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権三郎が帰ったあと、雄斗は残った書類を片付け、瑠華は湯呑を洗って絵本を開く。落ち着きを取り戻したのは、一時間ほどたった後だった。
「──ところで瑠華、そういえば、お前が探している人のことなんだが……」
さも毎日、探し人の捜索をしているという体で、雄斗は長椅子に座っている瑠華へと歩を進めた。
「そいつを見つけて何をするんだ?本人にしか言えないじゃ──って、……寝てんのかよっ」
歩きながら問いかけ続けた雄斗は、最後は小声で突っ込みを入れた。あろうことか、瑠華は長椅子に座ったまま居眠りをしていたのだ。
寝ていることに苛立つことはないが、一応、雄斗は男である。相変わらず警戒心を持たない瑠華に、どんな気持ちになればいいのかわからない。
「ったく、こんな格好で寝てたら、首が痛くなるだろ」
膝をついた雄斗は、壊れ物を扱う手つきで、そっと瑠華を横たえる。それから、自席の椅子にかけてある上着を取りに戻り、瑠華にかけた。
「……風邪引いたらどうするんだよ」
帰るところを失ってから、がむしゃらに探し人を求めた瑠華は、気を張り続けているのだろう。
でも今、こんなふうに無防備に寝顔を見せてくれると、自分が彼女にとって特別な存在だと言われているようで、胸の奥がくすぐったい。
「もう、諦めろよ。このままで……いいじゃねぇか」
望むものはなんでも与えてやる。ずっと穏やかな気持ちでいさせてやる。
ふにゃふにゃしているくせに、しっかりと芯が通っている瑠華は、雄斗の助けなんか必要ないのかもしれない。でも雄斗は、傍にいてほしい。
「なぁ、瑠華……いいだろ……な?」
柔らかいの髪から甘い香りが雄斗の鼻腔をくすぐる。少し開いた小さな唇は、まるで誘っているかのようだ。
無意識に雄斗は瑠華の髪を一房すくって、指先に絡める。絹糸のような黒髪は、雄斗の欲望を更に刺激し、理性で抑えることが苦しい。
(何やってんだよ、俺……)
初めて恋を知った少年みたいな自分に戸惑いつつも、それの何が悪いんだ?と、開き直る自分もいる。
仕方ないじゃないか。これほど自分の心が、かき乱されたんだから。
そんな都合のいい言い訳をした途端、瑠華がふっと瞳を開けた。
寝ぼけているのか、視線は定まらずぼんやりと周囲を見回している。そして、雄斗を視界に留めると、ふにゃりと笑顔になり雄斗の首に腕を回した。
「お、おい……」
触れたら折れてしまいそうな程、細く柔らかい瑠華の身体が密着する。それは、雄斗がまさしく望んでいたことだが、逆に受ける側になると、それ以上手が出せない。
されるがままになっている雄斗をいいことに、瑠華はもっと腕に力を入れた。同時に、吐息のような甘い囁きを、雄斗の耳に落とす。
「……充芭」
瞬間、雄斗は眉間に深い皺を刻む。天国から地獄に突き落とされたような気分だ。
暗澹たる気持ちになった雄斗に気づいていない瑠華は、再び寝息をたててしまい──それから夕刻まで、一度も目を覚ますことはなかった。
晩秋の日暮れは早い。太陽が真上にいるかと思ったら、あっという間に西の空に傾く。
ポツリポツリと、街灯にあかりが灯り始めた頃、 からんころん、と入口に取り付けてある鐘の音が事務所に響いた。
「ただいま戻りました」
いつも通り二階に顔を出した佐野だが、出迎えてくれる声は聞こえない、むなしく自分の声だけが、こだまする。
事務所が無人というわけではない。二階には、雄斗と瑠華がまだ残っている。ただ雄斗は、不調面で机の上に足を投げ出しており、瑠華は怯える子猫のように長椅子で身を縮こませている。
昼までは、和気あいあいとまではいかなくても、こんな不穏な空気ではなかった。一体、空白の数時間で何があったのだろう。
首を傾げる佐野だが、もしかしたらと口を開く。
「瑠華さん、寝ちゃいましたか。ははっ、今日はお天気も良くて、絶好の昼寝日和でしたからね。いいじゃないですか、雄斗さん。お昼寝ぐらいしたって──」
「別に、俺は怒ってねぇよ」
「あ、そうですか」
その顔で、良く怒ってないと言えたなと苦笑する佐野だが、瑠華にとって雄斗の不機嫌な声は、より追い詰めるものだった。
「雄斗さん、ごめんなさい」
「……なんで、お前が謝るんだよ」
泣きそうな声で謝られると、より惨めになってしまう。頼むから、黙っててくれ。
そう祈りに近い気持ちで訴える雄斗の心は、現在、とてもやさぐれている。
しかし瑠華が寝ぼけて自分を別の男と間違えたことを、死んでも責めたくはい。
そして、充芭という男こそ、瑠華が探し続けている人なのだろう。名を呼ぶ声から、愛しさが伝わってきた。
(どうせ、俺なんかただの恩人止まりさ……くそっ)
自分の気持ちをありのまま伝えることも、誤魔化すこともできない雄斗は、腕を組んで黙るしかない。
これ以上瑠華から謝罪の言葉を聞いてしまったら、余計に苛々してしまい、瑠華をもっと傷つけてしまう言葉を吐いてしまいそうだ。
事務所は、もうどうすることもできない重い空気が充満している。しかしここで一番の大人である佐野は、普段より明るい口調でこう言った。
「雄斗さん、そろそろ日も暮れて来ましたし、今日はここまでにしましょう」
佐野の気遣いに気付いた雄斗は姿勢を戻し、机の上に投げ出してあった書類を片付け始めた。
「馬車を待つ間、お茶でも淹れますね」
佐野もテキパキと片づけながら、再び雄斗に声を掛ける。しかし、雄斗は少しの間考え、首を横に振った。
「いや、茶はいらねえし、馬車もいい。今日は歩いて帰る」
こんなもやもやした気持ちのまま、瑠華と狭い馬車の中で帰宅するのは気が重い。ついでに、スー・山田の戯言に付き合う余裕もない。
気持ちを切り替えるためにも、散歩がてら港まで足を伸ばして頭を冷やそう。
「駄目です。馬車をお待ちください」
めずらしく佐野は語尾を強め、主張する。しかし雄斗は首を縦に振らず、上着に袖を通すと未だ俯いたままの瑠華に声をかける。
「瑠華、お前は馬車で帰れ」
「い、嫌です……い、一緒に帰ります」
瑠華は弾かれたように顔を上げると小走りで、雄斗の元へと駆け寄った。
「お二人ともそう言わずに、今日だけは……」
「悪いが佐野さん、戸締りを頼む」
なおも引き止める佐野の言葉を遮るように、雄斗は事務所の扉を乱暴に閉めた。
しかし、雄斗はその四半時も経たずに、深く後悔する。佐野の忠告を聞いておけば良かったと。
そして、これを機に雄斗は佐野の忠告だけは耳を貸すようになる。




