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夜半となっても雨は、さあさあと降り続いている。
雄斗は単衣に着替えると、禊を始めた。晩秋の井戸の水は、全身が強張るほどの冷たさだ。
長い前髪を払いながら部屋に戻ると、長椅子に式服が一式用意されていた。用意したのは、おそらく荘一郎だ。
(なんでもお見通しってか)
雄斗は苦笑しながら、黙々と着替え始める。
魔祓師の法衣は、今も昔も墨色と決まっており、”何色にも染まらない、強い意志”を表している。
着替えを終えた雄斗は、テーブルに放り出したままの脇差を一瞬見つめ、腰に差す。髪は邪魔になりそうなので、前髪も一緒に、うなじで一つに結ぶ。
身支度を整えている間、充芭は一度も姿を現わさなかった。
瑠華の部屋に居るのだろうか、それとも他の何処かか。
(……勝手にしろ)
雄斗は毒づいた後、軽く首を振った。
もし充芭が瑠華の元にいるならば、彼女はきっと幸せな夢をみていることだろう。なにせ、愛しい男が傍にいるのだから。
未だに悔しい気持ちは消えないが、それでも今更、相思相愛の二人の間に割って入るような野暮な真似をする気はない。
大きく息を吸い込み、気持ちを切り替えた雄斗は、静かに部屋を後にした。
一階へと降りると、館の一番奥の部屋へと雄斗は進んだ。
百日紅の館は西洋建築だが、一室だけ和室がある。雄斗は和室の襖を開けると、無言で鎮座する。
目の前には、祭壇に奉られている太刀──冥鈴斬。
瑠華が魔物から取り戻した脇差と対になる太刀であり、師匠から譲り受けたもの。魔物を打ち払うことができる、退魔刀でもある。
使いこなすことができればその名の通り、刃から清らかな鈴の音が鳴ると言われているが、残念ながら雄斗は、その音を耳にしたことがない。
(まさか、この太刀を再び手にすることになるとは……な)
雄斗は自嘲気味に顔を歪めた。
癒えたはずの胸の傷が、鈍く痛む。全身が、この太刀を手にするのを、拒んでいるかのようだ。
「……それでも、決めたからな」
自分に言い聞かせるように呟きながら、冥鈴斬を手にして、ほんの少しだけ鞘を抜いた。
鈴の音は聞こえないが、刃は暗がりでも、青白い輝きを放っている。
(大丈夫、怖くない)
太刀の重さが、もう引き返せないことを実感させるが、不思議と恐怖はなかった。
なんてことはない。心を決めれば、魔祓師に戻ることは、そんなに難しいことではなかったのだ。
和室を出て、雄斗が外に出ようと玄関扉に手をかけた瞬間、荘一郎の声が背後から聞こえた。
「行かれるのですね。雄斗さま」
振り返った雄斗は、何も言わずに頷いた。
どこにとも、何をしに行くとも言わない。けれどもその静かで揺るぎ無い雄斗の瞳は、雄弁に語っている。
全てを悟った荘一郎は、穏かに微笑んだ。
「そうですか。お気をつけて」
「ヘタレ法師じゃ、どこまでやれるかわからなねえけどな」
自虐的なことを言う雄斗に、荘一郎はそんなことはないと首を横に振った。
「私は、あなたを一度もヘタレだと思ったことはありませんよ」
その言葉に雄斗は、はっと息を呑んだ。
「あなたは誰よりも優しい。だからこそ、人の痛みや苦しみを多く受け止めてしまい、悩んで、足を止めてしまうのです。でも、それでいいんですよ」
かつての師匠はそう言うと、弟子の左胸に手をあてた。そこには、弟子の古傷がある。
「雄斗、怖がらなくていいのです。これから向かう先で迷ったとき、いつでもどんなときでもあなた自身でいなさい」
久しぶりに師匠の言葉を耳にする。その口調は穏やかなのに、胸深くまで響く。
「そして見失いそうなときは、自分のかけがえのないものを暗闇に示しなさい。そうすれば必ず、光を見失わずにいられるでしょう」
「……師匠」
雄斗はそれ以上、言葉が続かず、きつく唇を噛み締めた。師匠と呼ばれた荘一郎は、困り顔になる。
「その名は、捨てました。私はあなたの執事、桂木荘一郎です」
雄斗が胸に傷を負ってから、荘一郎は雄斗の師匠であることを辞めた。いや、辞めざるを得なかった。
魔祓師の最大の禁忌である、魔霧の元凶である人間を斬ってしまったから。雄斗を守るために一線を越えてしまったのだ。
魔祓師は、揺るぎない志で魔霧を祓わなければならない。しかし荘一郎は、私情を挟んでしまった。
道を外してしまった彼は、たった一人の弟子を救うために、これまで築いてきた地位と、これから先、得られるであろう功名を失ったのだ。
なのに、なぜこの人の目は、こんなにも凪いでいるのだろう。
「俺、ずっと師匠に……謝りたかった。ごめん。それから……ありがとう」
全てを捨てて助けてもらった自分は、師匠の期待に応えることのできないヘタレ法師になってしまった。
けれど師匠は一度だって、責めることはなかった。ただ黙って、千代と一緒に横浜についてきてくれた。
千代は、気丈にしているが、実は重い病を抱えている。残された余命を、穏やかに過ごしてほしいと、願いつつも、こうして傍にいてくれることを有り難いとも思ってしまう。
そんな矛盾する気持ちに折り合いを付けることができず、ずっと目を逸らし続けていた。
二人の何も言わない優しさが雄斗にとって、唯一の心の拠り所であり、最も向き合うのが怖かった。
「もういい加減、自分を責めるのはやめなさい。私は何一つ、後悔していないのですから」
荘一郎はそう言うと、雄斗の額に自分の額を当てた。懐かしい仕草だ。雄斗が幼い頃、こうして何度も諭され、励まされ、勇気をもらっていた。
「……ああ」
それ以上、言葉が出なかった。縁とは不思議なものだ。瑠華と出会ってから、こじれていた縁が解れ、より深い絆となっていく。
我知らず、熱いものがこみ上げてくる。
「あなたは、あなたのやり方で進みなさい」
荘一郎は、やっと前を向き始めた弟子にむかって、優しく微笑み、玄関の扉を開けた。
「行ってらっしゃいませ。雄斗さま」




