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音もなく姿を現わした着流し姿の青年は、銀髪に泉のような紺碧の瞳を持ち、雄斗より少し年上に見える。
「気付くのが遅せえぞ。坊や」
「黙れ。誰が坊やだ、この野郎」
小馬鹿にするようにこちらを見下ろす青年は、噛み付くような雄斗の口調も、険を孕んだ双眸すら軽く受け流し、口の端を少し持ち上げた。
着流しの男。夢と寸分違わぬ姿。この男こそが、瑠華の想い人──充芭。
「妖なんぞに、坊や呼ばわりされる覚えはねえよ」
恋敵に、精一杯虚勢を張ってみた雄斗を、充芭はフッと鼻で一笑すると、瑠華を覗き込んだ。
「まったく無茶しやがる」
愛おしそうに瑠華の頬を撫でる充芭から、深い愛情が痛いほど伝わってきた。二人の間に入り込む余地なんて、どこにもない。
敵うわけがないのは、わかっている。それでも心がイラつくのは仕方がない。
「無茶するなって言うぐらいなら、お前が助ければ良かったじゃないか」
吐き捨てるように呟く雄斗に、充芭は瑠華から手を離して腕を組む。
互いに無言のまま、時が過ぎていく。いつまで絶っても、問いに答えない充芭に対して、雄斗はしびれを切らした。
「お前、ずっと瑠華の傍にいたんだろ?何で……何で、今回だけは、瑠華を護ってやんなかったんだよっ」
雄斗はあの夢を見たときから、薄々気付いていた。
瑠華が奇跡的と言えるほど、あり得ない状況で横浜までたどり着いたのは、全て充芭が鍵となっていたはずだ。
「しょうがねえだろ、あいつが俺を呼ばなかった」
「はぁ?」
「名を呼ばれなきゃ、助けようがない」
適当な言葉で、はぐらかしているのであろうか。どこまでもこの妖は、人をおちょくりたがる。
それならばと、雄斗は早口で捲し立てた。
「今考えれば、全てが都合良く出来過ぎているんだよ。常盤の結界から姿を消した要の巫女。間違いなく追っ手が来るはずだ。その巫女……瑠華を安全な場所に匿うなら、郭はうってつけだよな?そして、お前は全てを知っていて瑠華と俺を引き合わせた……違うか?」
郭というのは、良く考えたもんだと雄斗はある意味、感心する。このご時世、過去を口にしたがらない遊女などいくらでもいる。そして客も、見世も、その事を弁えている。
充芭は、瑠華を追っ手から隠しつつ、隙を見て横浜まで連れ出したのだ。
どうやってやったのかは、わからない。だが、人ではない異形の存在ならば、人知を超える方法を知っていてもおかしくはない。
「へぇー……なるほど。さすが、瑠華が選んだ男だけあるな。頭の出来は、そう悪くはなさそうだ」
ふむ、と充芭は腕を組んだまま頷いたかと思えば、堪えきれないように、くっくと喉を鳴らす。
その余裕綽々とした態度に、雄斗は更に鋭く充芭を睨み付けた。
「答えろよ。この妖がっ」
噛み付くように声を荒げながら、雄斗は充芭の胸倉を掴もうと腕をのばす。だが、寸前のところで充芭に避けられ、反対に雄斗が胸倉を掴まれてしまった。
「そうカッカすんなよ、坊や。俺は褒めてやってるんだ」
雄斗の耳元で囁く充芭の声音は、睦言を囁くように甘い。けれどもその瞳は、苛立ちと怒りを含んでいた。
きっと、充芭も己自身に悔しさを抱いているのだろう。
姿こそ見せてはいないが、瑠華の傍でずっと見守っていたのに、こんな結果になってしまったのだから。
そんな男をこれ以上責め続けても、追いつめるだけ。何も得るものはない。
「す、すまねえ。八つ当たりをした」
雄斗は溜息をついて、うな垂れる。
怒りの色を滲ませていた充芭は、その言葉を聞くと目を丸くする。
「お前、おもしろいな。気に入った。瑠華がお前に懐いたのも良くわかる」
充芭は、雄斗の胸倉から手を離すと、そのままついっと雄斗の顎をすくいとった。
「己自身も気付いていない、先を明るく見通す瞳……だな。俺は、男でも女でも気に入れば抱いてもいいと思える柔軟な考えを持っているが──」
「それは、単に節操がねえって言うんだ。って、こんな時に何言ってるんだっ。この腐れ妖、いっぺん祓われて反省しろ」
充芭の手を振るい落としながら、雄斗は眩暈に襲われた。
冗談じゃない。この充芭って言う男、空気が読めないにも程がある。こんな変態妖に口説かれたなんて、一生の汚点だ。
「ははっ、冗談に決まってるだろ。真に受けるなよ、可愛いやつだなぁ」
「黙れ、本当に黙れっ」
小馬鹿にされた雄斗は怒りで小刻みに震えるが、充芭は全く気にする様子もなく、目を細めて問うた。
「常盤の結界が、何のためにあるか知っているか?」
質問の意図がわからないまま、雄斗は知っていることだけを口にする。
「日ノ本の安寧のためだと聞いている。この国のすべての憂いは、常盤の結界によって浄化され、いかなる敵からも守られると──」
「なるほど、本当の史実とは決して公にされないものだな」
雄斗の言葉を遮り、充芭は忌々しそうに吐き捨てた。
それだけで、雄斗はピンときた。恐ろしくて口には出せないが。
「お前の考えは、多分正解だ。一言で表すと”大人の事情”ってやつさ」
雄斗の思考を読んだかのように、充芭は皮肉げに唇を歪めた。
「大人っていうのはな、きれいごとを並べて、汚い部分を隠すもんなんだぞ」
「そんなもんわかってる。で、本当のところは、どうなんだ?」
もったいぶった充芭の言い回しに、苛立ちが募る。知りたくない現実を聞かなければならないなら、いっそのこと一気に吐き出してほしい。
そんな雄斗の気持ちは、しっかり顔に出ていたのだろう。充芭の表情から、笑みが消えた。
「いいか、坊や。一度しか言わないから良く聞け。常盤の結界が誕生したのは、三百年前の秋。俗に言う関が原の戦いの前夜だ。決戦前夜までは、徳川軍は圧倒的に不利だった。誰もが、徳川軍の敗北を予想していたんだ。だが、実際に勝利したのは、徳川軍だった。はっはっ……不思議だよなぁ。さて、徳川軍はどんな手を使ったかわかるか?」
答えは、容易にわかった。そして自分の考えが正解だったが、手放しで喜べない。
「まさか……徳川の世は、人ならざるものの力を借りて……戦に勝ったというのか?」
足元がぐらつく。徳川は、正義の名のもとに勝利したと教わってきた。けれど、それを根底から覆そうとしている。
この事実は、決して人の世に出てはいけないものだし、にわかには信じがたい。しかし、充芭の言葉には真実の色がある。
「そういうことだ。察しがいいな坊や」
「坊や言うな!」
雄斗の嚙みつきに、充芭は片眉を吊り上げただけで、再び口を開いた。
「決戦前夜におこなったのは禁忌中の禁忌、神封じさ。神を結界に封じ込めて、その力を我が物にする秘儀。願ったのはもちろん、徳川軍の勝利。そして後世では全ての民からの忠誠と、より盤石な世を創る代価として、結界に生贄を捧げ続けた。瑠華も、その一人だ」
あのふにゃふにゃ娘が、この国の要であり、最も尊い人物だったのだ。
「要の巫女は、聖域を一歩も離れることなく、生涯を護りに費やすのが運命。最後は人身御供となる」
人身御供──その言葉に、ぞわりと寒気がした。
すまん、すまん。ちょっと大げさに言いすぎた。そう言ってほしくて、雄斗は縋るように、充芭を見つめる。
だが充芭はその視線を冷たく跳ね除け、耳を塞ぎたくなるような、結界の秘密を吐露し続けた。




