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「行ってしまいましたね」
雄斗が屋敷を出ると、荘一郎とは別の人影が、柱の陰から現れた。
「そうですね。やっと重い腰をあげてくれました。ところで、あなたの目には、どう映りますか?……佐野さん」
荘一郎がゆっくりと振り返った先には、銀杏堂の従業員である佐野がいた。
「おやおや、あなたからさん付けされる日が来るなんて……時代は変わったのですねぇ」
佐野は目を細めて、荘一郎を見る。その笑みは、銀杏堂での笑みとは別のもの。
「わたしも驚いていますよ。まさかあなたと、こんな風に肩を並べるなんて」
荘一郎も苦笑を浮かべる。
二人の間に、不穏な空気が流れる。だがそれは一瞬のことで、二人は同時に吹き出した。
「ははっ、駄目ですね。ついつい、あの頃の感覚が抜け切れてなくて」
佐野は、荘一郎に同意を求めるように、肩をすくめた。その表情は、懐かしさと、仇敵との再会で複雑なものだった。
荘一郎といえば、まさにそうだと言いたげに大きく頷く。
「あの頃、お互い顔を見れば、死ねや殺すと言っていたのに……今じゃ二人そろって、バカ親よろしく雄斗さんの心配をするなんて、本当に時代は変わりましたよね」
この二人、過去の動乱においては攘夷派と開国派に分かれ、暗殺者と魔祓師として相対する存在だった。幕末の動乱の最中、この二人は、暗器と術で随分語り合った仲である。
国を護りたいという志は、同じだったけれど、互いの溝は深く、決して埋められないと思っていた。しかし今、彼らは肩を並べて、同じ想いを抱いている。
時の流れが、彼らの溝を埋めたのか、それとも一人の青年を挟むことによって、和解できたのかはわからない。
ただこの先、どんなことがあっても、武器を向け合うことはないだろうと誓える。
「荘一郎さん、あなたはちょっと私を買い被りすぎてます。私が見えるのは、一寸先のことだけ」
佐野は一旦言葉を区切ると、眼鏡を外して、荘一郎に微笑む。その表情は、剣呑さが消え、いつもの穏やかな佐野だった。
「この力が何の役にも立たないと、絶望したこともありましたが……捨てたもんじゃないですね」
佐野の瞼の傷は、かつて自分の不甲斐なさに絶望して、自ら傷つけたもの。
奇跡としか言いようがないほんの僅かなずれで、佐野は光を失わずに済んだが、そのことに再び絶望したのは、もう過去のこと。
「見えますよ。雄斗さまの明るい未来が」
佐野には先見の力があるが、ほんの一寸先のことしか見えない。
銀杏堂の仕事に就いて佐野が学んだことは、誰もがその忠告に耳を傾けてくれるとは限らないということ。
だから佐野は、見えるものより、信じる未来の方がずっと真実味があると確信している。
ちなみに今回、佐野が見えたのは、少し騒がしくなった銀杏堂の光景。これが明るい未来だと言わずになんと言おう。
しかも未来の自分は、我ながら信じられない行動を取っている。
「……まぁ、未来の私がそうしてるなら……やって差し上げましょうかね」
「ん?急にブツブツ言い出して、どうされましたか?」
「いえ、ちょっと荘一郎さんにお願いしたいことがあるんですが、どう切り出せばいいのか悩んでましてね」
「え?わた……私に?な、な、何でしょうか」
顔を引きつらせながら続きを促した荘一郎に、佐野は深々と頭を下げ、願い事を口にした。
「荘一郎さん、どうか私に紅茶の淹れ方を教えてください」
◇
荘一郎が佐野の願いを承諾した頃、雄斗は黙々と目的地である教会に向かっていた。
虎もどきの魔物は、瑠華の気配を追って、街を徘徊しているはずだ。師匠である荘一郎ならきっと、銀杏堂にも瑠華の気配を消すために結界を張っているだろう。
そうなると、瑠華の気配が残る場所は、教会しかない。
「──おい充芭、遅いぞ」
雄斗は振り返ることなく、苛立った口調で言い放つ。
「遅れたわけじゃねえだろ。細かい男は嫌われるぞ」
背後で憎まれ口を叩くのは、妖なのか神族なのかいまいちわからない男、充芭。
勢いで手を貸せと言ったが、こいつと上手くやれるのか、雄斗は少々気に掛かる。しかし今、自分の手元にある札は節操無しの妖のみ。勝ち目は……ゼロに等しく、あとは運次第。
巷では、運も実力の内と言われるが、今回は運も見方につける位の気合いがなければ、あの魔物を祓うことは無理だろう。
教会の敷地に入ると雄斗は足を止め、目を細めた。眼前の教会は、静寂に包まれている。
(よその神様にとったら、所詮、他人事なんだろうな)
魔祓師の法衣をまとっている雄斗は、教会からすれば完全によそ者だ。しかし、拒むこともしなければ、受け入れる気配もない。
その事実に、何だか肩の力が抜けたような気がした。
(まぁ神様、ちょっとここらが騒がしくなるが、大目に見てくれ)
海の向こうからやってきたとはいえ、仮にも神様だ。一言断ってから、雄斗は両手を組み合わせ、複雑な印を結んだ。
「開け、爾余の門。我に釁隙の道へと導け」
意識を集中して詠唱する。これは、現と異界の狭間に空間を作る術。
この横浜で、魔物退治を始めたら、街は大騒ぎになるだろう。さすがに桐嶋の名を使ったところで騒ぎは収まるはずはない。
雄斗が詠唱を終えると、横浜の街は僅かに歪み、宵闇に藍色を刷いたような空間が広がった。
「これで、よし。次は……おい、充芭」
隣で事の成り行きを面白そうに眺めていた充芭に向かって、雄斗は腰に差していた懐剣を放り投げつける。咄嗟に受け止めた充芭は、意味が分からないと言いたげに首を傾げた。
「なんだ?護身用に貸してくれるのか?以外に気が利くな」
「そんなわけねえだろ」
図々しい充芭の言葉を打ち消すと、雄斗は港の方に向かって顎をしゃくった。
「お前、コレ持ってとりあえず徘徊してこい」
「………………はぁ?」
充芭は益々意味が分からないと言いたげに、首の角度をより深くした。
「察しが悪いな。ったく、お前が囮になれって言ってるんだ。魔物をこっちから探すより、向こうから出てきてくれたほうが手っ取り早い」
結界を張った空間は、街全体がぼやけてしまい、心眼の効力が弱くなる。
やみくもに結界の中を走り回るより、懐剣を囮におびき寄せたほうが効率的だ。充芭は貴重な手札なのだ。この際、しっかりと働いてもらおう。
そう、これは、さんざんからかわれた意趣返しではなく、効率的な作戦なのだ……という体を貫く雄斗だが、その口元には黒い笑みが浮かんでいる。
「自分から手を貸すと言ったんだ。今さら、嫌とはいわねえよな?ほら、さっさと行け」
未だ動かない充芭に向かって、雄斗はしっしと犬を追い払うように手を振る。
「……まったく、この俺様に命令するなんて、二人といないと思ってたがな」
不服そうな表情を浮かべながらも、充芭は港の方角へ飛び去った。




