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桐嶋家は、かつて代々将軍に仕える旗本だった。今は華族となり、長男の直斗が家督を継ぐため、帝都の本宅にいる。
横浜で暮らす雄斗は、人には言えない事情を抱えてはいるが、傍から見れば自由気ままに暮らしていける次男坊で、その住まいも当然、立派であった。
「──こ、これが……雄斗さんのお家なんですか?」
馬車を降りた途端、瑠華はぱちぱちと何度も瞬きを繰り返しながら、目の前の屋敷を見つめている。
「ああ、そうだ」
そっけない返事をする雄斗だが、内心、この世間知らずな小娘でも、一応、俗世っぽい反応をするんだなと、笑いを堪えることができない。
雄斗の自宅は、横浜港から丘へと続く中腹に建てられた洋館で、”百日紅の館”と呼ばれている。
外国人居住地から離れれば、当然のように武家屋敷が並ぶ町並みに一際目立つこの洋館は、雄斗の父親である桐嶋栄一が、異国人を招くために迎賓館として建てたものだ。
設計者は、異国のやたらと長ったらしい名前で覚えていない。ちなみに”百日紅の館”は、その名の通り、庭の百日紅から由来したもの。
異国の様式を折衷しながらも、整然としている佇まいは、この辺の界隈ではちょっとした名所になっている。
しかし世間の評価はどうあれ、雄斗にとってこの屋敷は、横浜に居続けるための都合の良いものでしかない。
横浜で自由気ままに生きていけるなら、がむしゃらに働くし、桐嶋の名前すらも最大限利用する。だから、この屋敷もありがたく住まわせてもらっている。ただそれだけのこと。
「おい、瑠華。これ以上、口を開くなよ」
隣で「すごい」を連発している瑠華に、雄斗は小声で囁く。何かを警戒しているせいか、雄斗の声はかなり堅い。
それが伝染したのか、瑠華もきゅっと口を噤むと、こくりと頷いた。
「よし、いい子だ」
雄斗は瑠華の頭をくしゃりと撫でると、足音を立てずに、そっと屋敷の中に踏み入れた。
屋敷の玄関を開けると、迎賓館らしく広いホールがあり、その先に二階へと続く緩やかな曲線を描く階段がある。
階段の踊り場には、高級ながら派手さを抑えた燭台があり、人気のない屋敷でも、どこか温かさがある。
百日紅の館の家主は雄斗である。だが、なぜが雄斗は瑠華の手を引き、器用に柱や扉の影に身を隠しながら自室に戻った。
そして扉を閉めた途端、大きく息を吐いた。
「……とりあえず、見つからずにすんだか」
ほっと息を吐くと、おもむろに上着を脱ぎ、タイを乱暴に外す。そのままシャツのボタンも2,3個外すと、やっと身体の緊張がほぐれた。
こんな夜更けに年端もいかない少女を部屋に連れ込んだなんてことが、屋敷の人間に知れたら、厄介なことになる。
帝都にいる父親の耳に入ったら、最悪、呼び出しだ。面倒事をすべて放り出して、この横浜に来たというのに、帝都の屋敷で説教をくらうのだけは、ごめんこうむりたい。
窓際にある長椅子にどっさりと腰を下ろして雄斗が軽く首を捻ると、部屋の入り口から微動だにしない瑠華が視界に入った。
「何やってんだ?お前もさっさとこっちに来い」
雄斗の自室は、主の部屋らしく、屋敷の中で最も広い。しかし部屋の家具は、最低限のものしか置かれていなかった。
ベッドに長椅子。それから、執務机と椅子。あとは、備え付けの棚とクローゼットのみ。部屋を飾る装飾品は皆無である。
「悪いが、座るところはここしかねえ」
雄斗は、長椅子の背を叩いた。お地蔵と化した瑠華に、遠回しに隣に座れと言っている。
「お、おじゃまし……ます」
小さく頭を下げた瑠華は、雄斗の傍まで歩を進めたが、隣に座ることしない。躊躇いがちに、雄斗とベットを交互に見つめている。
そして、何度かそれを繰り返した後、意を決したように雄斗に身体ごと向き直った。
「あ、あの……人探しの代金というのは?……えっと、その……」
「は……?」
歯切れの悪い瑠華の質問に、雄斗は理解するのに、しばし時間を要してしまう。
「私、付け出し前で、初めてなんです。上手にできるかわかりません」
「な、なっ……!?」
主語がない訴えだが、十分に理解できた雄斗は、思わず椅子から滑り落ちそうになる。
(しまった。そういえば、ただ働きとはいかないと言ったような……ああ、言ってしまったな)
記憶を探った雄斗は、過去の自分の失言に思わず額に手を当て、天を仰いだ。
確かにそう言ったが、それは単に照れ隠しから口に出してしまっただけのこと。ぶっちゃけて言えば、報酬など何もいらなかった。
しかし、瑠華にとったら、ただ働きとはいかないと言われ、部屋に連れ込まれれば、そういうことしか思い浮かばないのであろう。
ひとまず、誤解だけは解いておこう。このまま気まずい空気で一晩二人で過ごすのは、居心地が悪すぎる。
「……そんなもん、求めてねえよ」
「あっ、そうですか」
あからさまにほっとした瑠華は、えへへと、無邪気に雄斗に笑みを向けた。何だか腹が立つ。
その気がない雄斗とて、ちょっと悔しい気持ちになるのは、それほど瑠華が愛らしい容姿をしているからである。