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事務所の扉を開けると、カランコロンと、相変わらず間抜けな鐘の音が響く。
雄斗は、手すりを支えに階段を上り、二階の仕事場に向かう。
微かに聞こえる物音。話し声が一切ない静寂に満ちた空間。それは、瑠華と出会う前の日常に戻ったかのように見えた。けれども──
「おはようございます」
鐘の音を聞いて、ひょっこり顔を出したのは、佐野ではなくて瑠華だった。それだけでも驚きだが、瑠華の格好は黒いひざ丈のワンピースに、フリルたっぷりのエプロン姿だ。
「お、お前……なんて格好してるんだよ!?」
顎がはずれるほど驚いた雄斗に、瑠華はにっこりと微笑んだ。
「似合いますか?」
「に、似合う……すごく似合ってる。ん?いや待て、そうじゃなくってだな!」
「えへへっ、嬉しいです」
満面の笑みで瑠華がくるりと回ると、スカートが広がり、膝が露わになる。
(やめろ、朝っぱらから何てものを見せてくれるんだ!)
こちとら魔物退治と失恋で、肩と心に、二重で傷を負っているんだ。
それなのにこんな刺激的なものを見せられたら、理性が崩壊してしまうと、雄斗は慌てて顔を背ける。そこには、佐野がいた。
「おはようございます、雄斗さん。そんな無理な姿勢をして……寝違えちゃったんですか?まぁ、とにかく、こんなところで突っ立ってないで、中へ入ってくださいな」
「い、いや……待て。待ってくれ。その前に、この状況を、せ、説明……してくれよ」
動揺を隠すことができない雄斗に、佐野はカラカラと笑う。
「ははっ。どうもこうも、見たまんまですよ。あれ?荘一郎さんから聞いてないですから?ケイズック殿のお妾さんとこの女中さんが、急に里帰りすることになって、その間、瑠華さんに手伝いに行ってもらってたんですよ。瑠華さんがあまりに優秀すぎるもんですから、ケイズック殿が報酬とは別に、この衣装を贈られて……ね?」
同意を求められた瑠華は、エプロンの裾を広げて口を開く。
「はい!ケイズックさんの国では、女性が働くときは、これを着るそうなので……私も真似しちゃいました」
ふんすっとドヤ顔を決める瑠華は、殺人級に可愛らしいが、雄斗の心情は複雑だ。
(めっちゃ近くにいた!)
ちょっと前に、絶対に探すと意気込んだ自分が、死ぬほど恥ずかしい。それにしても、荘一郎は随分と意地が悪い。なんで、所用で外出中と告げなかったのだろう。
いや、そうじゃない。もっと詳しく荘一郎に問いただす勇気がなかったことが、最大の敗因なのだ。
きっと今頃、千代と荘一郎は、肘を突き合いながら、生ぬるい笑みを浮かべているのだろう。
「あーそうか、そうか。ご苦労だったな、瑠華」
子犬のように曇りなき眼を向ける瑠華の頭を撫で、雄斗はよろよろと席についた。けれど次の瞬間、椅子から落ちそうなほど驚いた。
「ぶにゃー」
雄斗の机には、一匹の毛並みが縞模様の猫がいた。
尻尾と耳があるので、辛うじて猫と判別できるが、通常の猫より縦にも横にも二倍は大きい。丸々としたその猫は、雄斗の机をほとんど占領している。
しかも、ふてぶてしい表情でこちらを見上げる猫は、お世辞にも可愛いとは言えず、はっきり言ってブサイクだ。
「なっ何だこれは!?」
「あっ寅吉!こっちにおいで」
「寅吉だと!?」
愕然とする雄斗を見て、瑠華は困った笑みを浮かべた。
「ごめんなさい……雄斗さん。この猫、いつのまにか居着いてしまって……」
瑠華は一旦言葉を区切ると、丸々とした猫を持ち上げた。
しかし大きすぎたのか、重すぎたのか、瑠華の力では完全に持ち上げきれず、ブサ猫は中途半端に、にょーんと伸びている。
「昔、傍にいてくれたのにそっくりなんです。あの……このまま……飼ったら……駄目でしょうか?」
悩殺ものの瑠華の上目使いに、思わず頷きたくなる雄斗であったが、なんとか堪えた。
「考えておくから……ちょっと佐野さんの手伝いをしてこい」
お茶の用意をしているはずの佐野の方へと顎で示す。瑠華は後ろ髪を引かれつつ、階下へと消えて行った。
雄斗は瑠華が消えたのを確認すると猫を机に押し倒し、背の部分の毛をかき分ける。
(やっぱり、お前か!)
猫の背には、はっきりと刀傷が残っていた。間違いない。この猫はつい先日、雄斗自身の手で魔霧を祓った妖──寅吉だった。
そうと分かった途端、雄斗の目つきが変わる。
「おい、化け猫、三味線にされたくなかったら、せいぜい猫のふりしてろよ」
寅吉の首根っこを掴んで、雄斗は唸るように囁く。
「にゃ……にゃぁーん?にゃ、にゃー??」
思わず、どこから声を出しているんだとツッコミたくなるような寅吉の鳴き声に、雄斗は満足げに頷いた。
「雄斗さん、お待たせしました」
図ったかのように、佐野の声が背後から聞こえ、雄斗は何事もなかったかのように席に着く。
「はい。雄斗さん。冷めないうちにどうぞ」
と言って雄斗に差し出したのは、なんと紅茶である。佐野が頑として、雄斗のリクエストに答えなかった、あの紅茶である。
「さっ…佐野さん、これは……」
「紅茶です。あちゃー……今日の気分はこれじゃなかったですか?」
額に手を当てがっかりする佐野に、雄斗は、いやいや違うっ。めっちゃコレの気分だ!と伝えるために首を横に振る。
「そうですか。良かった良かった。おかわりをご希望でしたら、いつでもおっしゃってくださいね」
笑顔を取り戻した佐野は、雄斗に背を向けこの場を去る。
それをぼんやりと見ていた雄斗が脱力して、雄斗が椅子に背を預けた瞬間、人を小馬鹿にする声が背後から聞こえた。
「な?言っただろ。ご褒美は別にあるってさ」
(どれだよ!)
瑠華との再会なのか、それとも念願の紅茶なのか。まかり間違ったとしても、ブサ猫ではないと思いたい。
眉間に皺を寄せる雄斗だが、佐野と瑠華には充芭の声は聞こえなかったらしく、二人そろって、訝しそうにしている。
「別に……なんでもねえよ」
ぶっきらぼうな口調でごまかしながら、雄斗は紅茶をすする。非常に、美味である。
(まあ、どれでもいいか)
自分は、一人の少女に恋をして、数多の難儀を抱え込んだ。しかし、失ったものは何もない。
これから先のことに不安がないといえば、嘘である。しかし、どうということはない。できる事を一つ一つ片付けていけばいいだけのこと。
まず、最初に片づけたいことは、これだ。
「瑠華、すまなかった」
書類を両手で抱えて通り過ぎようとする瑠華に、雄斗は立ち上がると深く頭を下げた。
「……え?あの……??」
困惑する瑠華は、まったく理解できていない。
「俺は、魔祓師だということも、傷のことも隠していたし、お前を傷つけることを言った。それを謝りたい。すまなかった」
「え?あ、そ、そうですか」
二度目の謝罪も、手ごたえは悲しいほどなかった。
「……この程度で許してもらえるとは、思わないが……それでも──」
「待ってください、雄斗さん。私、怒ってないですし、雄斗さんが謝る必要もないような気がするんですが」
「いや、普通にあるだろ」
つい突っ込みを入れてしまった雄斗に、瑠華はクスクスと笑う。
「いいですね、それ。なんか、やっといつもの日常に戻ってきました。へへっ、嬉しいな」
花が咲いたように笑う瑠華と、小さな唇が紡いだ言葉は、謝罪を受け入れてくれる言葉より、もっといいものだった。
「ありがとな」
「え?あ、ど、どういたしまして」
ぺこっと頭を下げる仕草も、たまらなく愛らしい。雄斗は勇気を出して、もう一歩だけ距離を縮める。
「実はな、俺、傷がまだ完治してないんだ。だから、今日は早く帰らないといけないんだ……なぁ、瑠華。良かったら」
「はい!任せてください。雄斗さんと一緒に夕ご飯を食べれるなら、私、頑張ります!」
雄斗が言い終える前に、瑠華は自信満々に言い切った。彼女にとって、一緒に百日紅の館に戻るのは、当たり前のことらしい。
「ははっ……頼りにしてる」
あまりに嬉しくて、どうにかなりそうで、雄斗は片手で顔を覆って窓に顔を向けた。
北風を受け、窓のガラスがカタカタと鳴る。本格的な冬到来で、これから身を切るような寒さが待っている。
しかし冬来りなば、春遠からじ。凍てつく季節が来れば、雪解けはもう目前。若葉が芽吹き、胸躍らせるこの季節は、恋の季節でもある。
穏やかな冬の日差しが差し込む中、紅茶を飲み終えた雄斗は、袖をまくると、積み上げられた書類に手を伸ばす。
「さて、仕事だ、仕事!」
いつもと変わらない銀杏堂の一日が、始まった。




