第5話
朝から空は高く澄んでいて、通りを渡る風が心地よい。
私は、王子エルネストの隣で小さく息を吐いた。
今日は王子の提案で、王都の街へ“ふたりきり”で出かけることになった。
「いつもと違う場所で、君と過ごしたい」――そう言われたときは緊張で胸がいっぱいだったけれど、今はその手を引かれて歩くうちに、少しずつ楽しさと不思議な幸福感が心を満たしていた。
人々が行き交う広場、賑やかな市場、色とりどりの花が咲く通り。
王子は私の歩幅に合わせて歩いてくれて、ときどき気になる露店の前で足を止めては「見てみる?」と優しく問いかけてくれる。
「これなんて君に似合いそうだ」
そう言って差し出されたのは、小さな銀細工のヘアピンだった。
私は恥ずかしくなって視線をそらした。
「そんな、私には可愛すぎるかも……」
「君がそう思ってるだけだよ。可愛いものも、きっと君の魅力になる」
王子の言葉はどこまでも優しい。
それだけで胸の奥が熱くなって、自然と笑顔がこぼれてしまう。
広場の噴水のそばでベンチに腰かけ、甘い焼き菓子を分け合う。
王子と並んでお菓子を食べるなんて、つい昨日までは想像もしなかった。
自分が“女の子扱い”されていることが嬉しくて、誇らしくて、今だけは周囲の視線も気にならなかった。
「……フィオナ、今日は本当にいい顔してる」
王子がそっと囁く。
その声だけで、また頬が熱くなる。
「そんなこと……。でも、ありがとう」
「もっと、君のいろんな顔が見たいな」
私の手の甲をそっと包み込むその温もりに、ドキドキが止まらない。
そんな、夢のようなひとときだった。
けれど――
ふいに、広場の向こう側から声が響いた。
「まあ、殿下……こんなところでお会いできるなんて」
振り返ると、艶やかなドレスに身を包んだ令嬢が、数人の取り巻きを従えてこちらへ歩み寄ってくる。
セシリア――王家に近い名門の令嬢で、エルネストの幼なじみとしても有名な女性だった。
「お久しぶりですね殿下。今日はどうしてこちらへ?」
セシリアは王子の隣へごく自然に歩み寄り、私にはちらりと鋭い視線を向ける。
王子は表情を崩さず、「セシリア、久しぶりだね」とだけ静かに返す。
そのやりとりの間、私はただ立ち尽くしてしまった。
セシリアは私を一瞥し、にっこりと微笑む。
「……まあ、アーデルハイト公爵令嬢もご一緒でしたの?どこかの王子様かと思いましたわ」
皮肉の混じった言葉。
けれど、それに対して私は何も返せなかった。
「殿下、これからご予定があるんですの?私もご一緒させていただいて構いませんよね?」
セシリアはまるで当然のように、エルネストの腕に自分の手を絡ませる。
「今日はフィオナと――」
エルネストが断ろうとするが、セシリアは構わず彼に寄り添う。
取り巻きたちもくすくすと意味深な視線を投げかけてくる。
「まあ、殿下のご友人なら、私たちもご一緒いたしますわ」
「そうですとも。アーデルハイト王子様もご一緒に」
取り巻きの一人がそう言って、私にやんわりと笑いかける。
でも、その笑顔の奥にある“選別”の視線は痛いほど伝わってきた。
私は急激に居場所を失った気がした。
王子の隣はセシリアのような堂々とした、美しくて社交界にふさわしい人が立つべきなのかもしれない。
私は、“王子様みたい”だとか、“イケメン令嬢”だとか、世間の好奇の目で見られることはあっても、こうして堂々と王子の隣で“愛される”自信なんて、まだ持てていなかった。
セシリアは王子の肩に体を預けるようにして、楽しげに話しかける。
まるで、私などそこにいないかのように――
「セシリア、今日はフィオナと出かけているんだ」
エルネストが静かに言うが、セシリアはまったく意に介さない。
「まあ。私も殿下とご一緒できて光栄ですわ」
「……」
私は何も言えず視線を落とした。
エルネストの腕を取って笑うセシリア。
その姿はあまりにも自然で、取り巻きも誰一人として違和感を覚えていない様子だった。
「殿下の隣には、やっぱりセシリア様みたいな女らしい方がふさわしいんじゃないかしら」
セシリアの取り巻きの一人が、私にだけ分かるような小さな声で囁いた。
その瞬間、胸がぎゅっと締めつけられる。
エルネストは、私のほうを何度も気遣うように振り返る。
でも、セシリアの押しの強さ、周囲の雰囲気――“王子として”の立場もあり、強く突っぱねることもできない。
私は、自分がまるで「余所者」になったような気がしてきた。
(私なんかが、王子の隣に立っていていいんだろうか……)
さっきまで感じていたあの“女の子扱いされる幸せ”は、あっという間に心の奥に沈んでいった。
気づけば、涙が滲みそうになっていた。
私は耐えきれなくなって、小さな声で呟く。
「……すみません、少し席を外します」
「フィオナ……?」
エルネストが呼び止めようとする。
でも、私は顔を上げることができなかった。
セシリアがさりげなく王子の腕を引き、「殿下、こちらのお店を一緒に見ていただけません?」と誘う。
私は、そのまま背中を向けて広場の隅を歩きだした。
ざわめきから離れ、路地裏へ足を運ぶ。
人気のない小さな小道で、私はとうとう足を止めた。
心臓が痛い。息がうまく吸えない。
手で口元を押さえて、ぐっと涙をこらえた。
(私、こんな気持ちになるなんて……)
苦しいほどの悲しみ。
“王子の隣にいたい”という気持ち――それが、思っていたよりもずっと強くて。
「やっぱり私は、ああいう人たちには敵わないのかもしれない……」
エルネストの隣に立つ自分を誇らしく思いたかったはずなのに、現実はこんなにも弱くて、不安で、情けない。
涙が一粒、頬を伝って落ちる。
街の喧騒が遠くに聞こえていた。
私はひとり、石畳に影を落としながら、小さな声でつぶやいた。
「どうして……私、泣いてるんだろう……」
やっとの思いで屋敷に戻ると、兄たちが心配そうに迎えてくれる。
「大丈夫か? 顔色、悪いぞ」
「何かあったのか、フィオナ?」
でも私は、何も言えなかった。
「……ごめん、少し疲れただけだから。今日はもう部屋に戻るね」
そう言って、兄たちの心配そうな視線を背中で受けながら階段を上る。
ベッドに横たわると、エルネストと過ごした朝の幸せな気持ちが胸の奥でぐちゃぐちゃに混ざってしまう。
どうしてあんなに悲しいんだろう。
どうして涙が止まらないんだろう。
“エルネストの隣にいたい”“でも、ふさわしくない”――
その思いが波のように押し寄せてきて、私は枕を濡らすしかできなかった。
けれど、胸の奥では確かに「好き」という気持ちが大きくなっていることも、私自身、はっきりと気づいていた。