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再び滲んだ涙を拭いながら、私は黙々と歩を進めていく。そして、目的地にに辿りついた。
私は胸に手をあて、名を紡ぐ。その名は姿こそ見えないが、今でも自分の危機を救ってくれる者の名……ではなく、脇差の持ち主の名前。
自分でも不思議だ。孤独と不安で心が壊れそうになるときに、あの人の名を口にして心の安定を保っていたはずなのに、今は違う。
私が今、呼びたい名は、世界に色があることを教えてくれた人、置いていかないという言葉をくれた人、私のかけがえのない大切な人──雄斗さん。
きっと自分の存在は、雄斗さんにとって迷惑なものだったのかもしれない。けれど、やはり出会えた事はうれしい。
幸せだった短い時間を思い出し、心は満たされたけれど、目的地に足を踏み入れた途端、私の心はくしゃりと潰れた。
「……ああ……どうして?」
眼前に魔物がいる。黒い霧を纏うこの虎のような妖は、かつて自分の孤独を埋めてくれた存在だった。
雄斗さんの腕の中でちらりと見た瞬間、もしかしたらと思っていたけれど、自分の思い違いであればいいのにと願っていた。祈りは、届かなかった。
「とら……なんだよね?」
両手で顔を覆った私の口から、謝罪の言葉が溢れる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
妖は、私の謝罪の言葉を聞いても、微動だにしない。嚙み殺してもいいのに、ただじっと、見つめている。
その健気な姿が、余計に私を責め立てる。
この妖は、結界が破られた後、何とか力を振り絞り、私の元へ駆けつけてくれたのだろう。その結果、こんな無残な姿になってしまったのだ。
「とら……ごめんね……ごめんなさい」
無駄なことをしているとわかっていても、許しを請う言葉が止まらない。
ずっとずっと、あの人と自分を縛り付ける結界が憎かった。消えてしまえばいいと思っていた。見たことのない世界など、どうでもいいとさえ思っていた。
けれど、一歩外に踏み出せば、世界は厳しさと優しさがあり、まるで万華鏡のように、角度によって様々な表情を見せてくれる色鮮やかなものだった。
そして気付いた。自分がどれほどの罪を犯したのか。罪悪感で、身が引きちぎられそうになる。
しかしこの辛さは誰のせいでもない。己自身の責任だから、自分で何とかしなくてはならない。
「私……戻るから……」
結局、逃げても罪は追ってくる。所詮私は、運命という檻の中をぐるぐると、逃げ惑っていただけなのだ。
そして運命は非情にも、こうした形で、現実を突きつけてくる。
わあわあと、子供のように泣き叫びたい。嫌だ嫌だと、駄々をこねたい。けれど、それが出来るほど、私はもう子供ではない。
目の前の妖は、私の傍に行きたいのに魔霧が移るのを恐れ、たたらを踏んでくれている。
「ねえ……とら。私、決めたよ」
私は、片手を突き出し、魔霧にとらわれた妖を真っ直ぐに見つめた。
「それを返して、雄斗さんに謝るの。それでね……」
もう一度会って、今度はちゃんと、お願いしよう。どうか助けてください。重すぎる罪と責を少しだけ持ってくださいと。
そんなに長くはかかりません。そう遠くない未来、私の死という終焉の時まで、ほんのひと時の間、私のために時間をください。共にいてくださいと。
もし、手を振り払われたら、その時は、独り結界に戻ろう。
なおも動かない妖に向かって、私は笑みを向けた。
「最後のお願いを聞いて、とら。そのかわり、あなたを蝕む魔霧を、私が引き受けてあげるから」
私の言葉が届いたのか、とらはゆっくりと近づいてくれる。
手が届く距離まで来てくれたとらを、ひと撫でして、私は背に刺さっている雄斗さんの懐剣を引き抜いた。
数拍おいて、黒い霧は、とらから私へと移っていった。
*
倒れた瑠華の傍で、魔霧がほとんど消えた妖は、寄り添うように鎮座している。雨が、さあさあと降り続く。
そして雨が弱まった頃、一人の男が現れた。銀色の髪が、まるで雨のように背に流れている。けれど、男は全く濡れていない。
「なんで、俺の名を呼ばねえんだよ」
不機嫌というよりは、口惜しさと、やるせなさが入り交じった口調だった。
男は片膝をつき、瑠華を覗き込む。
「お前はあいつを、選んだんだな……」
長い爪を持つ男の指が、瑠華の唇をなぞる。
「お前が決めたのなら、俺はその決断を、是と導くまでだ」
そう呟いた途端、遠くから切羽詰まった足音が近づいてきた。その足音の主が、瑠華の元へ到着する直前、銀髪の男は姿を消した。




