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浪士の残党に襲われかけたのがよっぽど怖かったのか、雄斗と佐野の説教が胸に響いたのかわからないが、瑠華はそれから百日紅の館の敷地内で過ごすようになった。
朝食を雄斗と共に取り、出勤する雄斗を見送り、帰宅した雄斗を出迎えて一緒に夕食を取る。当然、別々の部屋で就寝する。
百日紅の館の女中は、千代の他に2人いる。まだ十代前半の双子の姉妹──セイとアケは、動乱期に両親を失い、館の前で倒れていたところを、千代に拾われた。
荘一郎の遠縁にあたる初老の男も、使用人の一人だ。若いころ、素手で熊を倒した経歴を持つ彼は60近くなるが、まだまだ現役。庭師も兼ねて百日紅の館でバリバリと働いている。
瑠華は、そんな人たちに囲まれ、日中は花壇の手入れを手伝ったり、千代に裁縫を教わったり、セイとアケと一緒に厨房で料理をしたりと、楽しく過ごしている。
秋は日に日に深くなり、木々は紅色に変わっていく。朝晩の冷え込みが激しくなり、部屋には火鉢が置かれ、温かい飲み物が身体にしみる。
ゆっくりと変わっていく日々を、瑠華は自然に受け入れているように見えた。
使用人たちは、瑠華が廓から逃げ出した振袖新造だと知っても好意的だ。雄斗はといえば、瑠華と過ごす日常が、思っている以上に心地よい。
「このまま、人探しのことなんか忘れて、ずっとここにいればいい」
声に出すことはしなかったが、雄斗は強く望んでいる。
しかしそれは、雄斗の一方的な願いでしかなかった──。
「嫌です」
「駄目だ」
今朝の百日紅の館では、この会話が小一時間程、繰り返されていた。
食堂のテーブルを挟んで雄斗と瑠華は、本日の出勤について苛烈な争いを繰り広げている。
瑠華は、人探しを諦めていなかったようで、朝食を食べ終えると、また銀杏堂に行きたいと言い出したのだ。
対して雄斗は、引き続き屋敷にいるよう瑠華を説得したが拒まれてしまい、今では子供の喧嘩のようになってしまっている。
「瑠華、お前なぁ、いい加減にしろよ。駄目に決まってるだろ!横浜がどんな街か忘れたのか?また怖い思いをしたいのかよ。それに、廓から逃げ出したことも忘れたのか?」
「忘れてなんかいません。街には怖い人がいっぱいいることも、ちゃんとわかってます。それと……廓から逃げてしまったことは、もう大丈夫だって。心配いらないって、雄斗さんが言ってくれたじゃないですか」
「う……っ!」
痛いところを突かれた雄斗は、思わず押し黙ってしまった。
(くそっ、なんで俺、廓の件を喋っちまったんだろう……)
激しく悔いる雄斗だが、伝えたのは他ならぬ自分だ。
食事中でも沈んだ表情を浮かべる瑠華を見ていられなくて、包み隠さず綺麗に後始末をつけたことを伝えてしまったのが間違いだった。
でも、ほっとして笑みを浮かべた瑠華に、何かが満たされたのも事実で、落ち込んだまま放置できていたかと問われれば否である。
「まぁ、確かに廓の件は心配いらないが、それでも駄目だ!」
これ以上言い争いをすれば、こちらの分が悪くなることを察した雄斗は、一方的に言い捨て、席を立とうとした。けれども──
「雄斗さんは、そんなに私と一緒にいるのが嫌なんですか?」
瑠華の罪作りな質問は、雄斗を再び席に戻すのに十分な効力を発揮した。
「嫌とか好きとか、そういう問題じゃない!い、いいか……もう一度言う。これが最後通牒だ。ここで大人しくしてろ。駄々をこねるなら、部屋に鍵かけて閉じ込めておくぞ!」
だんっと、雄斗は勢いに任せて、拳をテーブルに叩きつけた。反射的に、瑠華は、身を竦ませる。
(やっべえ……また怖がらせちまった)
雄斗の顔に焦りが浮かぶ。咄嗟に、莊一郎に助けを求めたが、有能なはずの執事は、あらぬほうを向き「あー、今日もいい天気ですね」などと、どうでもいいことを呟いている。雄斗の味方をする気は、さらさらないらしい。
気まずい空気が食堂に広がる。恐る恐る瑠華を見れば、黒目勝ちの大きな瞳が揺れている。あとひと言、きつい言葉を口にしてしまえば、間違いなく泣いてしまうだろう。
ここはもう、折れるしかない。折れたくないが、大人の雄斗が、もっと大人にならなければならない。
しかし、万が一のことを考えると、百日紅の館から出したくない。ここより安全な場所など、ないはずだ。あったら、逆に嫌だ。
そんなふうに雄斗が葛藤していると、突然、ぱんっという乾いた音が、食堂に響いた。音もなく入ってきた千代が、両手を打ち鳴らしたのだ。
「はい、そこまでですよ」
穏やかだが、決して逆らうことのできない声音に、雄斗は自然と千代に目を向ける。
「雄斗さん、可愛い瑠華ちゃんを怖がらせるなんて情けないわ。それから、瑠華ちゃん、雄斗さんの言う事は穏やかではないし、口も悪いし、一方的だし、威圧的だし、偉そうだし、もう何て言うか逆らいたい気持ちは十分にわかる。でも、ね……確かに危ないわ」
耳障りな単語の羅列に文句の一つでも言いたくなる雄斗だが、それより先に千代が再び口を開いた。
「この私が、両方の問題を一気に解決して差し上げます」
胸を張って言い切る千代の目は輝いている。経験上こういう時、千代は良からぬことを考えている。
ちらりと莊一郎を見ると、彼は悟り切った表情で、紅茶を淹れていた。
有能な執事である荘一郎は、愛妻家でもある。絶対に雄斗の視線には気付いているはずだが、決して視線を合わせようとはしなかった。
──千代が瑠華を連れ去ってから、一時間後。
「じゃーん、これなら大丈夫ですわ!」
再び食堂に姿を現した千代は、満面の笑みで背に隠していた瑠華を、前面に押し出した。
それを目にした雄斗は、力なく呟いた。
「っ……!ぉ……ぅ……な、なんでそうなる」
千代に押し出された瑠華は、着物姿から一変して洋装になっていた。
朽葉色のくるぶし丈のワンピースには、袖口と襟元にレースが施されている。桃割れに結ってあった髪は下ろされ、幅の広いリボンで飾られている。完全に洋風に仕上げており、パッと見るだけでは、瑠華とは気づけない。見事な変身だった。
おそらく千代は、「要は瑠華だとバレなきゃいい」と判断したのだろう。
確かに、雄斗も佐野も洋装である。洋装を貫く理由はあるのだが、待ちゆく人は、単に銀杏堂の作業着としか認識していない。
それを逆手にとって、瑠華も洋装にすれば、新しい銀杏堂の従業員と思うだけだし、桐嶋家の次男坊が経営する銀杏堂にちょっかい出そうと思う輩は少ないはずだ。
しかし、横浜が危険な街であることには変わりがないし、更に可愛くなった瑠華を外に出すなんて危険すぎる。
「大丈夫って……こんなんで安心できるかよ」
「あら?何か問題でもありまして?」
頬に手を当てとぼける千代は、雄斗だけにわかるように意地の悪い笑みを送る。
難色を示したところで、理由は口にすることができない。そんな雄斗の思考を読んだかのように、千代はふふっと柔らかい笑い声を漏らす。
「残る小さな問題は、雄斗さん、あなたがしっかり瑠華ちゃんを護れば良いだけのことですわ」
「……もちろんだ」
千代の言うことは、もっともである。それに、これ以上ゴネたところで勝ち目はない。
この屋敷には不文律の掟がある。それは、”鶴の一声”ならぬ”千代の一声”。誰が何と言おうと、千代の言う事には絶対なのである。




