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「ねえ師匠……どうしてなのですか?」
幼い頃、雄斗にとって、師匠は何でも知っている大人だった。自分の疑問に的確な答えをくれるから、師匠の知らないものなど、この世には何もないと信じ切っていた。
けれど、何度問うても、一つだけ答えてくれないものがあった。
「ねえ……どうして……人を斬ってはいけないのですか?」
魔霧が人を脅かすものなら、その元凶である人を斬り、魔霧を生みださないようにすればいい。幼いなりに考え出した答えに、師匠は頷いてくれることはなかった。
納得できない雄斗は、何度も同じことを尋ねたけれど、一度として師匠は望む答えをくれなかった。
「人の理だからですよ。今は修練を積みなさい。そうすれば、おのずと答えは見えてくるでしょう」
そう繰り返すだけの師匠だが、答えは知っていたはずだ。なぜなら、彼の太刀には一切の迷いがなかったから。凛然と前を向く横顔は、雄斗にとって羨望と憧憬そのものだった。
魔霧は、退魔刀によって祓われる。黒く淀んだ霧は退魔刀で斬られると、美しいものへと姿を変えて消滅する。その姿は、術師の技量や感情によって大きく異なる。
師匠は必ず、蝶だった。初めて見た時は、魔物と対峙しているのを忘れ、その美しさに言葉をなくした。
あんな美しく幻想的なものを生み出せる者が、未熟な子供の問いに応えられないわけはない。
知っていても、答えてはいけない。多分、自分で見つけるしかないのだろう。けれど──
(未だに、わかんねえよ)
雄斗は胸の傷に手をあてて瞠目した。
月日が流れても、答えが出せないまま、雄斗は祓い続けた。
いつかきっと納得できる自分なりの答えが見つかると信じて。しかし魔祓師は、僅かな迷いが命取りとなる。一瞬の迷いが仇となり、雄斗は胸に深い傷を負った。
人は記憶する生き物だ。痛みと恐怖は身体に刻まれ、それが縛りとなり、雄斗は術を使うことができなくなった。
たった一度のことなのにと、どれだけ自分自身に言い聞かせていても、いざ退魔となると、身体が硬直して印すら結べない。
それでもお前は、この国の最も秀でた術師の弟子なのかと嘲笑され、魔物から無様に逃げ惑う姿が鳩のようだと揶揄された。
このままでは、壊れてしまう。いずれ自分も魔霧におおわれてしまう。そう確信した雄斗は、多くの犠牲と罪を背負ったまま、魔祓師の道を去った。
事故や病で命を落とすのは、天命。けれど、魔霧に捕らわれることだけはできない。自分は腐っても魔祓師なのだ。それが最後の矜持だった。
今は横浜へ移り住む条件で、名ばかりの魔祓師ではある。でも、あれから一度も術を使ったことはない。きっともう使いたくても、使うことはできないだろう。
それでいいと思っていた。道は一つじゃないから、あえて辛い道を選ぶ必要はない。
襟の詰まった洋装に身を包んで傷を隠し、魔祓師の名を伏せて生きていくことに、雄斗は後ろめたさを感じたことなんてなかった。
それなのに、ここ最近──厳密にいうと、瑠華と出会ってから古傷がやたらと痛む。
もし魔祓師の道を逃げ出さずにいたら、違う未来があったのだろうか。
もう二度と魔祓師には戻らないと決めたのに、なぜ今頃、こんな出会いがあるのだろう。
これが運命なら、くそったれだ。でも瑠華との出会いを、恨んだりはしない。
◆
屋敷の玄関扉を開けると、いつも通り荘一郎が出迎えた。
「おかえりなさ……っ!」
雄斗の引き裂かれた洋装を目にした荘一郎の顔色は、一瞬で蒼白になる。
「心配するな。ちょっと魔物と会っただけだ」
こともなげに言い捨てたが、今にも荘一郎は、屋敷の外に飛び出そうとしている。それを雄斗は、笑って止めた。
「行っても無駄さ。これを使ったから、もう消えた」
荘一郎の前に立ち塞がった雄斗は、瑠華の手元を指す。
瑠華の手には、雄斗の脇差の柄が握られていた。話をするまでは、絶対に渡さないと言いたげに、両手でしっかりと握っている。
「わかりました……お二人とも、お怪我はありませんか?」
雄斗は首を横に振ると、瑠華の背を押し、荘一郎に押し付ける。
「二人ともピンピンしてるから、安心してくれ。でも瑠華には、急ぎ湯を使わせてやってくれ。俺は後から使う」
有無を言わせぬ雄斗の口調に、荘一郎は無言で頷いた。
二人を残して、雄斗は自室に向かう。瑠華の部屋を通り過ぎた瞬間、足を止めしばらく扉を見つめた。口を閉ざし、蒼白なままの彼女のことが気にかかった。
しかし、今はそれどころではない。師匠の施した結界がこの家を護っているとはいえ、身に付いた穢れは、すぐに祓わなくてはいけない。
部屋に戻った雄斗は、破れた洋装を脱ぎ捨て、単衣に袖を通す。次いで、慣れた手つきで襟を整え、帯を締めた。最後に渋面を作り、ため息を一つ。
横浜に移住した途端、雄斗は屋敷を住みやすく整えることよりも早く、洋装を一式用意した。
心機一転したかった気持ちもあったが、胸の傷跡を隠すには、襟の詰まった洋装がうってつけだった。
今では洋装にすっかり慣れてしまったせいで、和服に違和感を感じてしまう。
「まったく、今日は厄日だ」
ぼやきながら禊のために部屋を後にする雄斗は、この日、自分の人生が大きく変わる瞬間だということは、まだ気付いていなかった。




