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冬来りなば、恋遠からじ  作者: 当麻月菜
横浜と振袖新造
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5

 あの人を縛る、見えない鎖が憎かった。あの人を自由にしたかった。

 私の<全て>であるあの人の望みは、私の願い。だから──


「こんなところ、壊れちゃえばいい」


 感情のまま、望みを言葉にした途端、私の取り巻く世界が一変した。


 水の中に浮かぶ小さな小さな箱庭のような私の故郷は、音をたてて崩れ去ってしまった。


 そして箱庭を囲っていた泉の中から湧き出たのは、希望でも救いでもなく、魑魅魍魎の数々。ああ……これは、この国の全ての悪と災いが具現化したものだ。


 壊れてしまえと願いを口にしたのは私だったけれど、その有り様を見た途端、自分のしでかした罪の重さに打ちのめされた。


 けれど魑魅魍魎は待ってはくれない。見境なく辺りを黒い霧に染め尽くし始めている。


「振り向くな、瑠華。ここは、俺が引き受けよう」 


 あの人はそう言って、あの忌々しい場所に、一人で残ってしまった。黒い霧の浸食を、少しでも留めるために。


 それでは、意味がない。あなたを自由にしたかったから、私は願ったのに!


 地団太を踏みたくなる衝動に駆られるが、あの人の言葉は<絶対>だ。行けと言われれば、足が勝手に動くし、振り向くなと言われたら身体は前しか向けない。


 私はあの人に言われた通り、歩き続ける。でも本当は、願いを口にしたことを後悔している。一年以上経った今でも、ずっと後悔し続けている。


 ずっと傍にいたかった。半身を引きちぎられる痛みで、心が壊れそうだった。


 けれど、私には使命がある。あの人の願いを具現化するために、私にしかできないことがある。そして時間は、限られている。


 だから、おいそれと絶望することも、簡単に捨てられる命も持ち合わせていない。


『お前、横浜だから、足抜けしたのか?』


 助けてくれた青年──雄斗さんにそう尋ねられて、私は何と答えていいかわからなかった。


 雄斗さんには感謝の気持ちはあるし、いい人だとも思う。でも、今、出会ったばかりの彼らを信じて、全てを打ち明けてもいいのだろうか。


 話す相手を間違えたら、大変なことになる。私を逃がしてくれた姐さまにまで、被害が及んでしまう。それだけは絶対に避けなければならない。


 色が消えた世界で、最初に私を救ってくれたのは、高級遊女の高緒姐さんだった。


 齢十五では、仕込みに間に合わないと、どこの置屋でも私を引き取ってくれる見世はなかった。残るのは、吉原でも底辺の切見世だけ。


 そんな中、高緒姐さまだけが、私に手を差し伸べてくれた。


『待ちなんし。その娘、わっちが貰いんす』


 最後の最後に廻った、吉原の中でひと際大きな大見世、朱緋楼。高緒姐さまは、そこで最高位の太夫であった。


 楼主も内儀も、誰もが私を要らないと首を横に振る中、ただ一人、高緒姐さまだけが、私を受け入れてくれたのだ。


 慌てる楼主が、高緒姐さまに問いただすと、姐さまは艶やかに笑ってこう言った。


『その娘、わっちが昔飼っていた猫に似ていんす』


 姐さま以外の全員が啞然とする中、私は高緒付きの新造として、人探しの第一歩を踏み出せたのだ。


 そして一年以上もの間、穏やかに時は過ぎていった。けれどひと月前、状況が一変した。


『瑠華、逃げなさい』


 吉原の紋日である八朔が終わった、八月の始めの晩のこと。


 姉さまは揃いの衣装である白無垢姿のまま、私にそう言った。いつもの優雅な郭言葉ではなく、姐さまの本当の言葉で。


『あんたの付け出しが決まったんだ……。そうなってしまったら、もう逃げられなくなってしまう』


 そう言うと、姐さまは私の手を強く握りしめた。


『横浜に行く計策をたててあげる。あんたは、私の名代としてそこへ行き、隙をついてお逃げなさい。……絶対に絶対に、捕まるんじゃないよ』


 姐さまの顔は、今までにない程、真剣だった。


 その後起こりうる全ての出来事を、覚悟した表情だった。


 有難い話だと思ったが、私は姐さまに甘えることなんてできない。足抜けした振袖新造の責任は、姐さまがとるのが決まり。その責任は、命に関わることになる。


 一年以上もの間、花魁の末路を見てきた私は、是と頷くわけにはいかない。それなのに姐さまは、畳み掛けるように続ける。


『よく考えてみな。あんた、ここが何処だかわかっている?』


 諭すような問いに、はっと息を呑んだ。ここは殿方が、多く集まる場所。そしてお金で女を買う場所。その目的以外では、男性は門をくぐることはない。


『遊郭なんだよ、ここは。あんたの探している男は、こんなところに来るヤツなのかい?』


 その言葉はまさに、ものすごい勢いで始発点に戻るものだった。目的地に進んでいたつもりが、まったく別の方向に進んでいたようだ。


 姐さまの言う通り、私のいる場所は、ここではない。でも姐さまは、残酷だ。私は、そんなの気付きたくなかった。また独りになるのが、どうしようもなく怖い。


『ははっ、あんた、なんて顔をしてるのさ』 


 私は、よほど情けない顔をしていたのだろう。いつの間にか、姐さまの衣を掴んでいた私の手に、姐さまの手が重なる。とても暖かい。


『勘違いするんじゃないよ、あんたは前に進むだけさ。あんたと私の絆は切れない。心はずっと傍にいるよ』


 穏やかな姐さまの笑みに背を押され、私は横浜に到着した途端に、隙を見て逃げ出した。


 そんな経緯があるから、安易に全てを話すことなどできないのに、目の前の雄斗さんは、やたらと探し人について聞いてくる。


(困ったなぁ……私も、わかんないんだけど……)


 なぜなら探し人は、私が()()()()()いけないから。


 それでも、助けてもらった恩はある。恩を仇で返すわけにはいかないが、着の身着のまま逃げ出した私には、残念ながら謝礼を渡せる金品は持っていない。


 せめて誠意で返そうと一生懸命、雄斗さんの質問に答えたのだが、彼は何とも言えない表情になっていった。


 例えるなら、隙間に頭を突っ込んで身動き取れなくなった子犬を見るような目だ。なんでだろう。

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