第4話
朝日が差し込むダイニングには、どこかいつもより緊張した空気が漂っていた。
今日――王子エルネストが“朝迎えに来る”と約束した日だ。
テーブルにつくと、兄のアルベルトとレオニードが、落ち着かない様子で私を交互に見つめてくる。
「本当に大丈夫か? 無理に行かなくてもいいんだぞ」
レオニードが心配そうに私の顔をのぞきこむ。
「そうだな。何かあればすぐ呼び戻してくれ。私たちはすぐ駆けつける」
アルベルトも穏やかに声をかけてくれる。
二人の優しさは、時に心強いけれど――今朝ばかりは少しだけ、そわそわと息苦しさを覚えてしまった。
「うん……ありがとう。でも、私は大丈夫。……多分」
自分でも、そう言い切れるほど強くはないけれど。
でも、どこかで「今日くらいは自分で一歩を踏み出したい」と思っていた。
身支度を整えたあと玄関ホールで待っていると、思いのほか早く王子が到着した。
「おはよう、フィオナ。……迎えに来たよ」
扉の向こうで微笑むエルネストは、いつもより少し大人びて見えた。
彼のそばに近づくと、ほんのりと薔薇の香りがする。
「おはようございます……」
言葉に詰まる私を、彼は優しく見下ろす。
「緊張してる? 大丈夫。今日は君を無理やりどこかに連れ出すつもりはないから、安心して」
「はい……」
私は頷きながらも、なぜだか胸の奥がじんわりと温かい。
きっと、誰かにこんなふうに優しくエスコートされたことなんて、これまで一度もなかったから。
兄たちは玄関の柱の陰から、やけに真剣なまなざしでこちらを見守っていた。
レオニードが念を押す。
「殿下、妹をよろしくお願いします。何かあれば――」
「もちろん。フィオナのことは必ず僕が守る」
エルネストはさらりと約束し、私の手を自然に取る。
驚いて見上げると、王子は悪戯っぽく微笑んだ。
「今日は僕のエスコートに任せてくれる?」
「……はい」
手を取られたまま外へ出ると、朝の空気が澄んでいて、鳥のさえずりが心地よく響いていた。
馬車は用意されていたけれど、「せっかくだから、少しだけ歩かない?」と王子が提案した。
私は戸惑いつつも、彼に促されるまま、緩やかな坂道を並んで歩き始める。
エルネストは時折私の顔を覗き込むようにして、歩調を合わせてくれる。
誰かと並んで歩くことはあっても、「お嬢様」としてエスコートされるのは初めてだ。
すれ違う村人や使用人が、驚いたように二人を見ている。
私は緊張で歩幅までぎこちなくなりそうだったが、王子がふと囁いた。
「景色を見ながらゆっくり歩くのは慣れてない?」
「……あまり。兄たちと並んで歩くとつい大股になってしまって」
「それも悪くないけど、今日は僕のペースに合わせてほしいな」
優しい声音と、どこかからかうような微笑み。
私の手を包む指先が、ほんの少し力を込めた。
小さな湖を臨む庭園まで来ると、王子が立ち止まりベンチを勧めてくれた。
「少し休もうか。朝の光の中の君、とてもきれいだよ」
何気ない一言に、心臓が跳ねる。
「そんな、私なんて……きれいでも可愛くも……」
「可愛いよ。自分で気づいてないだけ。僕には全部ちゃんと見えてる」
私は思わず視線を落とした。
“可愛い”――そう言われるたび、戸惑いと嬉しさが胸を満たしていく。
「私、今までそういうふうに言われたことほとんどないんです」
「じゃあ、これからは何度でも言うよ。フィオナは、可愛い。大切にしたくなるくらいに」
不意に王子が、私の髪に手を伸ばしてそっと毛先を指でなぞる。
くすぐったくて、思わず身をすくめた。
「この髪も、君らしくて好きだよ。他の誰にも似ていないのが、君の魅力なんだ」
「……ありがとうございます」
そう言うのが精一杯だったけれど、その言葉は真っ直ぐに心に届いていた。
湖畔のベンチで、エルネストは小さな籠を差し出した。
中には色とりどりの花と、甘いお菓子が並んでいる。
「朝食は済んでると思うけど……君のために用意してもらったんだ。よかったら一緒にどう?」
私は驚いて見上げた。
「わざわざ……?」
「君とふたりで過ごす時間を、ちゃんと記憶に残したかったから。ほら、遠慮しないで」
小さな焼き菓子を差し出され、戸惑いながらも受け取る。
口に入れると、ふわりと甘くてやさしい味が広がった。
「美味しい……」
「よかった。君の笑顔が見たくて、いろいろ悩んだ甲斐があった」
王子がまっすぐに私を見つめるその視線が、また胸を熱くする。
ベンチで休みながら、私は少しだけ自分のことを話してみた。
「私、今までずっと“王子様みたい”とか、“イケメン令嬢”とか言われてきて……。女の子らしい扱いをされたこと、なかったんです。可愛くなりたいって思っても、どうすればいいか分からなくて」
「君は、君のままで十分素敵だよ。誰かの理想に合わせる必要なんてない」
エルネストは、私の手の甲にそっと手を重ねた。
「でも、僕の前では……君の“女の子らしさ”も、もっと見せてくれたら嬉しいな」
「そんな、私、うまくできないかも……」
「大丈夫。僕がぜんぶ受け止める。君が不安なときは、何度でも甘えてくれていい」
王子の言葉が優しくて、心の奥に染みていく。
誰かにこんなふうに“大切にされている”と感じたことは、本当に初めてだった。
ベンチから立ち上がると、エルネストはさりげなく私の手を優しく握った。
「このままもう少し歩こうか。君と過ごす時間はどれだけあっても足りない」
「……はい」
私も小さく返事をした。
歩きながら、ふいに王子が言う。
「明日も、会いに来ていい?」
「えっ……明日も?」
「君の都合が悪ければ、別の日でもいい。でも、毎日でも顔を見に来たくなる。君が嫌じゃなければ、ね」
その声は、甘くて、どこか本気だった。
私は戸惑いながらも、嬉しさを隠しきれない。
「……はい」
王子はとても満足そうに微笑む。
屋敷に戻ると、玄関ホールには案の定兄たちが待ち構えていた。
「どうだった? 本当に大丈夫だったか?」
「何か無理させられてないか?」
レオニードが心配性全開で詰め寄る。
アルベルトも「無事に帰ってきてくれて安心したよ」と穏やかに声をかけてくれる。
「うん、大丈夫。本当に今日は楽しかったの」
私は、初めて本心からそう言えた気がした。
自室に戻り、窓辺に座って外を眺める。
エルネストと過ごした時間を思い返すと、胸の奥がふわりと甘くなる。
(女の子扱いされるって、こんなに嬉しいんだ……)
これまでずっと、「可愛くなりたい」と思っても自分には縁がないと思っていた。
けれど、今日の王子の優しい仕草や、私だけに向けてくれた笑顔――
それが、たまらなく嬉しかった。
夜が更けても、私はしばらく眠れそうにない。
これから自分がどう変わっていくのか、少しだけ楽しみになっていた。