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『お前、どうしたんだ?』
初めて来た横浜の路地裏で、怖くて不安でうずくまっていたら、突然、男の人に声をかけられた。
反射的に顔をあげると、そこには不思議な恰好をした青年がいた。
『……逃げたいのか?』
すばやく周囲を警戒した後、青年はそう私に問うた。
なりふり構わず頷いたら、厚い布に覆われ、悲鳴を上げる間もなく身体が宙に浮く。
『大丈夫だ、安全なところまで逃がしてやる』
青年はそう囁くと、私を肩に担いだまま、疾走した。
そして青年のいう通り、私は安全な場所を与えてもらった。
けれど私は、彼の人の良さにつけこんで、厄介事に巻き込んでしまった。それなのに──
『ああ、また逢えたな』
魔霧の苦痛で、現実に引き戻されたら、私の視界に彼が映り込み、優しい言葉をかけてくれた。微笑む彼を見て、私は嬉しかった。とても、とても。
それから、懐かしい夢も見た。あの人の傍にいた、もふもふした可愛らしい妖たち。もう二度と会えないはずなのに、変わらぬ姿でそこにいた。
(ああ……夢なら、どうか覚めないで)
願う気持ちとは裏腹に、私の意識は覚醒してしまった。
「瑠華さん、良かった。目を覚ましてくださって……」
薄暗い部屋の中、荘一郎さんが心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「……ここは……どうして?私……」
外で意識を失ったはずなのに、百日紅の館の自分の部屋で寝かされている。
状況がわからずオロオロする私に、荘一郎さんは雄斗が運んでくれたと教えてくれた。信じられない。
驚愕する私を見て、荘一郎さんがどう思ったのかわからないが、安堵した表情から、困り顔になった。
「……瑠華さん、夜中の散歩は感心しませんよ」
「あ……ごめんなさい」
咄嗟に謝ってしまったが、言い訳ぐらい聞いてほしい。そう思ったけれど、荘一郎さんの方が先に口を開いてしまう。
「どうしても散歩に行きたい時は、屋敷の者と一緒にお出かけください。あっスー・山田はいけません。それ以外でお願いします」
「スー・山田さんは、どうして駄目なんですか?」
「素行が悪いからです」
容赦ない評価を荘一郎さんが下せば、頭の中にいるスー・山田さんがしょんぼり肩を落とした。元気を出してほしい。
……違う、違うっ。私はスー・山田さんに同情している場合ではない。
「荘一郎さん、雄斗さんは?」
私の言葉に、荘一郎さんは小さく首を振った。
「雄斗は今、ちょっと野暮用で外出しています。すぐに帰ってきますから、今はお休みください」
荘一郎さんの口調は、とても穏やかなのに、凄く嫌な予感がする。それは、あの時と同じ大切なものが消えてしまう感覚と同じだった。
「い、嫌です。私、会ってお願いしたいことがあるんです」
落ち着いてと、両肩を押さえ込む荘一郎さんを振り切り、私は身を起こす。たったそれだけで息が切れるが、今はそんな事はどうでもいい。
「雄斗さんを連れ戻してきます。何処へ行ったか教えてください」
縋りつくように訴えたら、荘一郎さんの表情が変わった。
「落ち着いてください。巫女さま」
”巫女”という言葉に、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
「どうして……それを?」
青ざめる私に、荘一郎さんは苦笑を浮かべ、懐からあるものを取り出した。
「なんで知っているかといいますと……私も、一応、魔祓師なんですよ」
荘一郎さんが手にしていたのは、雄斗さんと同じ裏山桜の家紋が刻まれた懐剣。しかしまったく同じではない。荘一郎さんの懐剣には、凌霄花の蔦も刻まれている。
数少ない私の知識でも、その紋が何を意味しているかわかっている。
凌霄花は、蔓が空に向かって伸びて行く様が、天を支えているようだと言われている。そして、その紋を持つ者は、この国を支えるに値する者の証。
荘一郎さんは、高位の魔祓師で、常盤の結界の秘密を知る数少ない一人だった。
そうか。荘一郎さんは、私に会った瞬間から、全てを理解していたのだ。
「荘一郎さん……どうして何も訊かずにいてくれたんですか?」
私の問いかけに荘一郎さんは、何も言わない。
けれど常盤の結界が破れたことも、私が要の巫女だということも知っていて、受け入れてくれたことは間違いない。
私と関われば、何かしらの危害が及ぶこともわかっていたくせに。
「雄斗さんを巻き込んで、ごめんなさい……」
荘一郎さんとって、雄斗さんはかけがえのない存在だ。荘一郎さんと雄斗さんには、二人だけの長い歴史がある。私はそれを知らず、知ろうともせず、雄斗さんを厄介事に巻き込んでしまった。
私は雄斗さんを失いたくない。けれど、荘一郎さんは、もっと雄斗さんを失いたくないに決まっている。
そんな私の心を読んだかのように、荘一郎さんは静かに首を横に振る。
「大丈夫です。雄斗は消えたりしませんよ」
「……本当に?」
もっと確証が欲しくて、私は荘一郎さんの腕を掴む。
「本当です。何も心配することはありません。雄斗はすぐに帰ってきますよ。それまでに、元気になっておきましょう」
荘一郎さんは、そう言うと私をゆっくりと横たえた。そして、片手で私の両目を覆う。
「今は、ただ眠ってください。目が覚めたら、雄斗は戻ってきてますよ。あなたが不安になることは何もないです。それに……」
含み笑いをした荘一郎さんは、こう付け加えた。
「彼は一人ではありませんから」




