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禊を終え、雄斗が風呂から出たのは、それから一時間後。
荘一郎曰く、瑠華はかなり動揺していて、千代がずっと付き添っているらしい。
動揺しているのは俺のほうだと、雄斗は苦い気持ちを抱えつつ、瑠華の部屋の扉を開けた。
「……お」
扉を開ける直前までは、ズカズカと入ろうと思っていた雄斗だが、その場から動けなくなってしまった。
最低限の家具しかない雄斗の部屋に比べ、瑠華の部屋は女性が好みそうな愛らしい家具と小物で埋め尽くされていた。これはある意味、敷居が高い。
「あ……雄斗……さん」
部屋の圧で動けなくなった雄斗の元に、瑠華が駆け寄る。
風呂上りのまま雄斗を待っていたらしく、瑠華は夜着一枚で髪は下ろしたままだった。
湯船に浸かって身体を温めたはずなのに、顔は蒼白だ。華やかな部屋で、その姿はとてもちぐはぐで痛々しい。
「雄斗さん……大丈夫?お怪我は……ありませんか?」
瑠華は雄斗の袂を掴んで、問いかける。しかし、雄斗は腕を引いて瑠華の手を払うと、眉間に皺を寄せて横を向いた。
「お前の聞きたいことは、そんなことじゃねえだろ?」
「ちょっと、雄斗さん、あなた──」
千代が何か言いかけたが、雄斗はそれを拒むように口を開いた。
「悪いが千代さん、こいつと二人にしてくれ」
冷たい雄斗の声音に、千代は瑠華に視線を移し、目だけで問いかける。問いかけられた瑠華が、小さくコクリと頷いたのを確認し、千代は無言で部屋を後にした。
「……で、俺に何の用だ?」
もう隠すことはせず、雄斗は淡々と瑠華に問いかける。瑠華といえば、答える代わりに雄斗に全力で抱きついた。
「おわぁ!ちょっっ待て待て待て待て、何なんだ!?」
まったくもって、瑠華の行動は予想がつかない。雄斗は、抱きつ瑠華を、無理矢理引き剝がした。
「お前、一体、何者なんだ?ってか、何で俺を探してたんだよ?」
雄斗は、再び瑠華が抱き着かないよう、両肩を掴みながら問うた。
「あ……そうだった、ごめんなさい」
雄斗の言葉に、落ち着きを取り戻した瑠華は、ぺこりと頭を下げた。
「自己紹介が遅れました。改めまして私、常盤の結界で要の巫女をやっています、瑠華です」
私、甘味処でお団子を焼いてます。という感じの軽い口調だが、その内容は重い。
雄斗は”常盤の結界”という言葉にピクリと眉を動かした。路地裏で拾った野良猫は、実はとんでもないヤツだったようだ。
しかし瑠華は、呆然と立ち尽くす雄斗を無視して話し続ける。
「それで、用事というのは、その……常盤の結界が破られました」
これもまた軽い口調だったが、雄斗は鈍器で殴られたような衝撃が走った。
瑠華は今、背筋が凍ることを、さらりと言ってのけたのだ。
「常盤の結界が破られた……だと?」
「あ、はい。そうなんです。でも──」
「ふざけるな!何でそんなことになるんだよっ!」
気付いたときには、瑠華の肩を掴み激しくゆすっていた。
「……嘘だろ。そんな、まさか……!」
吐き捨てるように呟く雄斗に、瑠華は何も答えず、ただ静かに雄斗を見つめている。
しばらく雄斗が落ち着くのを待っていた瑠華だが、状況が変わらないと判断したのか、ゆっくりと口を開いた。
「あの……落ち着いて下さい。雄斗さん」
瑠華の静かな声音が、余計に雄斗を苛立たせる。
「これが落ち着いていられる状況かよっ」
雄斗は、瑠華を鋭く睨みつけると、肩を掴んでいた手を離して、部屋中をぐるぐると歩き出す。
ふざけるな、誰がそんなことを、冗談じゃない。この三つの語句を繰り返し呟きながら部屋を歩き回る。
傍から見れば、異様な光景に見えるかもしれないが、雄斗にとって、何かをしていないと、いたたまれない状況なのだ。
(この国の礎となるものが、消えてしまった)
常盤の結界の存在は、魔祓師や陰陽師など、目に見えぬものと対峙する者にしか知らされていない、この国の最たる秘密であり、唯一無二の代えがたいもの。
部屋を歩き回っていた雄斗だが、突然ピタリと足を止め、緩慢に瑠華に振り返った。
「なぁ……本当に間違いないんだな?」
「はい、間違いありません」
迷うことなく答えた瑠華に、雄斗は諦めたような笑みを向けた。
「そうか。なら……俺に縋るのはお門違いだ。今、専門家を呼んできてやるから、ちょっと待っとけ」
そう言い捨てて雄斗は、部屋を後にしようと扉を開けようとしたが、瑠華が慌てて引き留める。
「待ってください。雄斗さん!」
初めて耳にする瑠華の厳しい口調に、雄斗は思わず振り返る。瑠華は毅然と雄斗を見つめていた。
「その必要はありません」
静かだが、きっぱりと言い切る瑠華に対して、再び雄斗はカッと血が上る。
「お前、破られた結界をそのままにしとけば……どうなるかわかっているんだろうな!」
「わかってます。でも雄斗さんは、何処にもいかなくていいし、他の術師のお力を借りなくてもいいんです」
瑠華は必死に雄斗に語りかけるが、混乱した雄斗にその言葉は届かない。それだけならまだしも雄斗は、ある一つの……間違った答えを導き出してしまった。
「他の術師を必要としない?はっ、それはお前が、単に望んでいないだけだろ?」
低い声で問う雄斗に、瑠華は僅かに揺れた。
たったそれだけの仕草ではあったが、雄斗を誤解させてしまうには十分なものだった。




