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はあはあ……と、荒い息を繰り返しながら、雄斗は家路を疾走している。人通りは殆ど無い。形振り構わず疾走する姿を目撃されなかったのが、唯一の救いである。
あの護符は、魔物の動きを封じる基礎中の基礎。護符を放った術者の技量ではなく、それを作った者の腕の良し悪しで左右される。
雄斗の師匠は、かつて日ノ本に点在する魔祓師を統べる頭だった。その師匠が作った護符なら、かなりの時間足止めをしてくれることは間違いない。
坂道の中腹にある街路灯までたどり着くと、雄斗は歩を止め、大きく息を吐いた。
ここまでくれば、百日紅の館までは目と鼻の先だ。屋敷には、師匠の強力な結界が張ってあるので、魔物は入り込むことができない。
辺りは、すっかり暗くなっていた。夜空を見つめ、雄斗は上着の襟を正し、息を整える。そして何事もなかったかのように歩き出そうとした瞬間、街路灯の真下で小さな影がゆらりと動いた。
「は?……る、瑠華なのか!?」
思わず雄斗が声を荒げた途端、影の主である瑠華は、街路灯の真下から飛び出した。そしてあっと思った瞬間には、瑠華に抱きつかれていた。
「無事で……良かったです……」
瑠華は声を震わせながら、雄斗を抱く腕に力を込める。この細い体に、どこにそんな力があるのだろうと思うくらいに。
しかし雄斗は、わなわなと拳を震わせていた。
「逃げろって行っただろ!」
「嫌です!待つのも、置いていかれるのも嫌なんです!!」
激昂した雄斗の声を遮るように、瑠華は頭を振りながら、より腕に力を込める。
瑠華は、知ってしまっているのだ。手を離してしまったら二度と会えないことを。どれだけ願っても届かない祈りがあるということを。
だから残される痛みはもう二度と味わいたくないと、子供のように嫌だ嫌だと叫ぶのだ。
「もう……一人は、嫌なんです、私」
独り言のように呟いた瑠華は、雄斗から腕を離してうな垂れた。まるで叱られることをわかっている子供のように。
「わかった……もう、何も言うな。俺こそ……怒鳴って悪かった」
雄斗は瑠華の手を握り、歩き出す。
瑠華の痛みは、雄斗も知っている。けれど、きっと瑠華の傷を癒すのは、自分でなく、別の男だろう。だけど……これだけは、言わせてほしい。
「俺は、置いていかないからな。絶対に」
いや違う。自分が、瑠華のことを置いていけない。
その言葉までは伝えられない雄斗は、握る手に力を込めた。瑠華の足が止まる。
「……本当に?」
縋るように見つめる瑠華の瞳には、疑惑と期待が入り混じっていた。
「ああ、約束する。絶対に、俺は、お前を、置いていかない」
ゆっくりと、一つ一つ言葉を区切りながら、瑠華に伝える。そう言いながら、何だかこちらが恥ずかしくなってきた。
雄斗は、からりと笑うと、つないだままの瑠華の手を、軽くゆすった。
「あー……帰ったら、千代さんが、甘いもん用意してるといいなぁ」
「ふふっ……そうだと嬉しいです」
独り言のつもりで呟いたら、瑠華から返事がきた。次いで二人は同時に見つめあう。何とはなしに、指を絡ませあう。
くすぐったい気持ちは帰宅まで続くと思った。しかし、屋敷まであと僅かのところで、再び雄斗の双眸が険を帯びる。先ほどよりも、険しく、微かに絶望の色すら浮かべて。
「ったく、師匠の護符を破るなんぞ、冗談だろ?おい」
冷笑を含んだ声音に、余裕は微塵もない。
なぜなら、先ほどの魔物が突如雄斗達の目の前に現れたのだ。最悪なことに、先ほどの術で護符は使い果たした。
一番最悪なのは、この魔物を払う術を雄斗が持っていないこと。
『雄斗さん、あなたがしっかり瑠華ちゃんを護れば良いだけのことよ』
ふいに、今朝の千代の言葉が蘇る。
(そんなの、言われなくてもわかってるさ)
叶わない想いを抱いていても、守りたい気持ちは消えることはない。
「瑠華、しっかり掴まっとけ!」
意を決した雄斗は、瑠華を肩に担ぎあげると、屋敷に向かって走り出した。
そして足を止めずに、懐に忍ばせていた懐剣を取り出すと、片手で器用に鞘を抜く。
魔物は屋敷の前で立ち憚り、間合いに入ってきた雄斗達に鋭い爪で切りつける。しかし雄斗は、間一髪でそれを避け、力任せに懐剣を魔物に向かって投げつけた。
懐剣は魔物の背に突き刺さり、青白い光を放つ。傷を負った魔物は唸り声を上げ、咆哮を上げようとした。が、その口から放たれたのは、禍々しい人の言葉だった。
「絶対に俺は認めない。滅びろ!すべて滅んでしまえ!!」
それは自害した芳之助が、かつて街中で放った言葉だった。間違いない。この虎もどきの妖は、芳之助が生み出した魔霧を受け、魔物になってしまったのだ。
「なんてことだよ……」
遺恨を残して死んでしまった人が生み出した魔霧は、最上級に強力で、厄介だ。
喘ぐように呟く雄斗の言葉と重なるように獣独特の雄たけびが聞こえたが、一瞬で魔物は夜の闇に掻き消された。血の一滴、獣毛一本すら残さずに。
「怪我はないか?」
抱きかかえていた瑠華を地面に下ろしながら、雄斗は問いかけた。しかし、返事は無い。慌てて瑠華を見たが、目視では、大丈夫なようで安心する。
きっと、混乱しているに違いない。徒人の目には魔物は映らない。だから瑠華には、何も見えていないし、何が起こったのかもわからないはずだ。
「……屋敷まで歩けるか?」
再び雄斗は瑠華に問いかけるが、瑠華は雄斗を無視して、道端にしゃがみ込んだ。
「何やってんだ?屋敷に戻る──」
「裏山桜の家紋ですね」
雄斗の言葉を遮り、瑠華は立ち上がった。手にしていたのは、先ほど雄斗が魔物に投げつけた懐剣の鞘。そこに刻まれた紋は、裏山桜。
桜は、日ノ本の象徴。山桜は高尚という意味を持つ。
裏山桜の紋は、この国を陰で高尚に護る者のみが持つことを許されている。そして、この紋を持つものは総じて魔祓師である。
雄斗と向かい合った瑠華は、まっすぐ雄斗を見つめた。いや、正確に言えば、雄斗の身体の、ある一点だけを凝視していた。
嫌な予感がして瑠華の視線を辿った雄斗は、眉間に深い皺を刻んだ。最悪だ、と小さく吐き捨てて。
洋装は、魔物の爪によって洋装が引き裂かれていた。ぼろ切れと化した服は、鎖骨から左胸にかけて醜く抉れた傷跡を隠すことができなくなっていた。
左の肩から胸にかけて袈裟懸けに傷がある。
それは、瑠華が探している者の特徴で、雄斗が手にしていた懐剣は、魔祓師である何よりの証拠。
瑠華は、恐る恐る雄斗を見つめる。雄斗と目が合った瞬間、ゆっくりと口を開いた。
「あなたが……」
「屋敷に帰ってからだ」
雄斗は厳しい声で瑠華の言葉を遮ると、屋敷の門を開ける。門をくぐりながら、雄斗は心の中で思いっきり舌打ちをした。
「くそっ。やっぱり、佐野さんの言うことを聞いとけば良かった」




