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雄斗はそのまま、長椅子で寝てしまい、浅い夢を見た。
夢の中のそこは、初めて見る山間の静かな季節の花々が咲き乱れる地で、湖と呼べそうなほど大きな泉がある。
まるで空を飛んでいるように、雄斗はその場所を高いところから見下ろしていた。
良く目を凝らせば、中央に浮島がある。橋はないが、桟橋があるということは、船で行き来しているのだろう。
浮島の中央に小さな社があることに気付いた途端、雄斗は吸い寄せられるように、社へと引き寄せられた。
社の中に入った瞬間、クスクスと少女の笑い声が聞こえた。その声を頼りに、雄斗は社を歩き回る。
見た目は小さいと感じた社だが、中は意外に広かった。室内は、欄間や柱に見事な彫刻がされている。ここはかなりの、高位の身分の者が建立した社なのだろう。
社に響く少女の笑い声が近くなり、雄斗は息を吞む。聞き覚えがあるこの声は、間違いなく瑠華だ。
(つまり俺は、常盤の結界にいるってことなのか!?)
慌てふためく雄斗の視界に、瑠華らしき人影が視界をよぎった。影を追うと、泉に面した板張りに、笑い声の主である瑠華がいた。
雄斗は、突然明るくなった視界に目を細めながら、板張りへと歩を進める。そこに足を踏み入れた途端、雄斗に背を向けていた瑠華はくるりと振り返った。
「見て、見て!これ、蝶々」
振り返った瑠華は真っ白な巫女装束を纏い、下ろした髪に花簪を差している。
瑠華が少し動く度に、花簪がシャラシャラと涼やかな音をたてている。
「きれいね」
にっこりと無垢な笑みを浮かべる瑠華は、横浜で出会った頃より少しあどけない。
これは雄斗が見ている夢だから、瑠華が雄斗の姿を視界に収めることはできない。
そうわかっていても、無邪気な瑠華の笑顔は、まるで自分に向けられているような錯覚に陥ってしまう。
(触りてぇな)
ついさっき酷い言葉を吐き、傷つけてしまったというのに、許してもらえるような気がするのは、あまりに傲慢だとはわかっている。
でも、そんなふうに錯覚してしまうほど、瑠華の笑みは温かかった。
思わず手を伸ばしかけた雄斗だが、次に瑠華が放った一言に手が止まり、盛大に舌打ちした。
「充芭の瞳と同じね」
まぁーた、充芭かよ!会ったこともない男に、雄斗は心の底から怒りを覚える。むっとして、くるりと踵を返したけれど、雄斗の足がすぐに止まる。
雄斗の真後ろには、銀髪の異形の男が欄干にもたれながら、腕を組み、微笑んでいた。
腰まである銀髪を背の中ほどで緩く結び、錆色の単を粋に着こなしている。
「ああ、きれいだな」
充芭はそう穏かに言うと、雄斗をすり抜けて瑠華へと近づく。そして二人は、当たり前のように寄り添った。
「ずっとこうしてたら……いいね」
瑠華の言葉に充芭はそうだなと頷き、抱き寄せる。
幸せそうな光景だが二人の笑みは翳りがあり、胸が締め付けられる。どこか終わりに向かっているようにしか見えないのだ。そこで雄斗は、やっと己の勘違いに気づいた。
二人は、この常盤の結界に護られている間だけ、一緒に居ることができたのだろう。
『何も知らないのに、勝手なこと言わないで』
瑠華の言葉の、本当の意味が分かったような気がした。
静かで虚空の世界に縛られながら、ただ一人、妖という存在以外に何もない世界で、彼女は育ち、生きてきたのだろう。
瑠華は、いつか離れてしまうことを知っていて、妖である充芭を一途に想い続けていたのだ。
その一刻、一刻を慈しみ、充芭と時を重ねていた。いつか消えてしまう恐怖を胸に仕舞い込んで。本当に心の強い少女だ。
改めて、自分の犯した罪に痛みを感じた雄斗は、再び身体が宙に浮く。そして見えない大きな力によって、雄斗の身体は現世へと引き戻されていった。
みるみる間に小さくなっていく社を目にしながら、最後の最後に充芭が天を仰ぎ、ニヤリと笑った……ような気がした。
雄斗はこめかみに鈍い痛みを覚え、目を覚ました。
「──夢……か」
呟きながら雄斗は長椅子から身を起こすと、窓へと歩を進めた。
ガラス越しに映る横浜の街は、まだ暗い。しかし、それは夜明け前だからではなく、雨雲のせいだろう。横浜の街は、薄墨を刷いたかのように重く沈んでいた。
まるで、あいつの衣のようだな。
雄斗は先ほどの夢を思い出し、渋面を作る。あれは夢であって、夢ではない。術師の自分が見た、瑠華の過去だ。
常盤の結界で、二人は悲しげではあるが、それでも幸せそうに微笑み合っていた。
『ずっとこうしていれたら……いいね』
瑠華の切なさと慈しみが溢れた言葉がよみがえる。
二人は知っていたのだろう。そう遠くない未来、常盤の結界が破られることを。幸せな時間は、有限であるということを。
あの寂しく暖かい場所は、永遠に消えてしまったのだ。
「本当に、俺……酷いこと言っちまったな」
雄斗は腕を組んで、窓にもたれ掛かる。
橋の無い湖の中央にある社は、巫女を閉じ込める檻にも見えた。
静まり返ったそこで、瑠華は孤独の中、ずっと常盤の結界を守っていたのだ。唯一、傍にいてくれた充芭という男は、瑠華にとって何より大切な存在だったはずだ。
まったく最悪だ。大人気ないのにも程がある。つまらない嫉妬で、瑠華を泣かせたまま部屋に逃げ戻るなんて。ちゃんと瑠華の話を聞くべきだった。
まずは、瑠華が目を覚ましたら、謝らなければならない。そして、きちんと尋ねなければならない。なぜヘタレ法師である自分を、探していたのかを──。
「雄斗さま!」
バンッと勢い良く開けられた扉で、雄斗の思考は途切れた。
血相変えて飛び込んできた荘一郎に、苛立ちより、不安が勝る。
「ど、どうした?」
雄斗に問いかけられた荘一郎は、すぐには答えない。どう、言葉にすればよいのかわかりかねているようだ。
「もしかして……瑠華に何かあったか?」
それは絶対に否定してほしかった問いだが、荘一郎は苦し気な表情で肯定した。
「姿が見えないのです。先ほど千代が、瑠華さまの部屋に入ったときには……すでに……」
申し訳ありません、と荘一郎は深く雄斗に頭を垂れた。
雄斗は大股で近づくと、荘一郎の肩に手を置き、首を振る。
「お前のせいじゃない」
そう、誰のせいでもない。瑠華がここを出たのは、他ならぬ自分のせいだ。言葉とは裏腹に雄斗は激しく後悔する。
「千代さんにも、そう伝えてくれ。あと、瑠華が好む朝食も整えておいてくれ」
早口で言い捨てた雄斗は、長椅子にかけてあった羽織に袖を通すと部屋を出た。
「雄斗さま、お待ちください。こ……これを……」
雄斗が廊下に出ると、追いかけるように千代の声が背後から聞こえた。
振り向いた雄斗に、千代は一枚の便箋を手渡す。それは、瑠華が書いた雄斗宛ての手紙だった。
雄斗はたった一行の手紙を読み終えると、あの馬鹿野郎と吐き捨てて、外へと飛び出した。




