとても……」


「私がいる」


 セドリック様は、私の言葉を遮るように、力強く言った。


「君が儀式を執り行え。私は、君の盾になる」


 私たちはすぐさま王宮へと向かった。

 緊急事態に騒然とする王宮で、衛兵たちに天測儀の間の使用許可を求めていると、そこへ髪を振り乱したクラウディア様が衛兵を率いて現れた。


「いたわ! あの魔女よ! あの女が、この災厄を引き起こしたのです! 早く捕らえなさい!」


 憎悪に満ちた瞳で、彼女は私を指さす。衛兵たちが、疑いの目を向けながらじりじりと私たちを取り囲んだ。


「お待ちください! これは……!」


 私が反論しようとした、その時。

 セドリック様が、私を守るように一歩前に出た。


「そこまでだ、クラウディア」


 静かだが、有無を言わせぬ威圧感を放つ声だった。


「この事態を引き起こしたのは、君の浅慮と功名心だ。私は、リリアナ嬢の知識に賭ける。彼女こそが、この国を救う唯一の希望だ。これ以上、彼女の邪魔をする者は、この私が許さない」


 その場にいた誰もが、息を呑んだ。

 セドリック様が、お飾りの婚約者である私を、公の場で、はっきりと守ってくれた。

 クラウディア様は「裏切り者」とでも言いたげに顔を歪ませたが、セドリック様の気迫に押され、それ以上何も言えなかった。


 許可を得て、私たちは天測儀の間にたどり着いた。

 ドーム状の天井にはガラスがはめ込まれ、荒れ狂う魔力の嵐の向こうに、かろうじて星々が見える。


「始めます」


 私は部屋の中央に立ち、胸元のペンダントを握りしめて、静かに目を閉じた。

 古代の言葉で、星々への祈りを紡ぎ始める。

 けれど、暴走した魔力が壁のように私の意識を阻み、なかなか星の輝きに集中できない。額に脂汗が滲み、膝が震え始めた。


(だめ……このままでは……)


 力が尽きかけ、よろめきそうになった、その瞬間。

 背後から、ふわりと温かいものに包まれた。セドリック様が、私の背後に立ち、その両手を私の肩に置いていた。


「一人で背負うな」


 耳元で、彼の声がする。


「私の魔力を使え。君が星に集中できるよう、私が嵐を防ぐ」


 彼の膨大な魔力が、温かい奔流となって、私の中に流れ込んでくる。

 荒れ狂う嵐の音が、嘘のように遠のいていく。彼の魔力が、私を守る穏やかな結界となったのだ。

 閉じていた意識が、澄み渡っていく。


 ありがとう、セドリック様。

 心の中で呟くと、彼の心が流れ込んでくるような不思議な感覚がした。

 大丈夫だ、私がついている、と。


 私は再び、祈りの言葉を紡ぐ。

 今度は、もう迷わない。私の声は、彼の魔力に乗って、力強く響き渡った。

 握りしめたペンダントが、まばゆい銀色の光を放ち始める。その光は、一条の柱となって天をまっすぐに貫き、渦巻く紫色の嵐の中心に突き刺さった。


 途端に、世界から音が消えた。

 魔力の絶叫が止み、不気味な風が凪いでいく。

 偽りの嵐の渦が、ゆっくりと、けれど確実に、その勢いを失い始めていた。



―・―・―



銀色の光が闇を払った後、天測儀の間に静寂が戻った。

 偽りの嵐は完全に消え去り、ガラス張りの天井を、ぽつり、ぽつりと優しい雫が打ち始める。

 数ヶ月ぶりに王国に降る、恵みの雨だった。


「……あめ……」


 その音を聞き届けた瞬間、私の身体からすべての力が抜け、意識が遠のいていく。

 倒れ込む寸前、たくましい腕が、私の身体をしっかりと支えてくれた。


「リリアナ!」


 セドリック様の焦った声を聞いたのを最後に、私は深い眠りへと落ちていった。


 次に目を覚ました時、私は見慣れた自室の天蓋付きベッドの上にいた。

 窓の外からは、雨上がりの澄んだ日差しが差し込んでいる。


「気がついたか」


 聞こえた声に視線を向けると、ベッドの傍らの椅子に、セドリック様が座っていた。いつも完璧に整えられている彼の髪は少し乱れ、目の下には隈が浮かんでいる。その憔悴しきった様子に、私は驚いて身を起こした。


「セドリック様!? そのお姿は……」

「ああ、いや……君が三日三晩眠り続けていたから、少し心配でな」


 彼はそう言って誤魔化すが、後から侍女に聞いたところ、彼はほとんど寝ずにずっと私の側に付き添ってくれていたらしい。


「あの、国は……嵐は……」

「君のおかげで、救われた」


 彼は穏やかに微笑んだ。その表情は、初めて会った頃の氷のような冷たさが嘘のように、優しさに満ちていた。


 私が眠っている間に、全て解決していた。

 恵みの雨は大地を潤し、王国は活気を取り戻しつつある。私の「星詠み」は、もはや迷信ではなく、国を救った大いなる奇跡として王家にも認められたそうだ。


「クラウディア様は……」

「彼女は、国家を危機に陥れた罪、そして君を陥れようとした罪を問われ、爵位と宮廷魔術師の資格を剥奪された。今は、領地で蟄居している」


 彼女を慕っていた令嬢や令息達も離れていったらしい。可哀想とは正直思わない。自らの行いが招いた、当然の結末のようにも思えたから。


 セドリック様は、椅子から立ち上がると、私の前に跪いた。


「リリアナ嬢。……いや、リリアナ。君に、謝らなければならない」

「えっ……」

「私は、愚かだった。目に見えるもの、理論で証明できるものしか信じず、君という人間の本質も、その素晴らしい才能も、何も見ようとしなかった。本当に、すまなかった」


 彼は、私の手を取り、そのスカイブルーの瞳でまっすぐに見つめてくる。


「君の勇気やひたむきさに惹かれた。『お飾り』の婚約者など、もういらない。私が欲しいのは、君だ。私の隣で、本当のパートナーとして、これからの人生を共に歩んでほしい。私と、結婚してくれないか」


 熱いものが頬を伝った。どうしようもないくらい、温かくて幸せな涙だった。


「私も、あなたの隣にいたいです。氷のようだと思っていたあなたの心が、こんなにも熱く、優しいことを、私はもう知っていますから」


 私が頷くと、彼は心から安堵したように微笑み、小さなベルベットの箱を取り出した。中には、夜空を溶かし込んだようなサファイアの周りを、ダイヤモンドの星々が取り囲む、美しい指輪が収められていた。


 彼はそっと私の指に星の指輪をはめてくれると、優しく引き寄せ、私たちは初めての口づけを交わした。



 ―――半年後。



「うん、この配置なら、向こう半年は安定した天候が続きそうだ」

「リリアナ先生の星詠みは、魔術師団の長期気象観測より正確だな」


 王家の庇護のもと設立された『王立星読研究所』の所長室で、私はセドリックと二人、星図を眺めていた。

 おばあ様の悲願だった星詠みの復興は、こんなにも早く実現した。今では、魔術師団も私たちの予測を頼りにしてくれている。


「あら、セドリック。あなたも、ずいぶん星の言葉が分かるようになりましたのね」

「君に教えてもらっているからな。それに、君が必要としそうな古文書を取り寄せるのは、私の趣味になりつつある」


 彼はそう言って、私の隣で微笑む。


「最近、君は私のことを敬称抜きの名前で呼んでくれるようになったな」

「ええ、だって私はセドリックの婚約者ですから。ふふ、もう『お飾り』婚約者なんて言わせません」

「もちろん。君は私にとって誰よりも大切な人だ。……いつも思うんだ。君から呼ばれる名前の響きは、どんな古代魔法の呪文よりも、私の心を揺さぶる。もう一度、呼んでくれないか」

「セドリック」

「ああ…」


 彼は愛おしそうに目を細めると、私の手を取り、その甲にそっと口づけを落とした。


「私が手に入れたのは、国の平和だけではない。何よりも眩しい、たった一つの星も手に入れた」


 私は彼の肩にそっと頭を預け、幸せを噛み締める。


「愛してる。リリアナ」

「私もです。セドリック」



 お飾りの婚約者から始まった私たちの関係は、私だけが知っていた秘密の魔法によって、ようやく本当の愛にたどり着いたのだ。



ここまでお読みいただきありがとうございました!

よろしければ評価してくださると嬉しいです!


最近、プラネタリウムに行く機会がありまして、星をテーマに書きたいなと思ったのがきっかけです!

また次回の作品も楽しみにしてくださると嬉しいです!

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