第9話
レオンハルト王子が王都を去って数日が過ぎた。
けれど、社交界での余韻はなお色濃く残っている。
「隣国のイケメン王子が“イケメン令嬢”フィオナに一目惚れ」――そんな浮ついた噂が、今や街の端々まで届いていた。
もちろんその中心にいる私自身は、うんざりするほど話題にされた割に、どうしてよいか分からないままだ。
「フィオナ様、今度はどちらの王子様が求婚してくるのかしら」「やっぱり“王子様みたいな令嬢”って本当に素敵!」
「でも、やっぱり殿下のご趣味は個性的よねぇ」
そんな会話が、私の背後で毎日聞こえてくる。
少し前の私なら、胸が痛むばかりだったろう。でも今は――ほんの少しだけ、もう慣れてしまったのかもしれない。
とはいえ、人の噂や視線はやはり心の負担だ。
朝の光が射し込むアーデルハイト家の食堂で、私は兄たちの顔をぼんやり眺めていた。
「最近は街に出てもフィオナの話題ばかりだな」
「まぁ、殿下の婚約者だし、しばらくは仕方ないさ」
兄のアルベルトとレオニードがそんなふうにからかうように話す。
「……私、ちょっと疲れちゃったかも」
ぽつりと漏れた本音に、兄たちは顔を見合わせてから、静かに笑った。
「たまには息抜きでもしてきたらどうだ?」
「そうだな。殿下におねだりして、どこか気晴らしに連れてってもらえば?」
そんな会話の翌朝だった。
「フィオナ、今日は……一日、僕に付き合ってくれないか?」
いつもより柔らかな表情のエルネストが、突然屋敷を訪れてそう言った。
王子の正装ではなく、落ち着いた旅人風の装い。
その穏やかな微笑みに、不思議と心が軽くなっていく。
「王子としてじゃなく、今日は“ただのエルネスト”でいたい。……君にも“婚約者”じゃなくて、素の自分でいてほしいんだ」
「……うん、私もそうしたい」
私は頷き、彼と並んで玄関を出る。
王宮の護衛もいつもより遠巻きに控えてくれるらしい。
馬車ではなくふたりきりで王都の石畳を歩く。
朝の市場は、まだ人通りもまばらだった。
店先に並ぶパンや焼き菓子、色とりどりの果物や花。
庶民の子どもたちが走り回り、元気な声を上げている。
「こんなふうに歩くのは、久しぶりだね」
エルネストは少し楽しそうに辺りを見回す。
「私、こうして普通に町を歩くの、ずっと夢だったかも」
「それなら、今日はどこでも好きな場所に案内するよ。――さ、こっち」
彼が私の手を軽く引いた。
王子であることも、婚約者であることも――今だけは忘れて、素直な自分でいられる気がする。
市場の片隅、小さな焼き菓子屋の屋台。
エルネストが「これ、懐かしい味なんだ」と焼きたての菓子パンをひとつ買ってくれる。
「ほら、フィオナ。ひと口どうぞ」
「え……王子がこんなことしていいの?」
「今日は王子じゃないって言ったろ?ほら、遠慮しない」
私はおそるおそる、彼が差し出した菓子パンをかじる。
ふわっと甘い香りが広がって、思わず笑顔がこぼれた。
「……おいしい!」
「だろ? 子どもの頃、よく兄さんと争って食べたなあ……」
無邪気な笑顔のエルネストは、宮廷で見せる大人びた雰囲気とまるで違って見えた。
道すがら、花屋で小さな花冠を買い、公園のベンチに並んで座る。
「似合ってるよ、フィオナ」
「ほんと……?」
「うん。君は、ドレス姿も素敵だけど、こういう素朴な花もよく似合う」
私はなんだか照れくさくなって、視線を落とした。
やがて、私達は人気のない小道や、川べりの草地へ。
静かな木陰に腰かけてぼんやり空を見上げる。
「ねえ、エルネスト……私ね、ずっと悩んでたんだ」
「どうしたの?」
「“王子様みたい”って言われるの、最初は正直あまり嬉しくなかったんだ。
女の子として可愛いって言われることにずっと憧れてたから……。だけど、こうしてエルネストに婚約者として選んでもらえて、今はすごく嬉しい。私が“私”のままでも、好きになってくれたことが、とても幸せだなって思う」
思い切って口にした本音。
エルネストは真剣な顔で私を見つめていた。
「君は君のままでいていいんだよ。誰かの理想に合わせなくても、僕にとってはそれが一番大切なんだから」
「でも……私、可愛くなりたいって思ったりもする。エルネストにそう思われたいなって――そんなの、変かな?」
「変じゃないよ。僕だって、君の笑顔や泣き顔も、全部好きになりたい。
それに……君が他の誰かに優しくされてると、ちょっとヤキモチも焼いちゃうんだ」
彼がそう言って苦笑した。
「私も、君にだけは自分の全部を見てほしいって思うんだ」
昼を過ぎ、町の喧騒が少し静まった頃。
エルネストはふと「ちょっと遠回りしよう」と丘の上の小道へ誘った。
王都の外れ、草花が咲き乱れる小高い丘。
ここからは町も遠く、広い空と野原しか見えない。
「子どもの頃、よく兄と一緒にここに来ていたの。ここなら誰の目も気にせず大声で笑えたから」
「……羨ましいな。僕の家は厳しくて、こんなふうに好きな場所へ来ることなんてできなかった」
「じゃあ、これからは僕と一緒に何度でも来よう」
そう言って、エルネストは私の手を握る。
その手の温かさに、自然と指を絡めた。
「ねぇ、エルネスト――
もし私が、貴方の隣に立つのにふさわしくないって言われたら、どうする?」
「そんなこと言わせない。君がどんな君でも僕の隣は君がいい。……それは誰にも譲れないんだ」
まっすぐな瞳に見つめられて、私の心が強くなっていく。
「ありがとう。……私、今日みたいな日がずっと続けばいいのにって思う」
「僕もだよ。君と一緒にいる時間が、僕には一番の宝物だから」
夕暮れ。
オレンジ色の陽が、ふたりの影を長く伸ばしている。
「エルネスト……私、ね、貴方のことが好き」
「……フィオナ」
彼はそっと私の頬に手を添える。
「もう少しだけ、君を近くに感じていたい」
その声はいつになく優しく、少し震えていた。
「私も……」
自然と距離が縮まる。
お互いに息づかいを感じるほど近く、
ゆっくりと、見つめ合った。
エルネストが私の頬にそっと唇を落とす。
それは優しく、温かく、そして何より“本物の初めて”のキスだった。
どちらともなく小さく笑い、また目を合わせる。
「また……こうして二人で過ごしたいね」
「うん。絶対、また来よう」
手をつないだまま、丘の上でそっと寄り添う。
胸の奥が、ぽうっと幸せな光で満ちていくのを感じていた。
夜の帳がゆっくりと町に降りていく。
その光景を眺めながら、私は思った。
(肩書きも、噂も、全部忘れて――
ただ、“私”でいられる幸せを、君と分かち合いたい)