5
さわさわと、柔かい風が木々ゆする。どこからか甘い香りが漂う。これは菓子の香り?違う、花の香りだ。
なんの花かと鼻をひくつかせていたら、高緒姐さまが、唄うようにこんなことを呟いた。
『唇と唇を合わせたら、言葉にしなくてもわかるもんだねえ』
時々姐さまは、突拍子もないことを口にする。
この前は、困ったときは「初めてなんで、上手くできるかわからない」と言えばいいと言っていた。どちらも、使い方がよくわからない。
『何ですか、それ?』
振り返った先には、花が綻ぶような高緒姐さまの笑顔があった。それは、お座敷で見せる完璧な微笑とは違う、こちらまで幸せになれるそんな笑顔。つられて、私も笑顔になる。
『うふふ』
『えへへ』
二人で意味もなく笑いあう。
今は昼見世と夜見世の間の中休み。私は、高緒姐さまの衣をたたみ、姐さまは私の簪を選んでくれている。太陽は西に傾き始め、二人っきりの部屋を橙色に優しく染めている。
こんな穏やかな日が来るなんて思ってもみなかった。それが嬉しくて、でも少し不安で猫のように姐さまにすり寄る。
『高緒姐さま、さっき言ってたことって本当?』
二人っきりの時は郭言葉を使わない約束。だから、わからないことは、素直に口にできる。
『ああ、そうさ。想いを伝えたいときはこれが一番さ』
そう言って姐さまは、白くて細い指先を私の唇に当てた。どうもいまいち、意味がわからない。
『……そういうものなのですか?』
首を傾げながらも、私は決心する。それは、とても便利なものだ。絶対に覚えておこうと。
ふんすっと鼻息を荒くした私に、姐さまは声をあげて笑った。
『ふふっ。間違いないよ。どうしても言葉にできなくて、もどかしいと思った時にやってみてごらん。きっと伝わるよ』
そう言って艶やかに笑う姐さまにつられ、私も再び、えへへと笑った。
いつか、私も言葉にできない想いを伝える日が来るのだろうか。その想いとはどんなものだろう。悲しいのか、辛いのか、それとも、嬉しいものなのだろうか。
期待と不安を抱えたまま月日が流れ、とうとうそれを使う時が来た。
雄斗さんに、結界の修復を望んでいないのかと問われ、すぐに否定することができなかった。あの箱庭のような世界には二度と戻りたくなかったから。
けれど、あの人とずっと一緒には居れない。彼は私にとって、ほんのひと時、傍にいてくれて、温もりを与えてくれただけの人。彼には彼の望みがある。
あの人はずっと、私を通して別の人を見ていたのを知っていた。
だから、遅かれ早かれ別れが来ることを覚悟していた。そして、別れが来たら、あの人とは二度と会えないことも。
けれどそれを言葉で伝えるのは、とても難しかった。だから、姐さまの言う通りに、唇を合わせてみた。
今、自分が傍にいてほしいのは、雄斗さんであって、あの人ではない。私が探していたのは雄斗さんだということを。
その結果、見事に失敗に終わった。……姐さまの、嘘つき。
霧雨の中、私は裸足で横浜の街を歩く。
横浜の地理は、百日紅の館で過ごしている間に、だいぶ詳しくなった。不安はない。私の足は、しっかりと目標の場所へと進んでいる。
歩を進めながら、私はさっきの雄斗さんとのやり取りを思い出す。
胸の傷を見る前からすでに、私は雄斗さんを選んでいた。
今にして思えば、魔祓師かどうかなんて、どうでも良かったのだろう。あの人は、ただ単に、そう簡単に死なない人を選んだだけ。選んで直ぐに、いなくなってしまわないように。
雄斗さんの胸に傷があり、魔祓師と知ってすごく嬉しかった。
これでいいよと背中を押してもらえたようで、嬉しくて嬉しくて──あの広い胸に、全てをあずけてしまいたかった。
でも、雄斗さんは違った。選んだのは私だけれども、差し出したものを受け取るかどうかは、彼が決めることだったのだ。
雄斗さんには、雄斗さんの生き方がある。私の自分勝手な都合で、彼を縛ることなんてできない。
なのに私は、彼の意思も、何の説明もせず、選んでしまった。
狡いことをした。私はこの選定において、彼が何も知らないことをいいことに、卑怯で最低なことをしてしまった。
けれど、私はどんな手を使っても、彼との絆が欲しかった。言葉だけではなく、確固たる切れない絆を得たかった。でもそれは、独りよがりの我儘でしかなかった。
「……ごめんなさい」
そう呟いた瞬間、涙で視界が滲む。これは後悔と、憂慮の涙。
(……それでも……それでも)
ちゃんと伝えよう。拒絶されたら消えたいくらい辛い。もうどれだけ辛いか想像できないくらいに。
そうされた時のことを考えると、不安で胸が押しつぶされそうになる。またあの日と同じように、突き放されてしまうのだろうか。
『ここでお別れだ』
二度と聞きたくない言葉を、再び耳にしないといけないのだろうか。




