第2話
「僕と、婚約してくれませんか?」
王子エルネストの声が大広間に響き渡った瞬間、空気が一変した。
それまで美しい音楽や貴族たちの談笑で満たされていたパーティー会場が、まるで時が止まったかのように静まり返る。
誰もが息を潜め、私――フィオナ・フォン・アーデルハイトに視線を注いでいた。
私自身、現実感がまったくなかった。あまりに突然すぎて、返事どころか何も言葉が出てこない。
心臓の音だけが、耳の奥でドクドクと鳴り響いている。
エルネストは、そんな私の手をやんわりと握りながらいたずらっぽく微笑んだ。
「そんなに驚かないで。僕が本気だって、すぐに分かってもらえると思ってるから」
その余裕に満ちた甘い声がどこか現実離れしていて、私は夢を見ているような気分になる。
会場のあちらこちらからざわめきが起こる。「あのイケメン公爵令嬢に婚約申し込み?」「王子の本命って、彼女だったの?」
貴族たちの囁き、侍女たちの驚き、誰もが次々と反応を見せるなかで、私はただ茫然と立ち尽くすしかなかった。
「フィオナ!」
我に返ったのは兄の声がしたからだった。
長兄のアルベルトと、次兄のレオニードが、顔色を変えて駆け寄ってくる。
兄たちは私と王子の間に割って入り、エルネストに向き直った。
「殿下、これは一体……。ご冗談ではないですよね?」
アルベルトの静かな問いかけに、エルネストはごく自然に微笑み返す。
「もちろん。本気だよ。君たちの大切な妹さんを僕は誰よりも大切にしたいと思ってる」
レオニードが苦い顔で、「あんた、本気で言ってるのか?」と重ねて問う。
けれどエルネストは、動じることなく私をちらりと見てからさらに一言。
「大事にするから安心してほしい。君たちのおかげで、こんなに魅力的な令嬢に育ったんだろう?」
さらりと口にする余裕と自信。
兄たちは戸惑いつつも、それ以上は何も言えなかった。
そのままパーティーは一時混乱状態となり、場の空気は完全にエルネストと私に集中してしまった。
私は呆然としながらも、心のどこかで“夢のような夜”が現実に変わっていく感触を感じていた。
――パーティー後、私は女友達に控え室へと連れ込まれる。
「フィオナ、本当にどういうことなの!?」
先に待っていたアマーリエが、興奮気味に詰め寄ってくる。クラリスも目を丸くして隣に立っていた。
「王子殿下があんな大勢の前でプロポーズなんて……すごいよ!私、一生のうち一度でいいからされてみたい!」
「いや、私だって何が何だか……。本当に夢みたい」
私は頭を抱え、鏡台の椅子に腰かける。
「私、女の子として見られたことなんて、今までなかったのに……」
「え、でも王子様、すごく本気そうだったよ?ね、クラリスもそう思うでしょ?」
クラリスは控えめに頷いた。
「うん……エルネスト殿下、すごく真剣な顔だった」
「でも私、本当に普通の女の子じゃないし、可愛くもないし……。私と婚約だなんてきっと悪く言われるし……」
「何言ってるの!“イケメン令嬢”だって、すっごく素敵なことじゃない!」
「そうそう!それに、今夜は本当に綺麗だったよ。ほら!もっと自信持って」
二人が無邪気に背中を押してくれるけど、私の心の中はまだ整理がつかない。
「王子殿下のご趣味が変わってるだけじゃないのかな……?」
私が弱気につぶやくと、アマーリエが即座に反論した。
「違う違う、絶対違う!あんな目で見てくる人、初めて見たもん!」
「わ、私も……ちょっと羨ましい、かも」
クラリスの恥ずかしそうな声に私は少しだけ肩の力が抜ける。
その頃、廊下の向こうでは王子エルネストが控えめに笑っていた。
扉越しに聞こえてくる私たちの声に、彼はそっと呟く。
「ふふ、君はやっぱり面白い子だな。――でも、そんなに悩まなくていい。僕が全部、甘やかしてあげるから」
屋敷へ帰ったのはすっかり夜も更けてからだった。
馬車の中、私は窓の外を眺めていた。
家族の屋敷が見えてくると、どっと疲れが押し寄せる。
屋敷へ入ると、すぐに兄たちと向き合うことになった。
「フィオナ、大丈夫か?」
「驚いたけど、私は……ただ、まだよく分からないの」
「そりゃそうだよな。俺も未だに信じられない。妹が突然王子の婚約者って、おとぎばなしみたいだ」
「とりあえず、今夜はしっかり休め。色々考えるのは明日でいい」
二人とも、私が混乱しているのを見抜いている。
兄たちの優しさに甘えて、私は静かに頷いた。
翌朝。
食堂で朝食をとっていると、執事がやってきて、緊張した面持ちで報告した。
「お嬢様、王子殿下の使者がお見えです」
私は手にしていたカップを落としそうになる。
「な、なんでこんなに早く……」
「フィオナ、落ち着け。王家から正式な挨拶があるということだろう」
アルベルトが静かに宥める。
でも私の心臓はドキドキが止まらない。
応接間には、エルネストが待っていた。
彼は落ち着き払った表情で、微笑みながら私たちを出迎える。
「改めてご挨拶に伺いました。昨夜は突然のことで驚かせてしまってすまない」
私の顔がまた熱くなるのを、彼はすかさず見逃さない。
「そんなに緊張しなくていいよフィオナ。君の本音も全部僕が受け止めるから」
その柔らかな口調には、なぜか甘えたくなる不思議な力があった。
アルベルトは慎重に尋ねる。
「殿下、本当に我が妹と婚約をお望みなのですか?」
「もちろん。僕はフィオナがいい。君たちの前でももう一度はっきり言うよ」
エルネストはすっと私の手を取った。その手のひらは温かくて逃げようにも逃げられない。
「フィオナ、無理に今すぐ返事は求めない。でも――もう手を離すつもりはないから。僕のそばで、ゆっくり答えを探してくれたらいい」
その言葉は、甘く、そして少し意地悪だった。
兄たちも絶句している。
私はまたも返事ができず、ただうつむくしかなかった。
エルネストは兄たちにも丁寧に挨拶をし、「これからもどうぞ、よろしくお願いします」と柔らかな笑みを見せた。
去り際、こっそり私の耳元に囁く。
「ねえ、昨夜のこともう一度言おうか?君がどんなに困った顔をしても、僕はずっと君の味方だよ」
私が顔を真っ赤にすると、エルネストは満足そうに微笑み、軽やかに去っていった。
兄たちは、「あんな奴に妹を任せて大丈夫なのか……」と未だに納得できない様子で、ため息をつく。
「でも、あいつ……本気っぽいよな」
「……うん」
私は胸の奥が妙に熱いのを感じていた。
その夜、私は一人ベッドの中で、ずっと考えていた。
エルネストの手のぬくもり、あのまっすぐな視線、耳元で囁かれたあの甘い声――
(本当に、私は女の子として愛されるんだろうか……?)
自信がない。でも、王子のあの優しさと意地悪な微笑みを思い出すと、不思議と少しだけ期待してしまう自分がいる。
「……どうしよう。私、どうなっちゃうんだろう」
窓の外の夜空を見上げながら、胸がざわざわする。
期待と不安が入り混じったまま、私はゆっくりと目を閉じた。
まだ、答えは出せない。でも――
ほんの少し、私は前を向いてみたくなっていた。