第3話
朝の空気は、どこか重たかった。
アーデルハイト家の朝食の間――いつもなら静かで穏やかな食卓だが、今日ばかりは違う。
「フィオナ、昨夜はちゃんと眠れたか?」
長兄アルベルトが、やさしく私を気遣ってくれる。
その隣で、レオニードがじっと私の顔を見つめている。いつもなら軽口を叩く彼が、今朝はどこかピリピリとした雰囲気だ。
「……うん、まあ、なんとか」
「本当か? 顔色がよくないぞ。あいつ(エルネスト王子)のこと、まだ信じてないだろうな?」
レオニードが唐突に切り出した。
私は思わず手にしていたスプーンを落としそうになる。
「え? ……ええと、まだ自分でもよく分かってなくて」
「いいか、フィオナ。あの王子、本当に信用できるのか、俺はまだ納得してないからな。もし何か嫌なことがあれば、すぐ言え。お前が断るなら、俺は全力で味方するから」
その目は本気そのものだった。
私は返事に困って俯く。
アルベルトは、そんな弟を横目に静かに紅茶を口に含む。
「レオニード、お前が心配するのは分かるが……最終的にはフィオナが自分で決めることだろう?」
「兄さんは、妹が突然王子に婚約申し込まれても平気なのかよ?」
「平気ではないさ。でも、私たちが過剰に干渉しても、フィオナは余計に困るだけだ」
兄たちの会話を聞きながら、私は胸の中に温かいものと疑問が入り混じるのを感じていた。
守ってくれるのは嬉しい。でも、私は本当にこのままでいいのだろうか――そんな思いが、うっすらと芽生えはじめていた。
「なあ、フィオナ」
ふいにレオニードが声をかけてきた。いつもの軽い調子よりどこか真剣だ。
「本当に困ったことがあったらすぐ言えよ。遠慮するな」
アルベルトも私を見つめる。
「そうだな。私たち家族はいつだってお前の味方だよ。王子殿下がどれほど誠実でも、フィオナ自身の気持ちを大事にしてほしい」
私は二人のまなざしを受けて小さくうなずいた。
「うん、ありがとう。……でも、私、みんなに守られてばっかりでいいのかなって、ちょっと考えてたの」
レオニードが少しだけ困ったような笑みを浮かべる。
「妹がしっかりしてきたら、兄貴としては寂しいけどな。でも、フィオナが自分で選んで幸せになるなら、それが一番だ」
アルベルトは静かに頷いて穏やかに微笑んだ。
「どんな選択をしても私たちは必ず支える。それだけは忘れるな」
その言葉に胸がじんと温かくなった。
私も、そろそろ“守られるだけ”じゃなくて、自分で一歩を踏み出さなきゃいけないのかもしれない。
そんな昼下がりのことだった。
執事が私宛ての小さな箱と手紙を持ってきた。
「フィオナお嬢様、王子殿下からのお届け物です」
箱を開けると、中には美しい小さなブローチと淡い香りのハンカチ。
そして、流麗な筆跡の手紙が添えられていた。
『今日も君が素敵な一日を過ごせるようにと、ささやかな贈り物を。
近いうちに、またお会いできるのを楽しみにしています。
フィオナの笑顔が、僕の幸せだから――
エルネスト』
手紙を読み終えた瞬間、胸の奥がぽうっと熱くなった。
贈り物の小箱にそっと触れると、指先にまで王子のまなざしが伝わってくるようで、思わず息を飲む。
私は、誰かからこんなふうに優しい言葉と一緒に贈り物をもらうのは初めてだった。
「女の子」として扱われることにずっと憧れていた。
だけど、こうして現実に“私”を思って選ばれた品物を前にすると、不思議な戸惑いとくすぐったい嬉しさがないまぜになって、どうしていいか分からなくなる。
(本当に、私の笑顔を見たいと思ってくれているの……?)
まるで夢を見ているみたいだった。
けれど、手の中のハンカチとブローチは確かに私だけのものだ。
そっと胸に抱き寄せて小さく微笑んでみる。
廊下を歩いていると、リビングで兄たちが二人で話し込んでいた。
「王子から妹にこんな早々にプレゼントなんてな……」
レオニードが苦々しげに外を眺める。
アルベルトは落ち着いた様子で首を振る。
「そう睨まなくてもいいだろう。贈り物をするのは誠意を示すひとつの方法だと思うが」
「でも、こんな風に気軽に贈り物をするなんて、妹の気持ちも考えず押しつけてるみたいじゃないか? あいつ、妹を翻弄して楽しんでるんじゃないかと疑いたくもなる」
「エルネスト殿下が本当にフィオナを大切に思っているなら、焦らず見守ってくれるはずだよ」
「……俺は信じない。何かあれば絶対止める。俺は妹の幸せが第一だからな」
そんな数日後のこと。
またエルネスト殿下がアーデルハイト家を訪れた。
エルネストは、にこやかに現れて兄たちと私を見回す。
応接間に入るとやわらかく微笑んだ。
「こうして皆さんにまた会えて嬉しいです。突然の訪問を快く受け入れてくれてありがとう」
その余裕ある挨拶にレオニードはやや身構えながらも返した。
「……いえ、王子殿下が自らいらっしゃるとは思いませんでしたが。ご用件は?」
「もちろんフィオナと話がしたくてね。……君たちにももっと信頼してもらいたいと思っている」
「妹の気持ちを一番に考えてくれるなら、それでいいんだが」
「もちろんさ。君のお兄さんたちの気持ちもよく分かる。でも、フィオナが望むなら僕はどんなに時間がかかっても待つつもりだ」
柔らかな口調ながら芯の強さが伝わる。
レオニードは思わず食い下がる。
「フィオナが困った顔をしたらどうするんだ?」
「その時は全力で守るよ。……でも、彼女が“もういい”と言うなら、潔く身を引く。でもね――」
エルネストはそこで少しだけ意地悪く微笑んだ。
「君が“もういい”なんて、僕には絶対言わない気がしてるんだ」
「……!」
レオニードは口を開きかけて、黙ってしまう。
私はそのやり取りを見ているだけで顔が熱くなった。
エルネストがさも当然のように私の方へ微笑みかける。
「フィオナ、君とふたりで話したいことがたくさんあるんだ。……明日の朝迎えに来るよ。少しだけ僕に付き合ってくれる?」
「え……あ、はい……?」
戸惑いすぎてつい頷いてしまった私を見て、王子は満足そうに微笑む。
「ありがとう。じゃあ決まりだね。君の都合が悪くても、諦めずに来るつもりだから覚悟しておいて」
兄たちはぽかんとした顔で王子を見つめていた。
アルベルトが念のため口を挟む。
「フィオナの気持ちを最優先にしていただきたいのですが……」
エルネストはさらりと頷き、けれどその瞳には強い意志が宿っていた。
「もちろん。嫌なら断ってくれてもいい。でも僕は君の気持ちをもっと知りたい。明日楽しみにしてるよ」
そう言ってエルネストはさっそうと席を立つ。
私はあまりにも急な展開に何も考えられず、ただ頬がどんどん熱くなるのを感じていた。
こうして、明日の朝の“ふたりきりの時間”が、王子のペースであっさりと約束されてしまったのだった。
その夜、ベッドに入っても私はなかなか眠れなかった。
天井を見上げながら、昼間のこと、王子の言葉、兄たちの気遣い――いろんな思いが頭の中を巡る。
(みんなが私のことを大事に思ってくれてる。でも……私自身は、どうしたい?)
はじめて、そんなふうに自分に問いかけた気がする。
夜更け、廊下から兄たちの話し声が微かに聞こえてきた。
「……最終的には、フィオナの気持ちが一番大事なんだよな」
「だな。俺たちは何があってもあいつの味方だ」
アルベルトとレオニードの声。
私はそっと目を閉じて静かに微笑む。
(私も、自分でちゃんと選びたい)
そう心の中でつぶやいた瞬間、ほんの少しだけ胸のつかえが消えた気がした。
まだ答えは出ない。でも――きっと、私は少しずつ変わっていける。