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前を歩く雄斗さんは、一度も振り向いてくれない。
お茶を淹れたら旨いって褒めてくれて、笑顔を見せてくれたのに。
百日紅の館で過ごしている間、ずっと私は雄斗さんの役に立てるよう、たくさんのことを勉強した。でも努力の甲斐なく、私は彼を怒らせてばかりいる。
情けないけれど、怒っている理由がわからないから、どこを直せばいいのかわからない。
あの人は、私に生きていくために必要な知識を与えてくれたけれど、いざ一人になってみると、何も知らずに生きてきたことを思い知らされた。
本当にお前は無知すぎると、郭のばば様には随分と怒られ、最後には呆れられてしまった。
高緒姐さまは、私に何も期待していなかったのか、怒られたことは一度もない。
ただただ優しく、そのままでいいよとすら言ってくれたけれど、私自身が、そのままでいたくない。
雄斗さんには、たくさん聞きたいことがある。どうして、出会って間もない私に、ここまで親切にしてくれるのか。どうして、こんなに心配してくれるのか。
ひと月ほど前に男に刃を向けられた後、ものすごく怒られた。でも表情は、憤怒ではなく、まるで痛みを堪えているような顔だった。
こんな表情をする人を、私は一度も見たことがなかった。そして、同時に思う。雄斗さんが、私の探し人だったらいいのにと。
故郷を壊す直前、あの人は私に美しい夢を見せてくれた。
満開の夜桜の下で、ほのかに光る太刀を構える魔祓師。顔は見えないけれども、しなやかな身体を持ち、老人でもなければ幼子でもない。男の人だった。
黒い着物を着た魔祓師は、きっちりと襟が合わさっているのにもかかわらず、なぜか肩から胸にかけて袈裟懸けに傷があるのが見えた。
(……どうして?)
不思議に思った瞬間、私は夢から覚めた。
「あれが、お前が探す男だ。忘れるなよ」
目が覚めたばかりの私を見下ろして、あの人は静かに言った。
私の<全て>である、あの人の言葉は絶対だ。疑問に思うことなんて、あってはならない。そのはずなのに、私はあの人にこう問いかけた。
「違う人を選んだら駄目なの?」
「っ……!いいさ、かまわないさ」
目を丸くしたあの人は、膝をつき私を抱き寄せた。
「お前が、決めていい。こいつだと思ったら、迷わず選べ」
優しい言葉を紡いでくれたあの人は、寂しそうであり、どこか嬉しそうだった。
それから私は、たくさんの男の人とすれ違い、言葉を交わし、探し続けた。
雄斗さんが私を助けてくれたとき、「この人だったらいいな」と思ったけれど、それは一時の気の迷いかと自分を疑った。
でも、一緒に過ごせば過ごすほど、雄斗さんを選びたい気持ちは日増しに増えていく。
雄斗さんは、魔祓師とはまったく縁のない仕事をしているし、襟の詰まった服装では、肩から胸にかけて傷があるのかもわからない。
(一つでも、夢の中の人と共通点があればいいのに……)
あの人は、選択権を私に与えてくれた。それは好きにすればいいという自由でもあるが、大きな責任が伴う。
だから、ずっと雄斗さんを選んでもいい理由を考えていた。今日はせっかく銀杏堂に連れてきてもらえたのに、考えすぎて頭が疲れて昼寝をしてしまった。情けない。
夢の中でも、私は悶々と悩んでいて──そうしたら、夢の中で雄斗さんが出てきてくれた。あまりに嬉しくて、飛びついたら、なぜか彼は固まってしまった。
どうしよう、怒ったかな?何度謝っても雄斗さんは固まったままで、途方に暮れた私は耐え切れず奥の手を使ってしまった。
自分ひとりの力ではどうしようもない時に口にする言葉。あの人の名前──充芭。
今まで、あの人の名を呼ぶと、どんな危機も回避できた。雄斗さんの笑顔を見れないからといって危機的状況にはならないが、私の心は、間違いなく途方に暮れていた。
だから奥の手である、あの人の名を呼び、目を覚ました。瞬間、半目になった彼が覗き込んでいた。使い方を間違えてしまったのだろうか。
「──……あっ」
考え事をしていたせいで、私の歩調はだいぶ遅くなってしまっていた。雄斗さんのすぐ後ろを歩いていたはずなのに、随分と距離が離れてしまっていた。
慌てて小走りになるが、距離はいっこうに縮まらない。
(どうしよう。このままだと、置いて行かれる)
不安に思った途端、黒いもやもやとしたものが背後から忍び寄る。
(……だめ。今、振り向いては、ぜったいに駄目)
闇に覆われてしまう。身も心も。それは、とてつもなく痛い。そして、すぐ後ろにいるものに捕らわれたら、私は二度と立てなくなる。
だから、彼の背に向かい願う。
どうか、振り向いてください。ほんの少しでいいです。あなたの心をほんの少しだけ、こちらに向けてください。
私が闇に捕らわれないように、捕まえていてください。
そう願い続けた結果、小石につまずいた。




